説教「キリスト者への謙遜な生活」木村長政 名誉牧師、コリントへの手紙5章1〜8節

第18回

コリントへの手紙  5章1〜8節                  

「キリスト者への謙遜な生活」

 今日の御言葉は5章1〜8節です。5章から内容ガラリと変わりまして、1節のところを読んだだけで

驚く事と思います。

1節を見ますと、「現に聞くところによると、あなた方の間に淫らな行いがあり、しかもそれは異邦人

の間にもない程の淫らな行いで、ある人が父の妻を我がものとしている との事です」。

コリントの教会の人々の中が、どんなに堕落していたか、驚きの思いです。

パウロは、それにしてもこんな事をなぜ言わなければならなかったのでしょうか。

 

これまでパウロは伝道者の弱さ、や強さについて語って来ました。それはまた人間の弱さや強さの事でもあります。

 5章にはいって、まず、コリントの教会内の腐敗、堕落を追求していきます。

問題は、もちろん、それらの不品行にありますが、同時にパウロが一番大切な事として、指摘するのは、

「コリントの教会の人々が高ぶっている。」ということであります。

それで2節には、「それだのに、なお、あなた方は高ぶっているのか」と書いています。

6節でも書いています。「あなた方が誇っているのはよくない」と。不品行きわまりないことが、教会の中であっているのに、「高ぶっているのは」のは何事か、と言うのです。

そうなると、ここの話は、高ぶっていること、誇っていることに重点をおいて言っているのです。

もちろん、不品行のことが問題ではある、ここではそういう人がいるのであるから、「むしろそんな行いをしている連中をあなた方の中から除かれねばならない。そのことを思い、悲しむべきではないのか」。

それなのにあなた方は、なお高ぶっているのか。と言うのであります。

人間にとって、最もやっかいな問題が、この「高ぶる」ということであります。

 この当時のコリントの教会は町全体に不品行に満ちていた。特に異邦人の神殿のかくされた所では、

みだらなこと、不品行が横行していたのです。ですからパウロが伝道した教会の中にも入り込んでむしろ、誇らしげにしていたのでしょう。

パウロはゆるせないことであったでしょう。

人間の弱いところは:高ぶるところにあるのです。

人はどうしても、生きるために、自分を守らねばならない、と考えています。従って、誰に対しても

自分は、その人より上である、と思わないではおれないのであります。又そうでなければ、相手の事を軽蔑することになるのであります。

無意識に暗黙のうちに相手を軽蔑したいと思っているのです。

 パウロ自身が誇り高い人でありましたから、この事がよく見えるのであります。大した事ではなくても、何か!自分が上である、と思う、そうでないと、生きられない、とまで心の内で思うのでしょう。

もし、そうであるなら、パウロは伝道者としての、自分もコリントの教会も、みな、「キリストにならって謙遜な生活をしなければならない、と思った事でしょう。

これは1つの、教会の話であります。又同時に今日の私たちの教会のことでもあります。

どの教会も、どんな事件があっても、なくても、主のように、へりくだった生活をすることが必要なのであります。

     1章26節以下のところを見ますと、すでにパウロは書いています。

「兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。」しかし、そういう人が多くいたとしても、高ぶった思いを持っては、よい教会にはなりません。

そらなら、不品行な恥ずべき事柄は、どうするのでしょう。パウロはそれをいい加減にするつもりはありません。高ぶりは高ぶりのこと。しかし、このことは別であります。

3節では、「わたしは、体では離れていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんな事をした者を既に裁いています。」と言っています。

教会は、何の汚れもないような所ではないかもしれません。いろんな汚れたところもあるんです。

しかし、その事と、神の裁きとは別であります。

教会は、愛による交わりの生活である、といって愛の名のもとに、神がお許しにならないような事があってはならないのであります。

 

パウロは、コリントとは離れたところにいても、まことに、きびしく、この事を処分しよう、と、しました。きびしく問いつめるのは、パウロの好みによるのではない。しかし、教会というものがそういう清さ、というものを持っていなければならないからです。

そういう意味からも、パウロは、この不品行の事を、取り上げているのです。

  それなら、どのようにして、裁くのか。

パウロは何かの規則によって、事を扱うとは考えませんでした。

彼は、どこまでも、信仰によって、それを処理しようと、したのです。

教会は、いつでも戒規を持っていました。教会の清さを保とうと、するのであります。

しかし、戒規のようなものは、どこまでも、人間が作ったものであります。まことの裁きはキリストの権威により、生き、死にを、超えたものであります。

 パウロがここで語ろうとすることはそのことであります。彼が離れていても、そのことは問題にならないのです。パウロは体を離れていても、霊において、教会のものと共にある、と言いました。

まことの裁きは、霊によって、行なわれるべきものであります。

 主イエスの権威のもとにパウロも、コリントの教会の人たちも、霊と共にある、というのであります。

ぞれは、信仰によって、行なわれるべきものである、ということであります。大切な事は人間が裁くのではないということであります。

 さて、6節からパウロは別の話を例にして語っていきます。「あなた方が誇っているのはよくない。わずかなパン種が練り粉、全体を膨らませる事を知らないのですか」と言っています。

パウロは日頃、誰もが知っているパン種の事を例に出しました。パン種はパンを膨らますものであります。パウロはパン種の力を取り上げて、人間がふくれあがって、誇っている生活を説明しています。

コリントの教会の人々が、おごり高ぶって、ふくれ上がったのは、そのパン種のせいである、と言いたいのであります。

従って、新しいパンが作りたいのであれば、古いパン種を捨てなければならない。

すべての人は、そのパン種によって、自分の生活をつくっているのです。しかも、そのことに気づいていないのではないか、と、パウロは言うのです。聖書の生活から言えば、パン種なしのパンは特別な意味を持ったパンでありました。

イスラエルの民にとって、最も重要な意味を持つ祭りに、種なしのパンが用いられるのであります。

イスラエルの民族が決して忘れてはならないのは出エジプトの奇跡の出来事でした。

モーセに率いられて、エジプトで奴隷の状態で苦しんでいたイスラエルの民を、神様は脱出させるということをなさるのです。

大事なことは、イスラエルがこの日特別にほふられる小羊を食べることになっていたことです。その

小羊の血を、かもいに塗っておくのであります。それによって、子供を殺す天使たちが、その家だけは避けて通る事になっていました。こうして、イスラエルは無事脱出することになるのであります。イスラエルは、その時、大急ぎで食事をしなければなりません。大あわてで、滅びの町を出なければ、ならなかったのであります。その記念すべき夜、種入れぬパンを食べることを命じられたのであります。他のいくつかの食べ物と共に、種入れぬパンが必要でありました。

パンは重要な食物です。しかしパン種は、又腐敗のしるしのように思われました。 だから、この日には、パン種を入れないパンこそ、必要であったのです。

もちろん、パン種のないパンがおいしいはずはないでしょう。しかし、これが過越しの祭りに用いられた時には。それこそ救いのパンであったはすであります。

救われたいがために焼いたパンであったわけであります。

 イスラエルにとっては重要な事でありました。 そこでパウロは、今、救いの、パン種のない話を持って来るのであります。パン種の入ったパンと、入らないパンを取り上げ、一方は腐ったり、よけいな内容のあるパンです。もう一方は腐ることのないパンです。それだけではありません。「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなた方は事実、パン種なしのパンなのだから」。と7節で言います。信仰者は種の入っていないパンである、ということです。

だから、信仰には、パン種の入ったパン等ないはずではないか。それなのにコリントの教会には、パン種の入ったふくらんでしまっている、おごり高ぶった生活をしているではないか。

それでは、なぜ、パン種のないものなのか、ということですが、それは、私たちキリスト者は、過越しの小羊といわれる キリストによって、救われたのであります。そうであれば、そのほふられたキリストが救い主であるのなら、私たちは、あの時に用いられた種入れぬパンであるのです。

それでパウロは8節のところで言うのです。「だから、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で、真実のパンで、過越しを祝おうではありませんか。」

パウロはこのようにすすめているのです。

ほふられた小羊こそ、キリストであり、キリスト者はこのキリストのように謙遜であるべきであります。

 

                                    アーメンハレルヤ。

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