説教:木村長政 名誉牧師

 

21回 コリント6章8〜11節             2018年8月26日(日)

 

パウロが書きました、コリント信徒への手紙を見てきました。

今日の礼拝では6章8〜11節のみことばです。

 教会という所は、いろんな人の集まるところです。集まった人、その人、その人の人生のたどって来た道がちがっています。人生の中で経験して分かった事、失敗した事、もう様々な人が神を礼拝しに、集います。不思議な団体です。そこに書かれている教会も不思議な事が起こっています。

この頃になって私も自分のたどって来た人生をふり返ってどうしてこうなって来たのだろうと、不思議なことがいっぱいあります。高校生の頃、電気技術者になろうと、目指して福岡で就職し、そうして東京オリンピックの年昭和39年に東京へ出向し、そうして不思議な事にとうとうルーテル教会の牧師になってしまいました。教会も全くちがったタイプの教会を転々として最後には老人ホームの施設長を10年間勤めて退職でした。

結婚式もやりましたが、教会の葬式もいっぱいやってきました。考えてみると、何と変化に富んだ教会生活だったことか、不思議なことであります。

パウロは、自分が命がけで伝道した教会が教会に集う人々によって、又まわりからの時代の変化によって、自分では想像もしなかった堕落してしまった実状を知らされて、ただがっかりするだけでなく、教会のあるべき神の望まれる、神の御旨を示そうと必死であります。

まず、教会は、いろんな人の集まりで、罪人の集まりである、という事を記しています。それを一般的にふつうに言うなら、罪人の集まるところに誰がわざわざ行くでしょうか。ところが、教会が罪人の集まりである、という言い方には、特別な意味があって、言っていることでしょう。

パウロは、ありのままに、コリントの教会の内部を暴露しています。

6章8節を見ますと、「あなた方は不義を行い、奪い取っています。しかも、教会の兄弟に対してもそうしている。」それに続いて、9節以下では、もっと具体的な事実をいっぱい書いています。

9節「正しくない者が、神の国を継げないことを知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の者を奪うもの決して、神の国を受け継ぐことができません。」

そうした人々が教会にいた、と言うことです。そして、11節で微妙な言い方をしています。「あなた方の中には、「そのような者もいました。・・・

 

今日の教会ではどうでしょうか。まさか、ここに書いてあるような人々が教会にいるとは考えられませんが、それでも、貪欲な者、そしる者、酒に酔う者等ということになると、全くいない、とは言えない。問題は、教会が罪人の集まり、とは言ってもただ、罪人の集まり、ということとは違うということ。このように書いてあるからと言って、みんながみんなそうである、ということではなくて、そういう者たちかいた、ということであります。信仰上のことは、考えないで具体的にどんな罪人なのかを知らねばならない。私には罪があります、というのではなくて、もしそうなら、どんな罪があるかということです。神の前に正直に言うと、それは数えきれない位でしょう。しかし、何となく罪人である、ことと、実際に罪人である、こととはちがうはずであります。私たちが罪人である、と告白する時には

神の前に全く罪人である、ことを言い表すことであります。が、その反面、自分がどんな意味で罪が有るかを知っていることも必要なのです。

神に対して、懺悔すると共に、実際に、あの罪、この罪をはっきり言い表すことであります。

コリントの教会の中の良くない事が横行している、彼らは「神の国を継ぐ事はない」と言っているのです。これらの人々が神の国を継ぐことはない」と言っているのです。これらの人々が神の国を継ぐことはないことは誰にでも明らかなことであります。

神の国というのは、神が支配されることであります。それならば、この世に神の支配が行われるようになるのは、この教会の人々によるはずであります。しかし、このままでは、できない、と言っているのです。教会は神の国を継ぐことであります。しかし、今、現に、このような悪行をしている人々が神の国を継ぐことはできません。

そこでもう一度、11節を見ますと、「あなた方の中には以前は、そんな人もいた」と書いています。そうすると、今はどうでしょう。今は立派な信者であるが、以前はそういう事をした人もいた、ということになる。

教会は神の国を継ぐものでありましょう。そうであれば、そういう人々の集団である教会が神の国を継ぐことになります。つまり、罪人が神の国を継ぐのです。もっと正しく言えば、罪人こそが神が、この世を支配しておられる事を明らかにすることができる、ということになるのです。これは

まことに奇妙なことであります。

普通には、神の国を継ぐのは正しい人であるはずでしょう。過去にも暗いものを背負っていない人々でありましょう。しかし、はたして、そうでしょうか。

神が支配しておられる事を現すのは、正しい人、正しいと自分から思っている人でありましょうか。そうした常識はまちがっていないでしょうか。自分が正しいと思っている人々は、神の支配を現さないで、かえって、その人の思い、人間の思い、人間の正しさを現そうとするのではないでしょうか。

神のなさることが気にいらなければ、いつでも神を気ぎらいし、神に悪態をつくでしょう。正しいのは自分であって、自分が正しい時に、神はこの世

を支配される、ということに、なるのであります。ところが、ここでは、罪人の集まりである教会が、神の国を継ぐというのであります。なぜそうなのでしょう。それは罪人こそ、神の正しさを現すことができるからであります。罪人は自分の中に、何の「正しさ」をも認めることができません。

ただ、神が自分を正しい者と扱って下さる、ことによって、自分を通して、神の支配を現すことができるのです。イエス様は、罪人らと交わることを喜こばれました。「神の国は来た」と仰せにになったこの方が正しい者を求めないで、むしろ罪人と交わり、罪人を喜び、とされたのであります。

罪人は自分の正しさを知りません。自分がこうして生きていることができるのは、神の正しさのおかげである、という事が分かっているのであります。

それゆえに、です、罪人は神の国を継ぐことができるのであります。そういう罪人の集まりである教会こそは、神の国を継ぐことができるのであります。

なぜなら、教会の中の人は自分が「正しい」とは思っていないのであります。正しい方は、ただ、「神のみ」であることを知っているからであります。自分が罪人であることを知った者のみが、神の国を継ぐことができるのであります。このように言うからといって、罪人そのままの教会が神の国を

継ぐわけではありません。教会が神を表わすことができるのは、その罪人が、神によって今は、正し者にされているからであります。

私たちは、今は、その罪から救われ、なお罪人でありながら、神に赦されているからであります。

そこでパウロは、今日の聖書の最後の11節後半のところで書いています。「しかし、主イエス、キリストの名と私たちの神の霊によって、洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」

この11章にあります、この事がとても大事なことであります。パウロは、力をこめて、彼等が新しくされたことについて、記そうとしているわけです。

まずは、「イエスキリストの名」によって、であります。ついて、三つのことがあります。つまり洗う、きよめる、義とされることです。

主イエス、キリストの名と、神の霊によってです。主イエス、キリストの名によって洗われ、きよめられ、義とされる、と、いうことです。そして神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされる、と、いうことになります。主イエス、キリストの名、というのは、何でしょうか。名は権威

をあらわします。主イエス、キリストの権威によるということでしょう。神の霊というのは何でしょう。神の霊は、どのようにして、働くのでしょう。言うまでもなく主イエス、キリストの名によって、神がお働きになる時、神の霊が働くにちがいありません。主イエス、キリストの名と、

神の霊によって「洗われる」というのは、いうまでもなく洗礼のことであります。罪人が救われる道は、洗礼によるのであります。しかし、洗礼はただ水を注がれるという事だけでなく、言葉の通り、心が洗われることであるということです。

罪に汚れた者が丁度水によって洗われるように、汚れを除かれることであります。洗礼は信仰に入る儀式でありますが、ここに、このように書かれているのは、それがただの儀式でなくて、洗い流されることでありましょう。身についた汚れを何とかして、取り除きたい、と思う。それと同じように

魂の汚れをも、洗い落としたい、と願うのであります。  しかし、それは水で流す、というわけにいかない。それは信仰によって、罪が許される、ということがなければできないことです。信仰の上のことで、外側のことではない、心の内側のこと 聖霊の働き、神の働きによることであります。

最後に「義」とされる、となっています。正しい者と認められることです。本来は「正しくない者」が「正しい者」と認められる、ということではないか、と思います。義とされることは、正しい者として、扱って下さることではありますが、そこには、正しくない者が正しい者とされる、という

ことです。洗われた者、と思ったが、やはり汚れが残っていうように思われた時、「義とされる」ということは、大きな助けになったのではないでしょうか。そして、きよめられるということを考えると、罪があり、汚れがある者はきよめられなければなりません。そういう意味から言えば、

「きよめられること」こそ、最後の目的である、ということがきるでしょう。しかも、私たちは、毎日の生活で、いつも汚れ正しくない者になりがちです。ですから、毎日のように、きよめられなければなりません。きよめの方に向かう生活をする、ことであります。

そのためには、洗われ、きよめられ、義とされるという三つのことが大切なのであります。

パウロは、じぶんが伝道した教会がコリントの町中にまんえんしている不道徳に満ちた不品行が教会にさえ平気で横行している。これでも教会なのかと言いたくなる、もう手がつけられないような教会であっても、捨てることはいたしません。まことに、教会であるのには、このような状態からだけ、

判断できるものではない。神がそこで何をなさったか、今、どう生きておられるか、ということであります。

私たちは、義人の教会をつくるのではありません、神が義とされた教会に生きるのであります。私たちは主イエス、キリストの名と、神の霊によって洗われ、きよめられ、義とされていくのであります。    アーメン

新規の投稿