説教:田中良浩 牧師

 

2018年8月12日(聖霊降臨後第12主日)礼拝

担当 田中 良浩

3 8月12日(聖霊降臨後第12主日)

  聖書日課 アモス71015、エフェソ13

14、マルコ6;6b~13

  説 教 「宣教に遣わされた弟子たち

 

 

序 今日の主題:私たちクリスチャンは、弟子たちと同様に、主なる神さまに

  召された者であり、そして「この世に遣わされた者、派遣された者」である。いわゆる「キリストの恵みのミッションに与る者

である。

 

1 私は人生の最終章(アメリカでの牧師の務めが終わった直後)に、ひとりの「命の先覚者」に出会った。日野原重明先生である。私をホスピスの

チャプレンとして働くように、“熱心に”お誘いくださって、私はホスピス、ピースハウス病院に働くことになり、結果的に7年間奉仕した。しばしば、先生と一緒に働き、海外旅行を含めて、共にあるよい機会が与えられた。

  

  そのような中で、私が腎盂癌になり、やがて膀胱癌が発見された時に、

先生は「大丈夫ですよ。治りますよ!」と仰った。しかし私はそれらの癌と戦い、7度の手術を経ても、抗癌剤の苦しみを経ても殆ど10年間、治る希望は見えなかった。病理検査の結果はいつも、ローマ数字のVであった。

  日野原先生はお会いする度に「病はあっても、イエスさまがお与え下った使命によって健やかに生きることが出来る。私もです!」と仰った。

  最終的に、私は右の腎臓も膀胱も摘除する手術をしたが、今なお、日々を健康を与えられて生きることができて感謝している!

 

  私たちの人生、それは私たち自身のものである。決して、人と取り換えられるものではない。これは当たり前のことである。両親から生まれそして、

  それぞれの環境で養われ、遊び、学び、自己に目覚めて人格形成していく。

それは決定的に自己が中心であり、その意味で自己中心で、主体的である!

にも拘らず、私たちは「召され、この世に遣わされた者」である。

  何故か?主イエス・キリストが私たちに介在されるからである。

つまり主イエス・キリストが語りかけ、それぞれの生活や職場で私たちを召し、私たちをそれぞれの生活の場へ、職場へと遣わされて行く、派遣されて行くのである!

2 「12人の弟子たちの派遣」は、今日の福音書の中心の物語である。

  世界の歴史を見ても、このような出来事は他にない。つまり「主が弟子たちを召し、教え、そして不思議な聖霊の力を与え世界に派遣する」これは言うまでもなく、主イエス・キリストにおいてのみ起こった出来事である。

 

  1. 先ず、今日の福音書の冒頭には、「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」(マルコ6:6)と記されている。

この言葉は、実に簡単ではあるが、この出来事の重要な原点を示している。言うまでもなく、他の共観福音書(マタイ10:1、5~15、ルカ9:1~6)にもこの「12弟子の派遣」の物語が記さ

れているが、この事実は同じである。

 

マルコ1:39には最も古い形で「(主イエスは)そしてガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある。

 

また、マタイ4:23では「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と記されているし、全く同様な言葉が、同じくマタイ9:35にも、繰り返し記されている。

 

つまりこのことは、「教会の働きとしての宣教の主は、イエス・キリストご自身」であるということである。かつて弟子たちの時代、また初代教会の時代と同様、現在においても同様である。

「宣教の主は、イエス・キリスト」なのである。そして弟子たちも、

また、私たちもその宣教に召され、与る者なのである。

 

  1. マルコ福音書を始め、ルカもマタイも、12弟子の召命と派遣を

「二段構え」に記している。(マタイは連続的に記している)。

特にマルコの12弟子の召命と任命は(3:13~16)によれば

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」と記されている。ルカも場所を山と記している。

     「山」とは、祈りの場、神の顕現の場である。神聖な場である。

  (3)派遣についての、いくつかの興味深い内容について:

  ① (マルコ6:7)「二人ずつ、組にして」

=宣教のためには協働者が必要である。初代教会も同様であった。

      具体的には、かつて世界的な流れとして、伝道のために献身した

夫婦は、教会の協働者であった事実を見過ごせない。

      <現在、このような姿が消失してしまったことは、残念である>

 

  ② (マルコ6:7)「汚れた霊に対する権能」

=神の霊、聖霊に逆らう力に、打ち勝つことができる権能である。

      7月8日(聖霊降臨後第7主日)の礼拝において学んだように、

      神によって与えられる聖霊こそ、私たちが日常生活を生きる根拠

      であり、悪の力、罪に打ち勝つ力なのである。

 

  ③ (マルコ6:8)「旅には(杖一本のほかには)何も持たず、パンも、袋も、金ももたず・・・下着も二枚着てはならない」と厳しく戒められた。

<物質的な貧しさにおいて、神の豊かさを伝える!>

     =これは神の国の到来を告げ知らせること、宣教がそれほどまでに、

一人ひとりの「現実の生活に緊急的な必要性」をもち、全世界の人々にとって「終末的な、生きる希望の必要性」をもっていたからである。これは、現代社会においても「然り」である。

  

   ④ (マルコ6:10)「その家にとどまりなさい。」

=初代教会から、今に至るまで宣教の展開は、家を基盤にしている。

初代教会においても(ペトロの伝道 使徒10章=コルネリウスの家で)、また、(パウロの伝道 使徒16章=紫布の商人 リディアの家で)それぞれ行われた。日本でも「家庭集会」はごく一般的であった。私もどこの教会でも、「家庭集会」を開いてきた。

 

   ⑤ (マルコ6:13)「12人は出かけて行って、宣教した」

=そしてマルコは、素晴らしい宣教の結果を報告している。    「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」と。

      これはイエスの宣教そのものに与る、祝福された結果である!

      これに対して現在の教会の姿はどうであろうか?神は沈黙して

おられるのであろうか?Aトフラーのいう第三の波(情報化の波)

呑まれて、アップアップしているのが現実であろうか?

3 ところで今日の旧約の日課「預言者アモス

について語る必要がある!

  アモスは、いわゆる預言者が盛んに活動する初期の預言者である。

  その時代は、南王国ユダの王はウジヤ、北王国イスラエルの王はヤロブア 

  ムであった。この時代はBC8世紀の半ばである。

  この時代は、ソロモン王国の再興と思われるほど、政治的には強固となり、

経済的にも繁栄した。その結果、政治的支配階級を始め、宗教的な指導者たちも、倫理的にも、道徳的にも、堕落し、退廃していた。

  そのためにアモスは政治的、社会的な堕落に対して、痛烈な批判を加えた。

  同時に宗教的な指導者たちにも宗教的な祭儀の堕落を強く非難した。

 

  しかも、アモスは自ら語るように、彼は「コアの牧者(羊飼い)の

  一人であった」時に、預言者としての召命を受けた。

  そのような理由からか、アモスの審判の預言は痛烈であった。

 

  そのためにべテルの神殿の祭司、アマツヤは王ヤロブアムにも伝えて、

アモスに「北王国イスラエルを離れ、ユダの地へ逃れて、そこで預言せよ」

と命じている。しかしアモスは答えた。(アモス7:14~15)

「アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。

主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」と。

 

  つまりアモスは王の君臨する神殿において、宗教的な祭儀を執り行う一人としての預言者ではなかった。むしろ神殿とは遠く離れた、在野の預言者であった。それゆえに、真のカリスマ性をもった預言者であった。

  有名な預言の言葉がある。(アモス8:11~12)

  「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

  人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。」と。

 

  アモスは裁きの厳しい預言の言葉は、最終的には、神の国イスラエルの

  繁栄回復の預言で閉じているのである。(アモス9:13~15)

  <これは現代社会に生きる私たちへの大きな希望である!>

4 今日の福音書の内容は「宣教に遣わされた弟子たち」である。

  けれども、同時に私たちも、現在の生活、社会において、弟子たち同様

  宣教に遣わされていることを、改めて確認したい。

 

キリスト者は「神の恵みに生かされる者」である。=<それは受動的生>

今日の使徒書(エフェソ1:6~9)によれば

「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。

 

 

ここで使徒パウロの言う、神の「秘められた計画」とは異邦人伝道である。

私たちにとっては、何であろうか?一人びとりに与えられた課題である。

 

  つまり神の十字架と復活の恵みによって生かされて私たちは、同時に

その出来事を証しし、伝える者つまり、この意味で、主イエス・キリスのミッションに与り「この世に派遣された者」でもある。=<それは能動的生>

 

  一人びとりがどのような状況にあっても、このような生き方を自覚することができるのは、本当に幸いである!

 

  最後に、今日の詩編85編から読もう!

  「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。

御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、

彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

   主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

   慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし

   まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。

   主は必ず良いものをお与えになり、

わたしたちの地は実りをもたらします。

   正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます。」アーメン!

 

   <主なる神さまの平和と正義に与り、

           神さまの平和と正義を宣べ伝えよう!>

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