説教「洗礼ー新しい命の扉」V.アウヴィネン牧師(SLEY)、ヨハネによる福音書 3章1-12節

2018年5月27日 三位一体主日 礼拝説教

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説教者 ヴィッレ・アウヴィネン牧師
フィンランド・ルター派福音協会海外伝道局長、神学博士

聖句 ヨハネ 3112

説教題 「洗礼 - 新しい命の扉」

私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがた一同にあるように。アーメン

祈りましょう。神聖な神、愛する天の父よ、あなたの御言葉を感謝します。私たちに語りかけて下さい。アーメン

ユダヤ教社会の学識ある指導者でファリサイ派に属するニコデモがイエス様に興味を持ちました。新約聖書に記されている出来事の中で、ファリサイ派の人たちがイエス様にいろんなことを問いただす場面が多くありますが、それはイエス様を陥れようと謀って行ったことでした。ただニコデモの場合は、イエス様に対する関心は純粋なものだったようです。彼は、イエス様のことを神が送られた方とまで言ったのです。さて彼は、イエス様と神の御国についてもっと知りたいと思いました。

イエス様の最初の答えはびっくりさせるものでした。「人間は新しく天の神から生まれなければならない。そうでないと神の御国に入ることはできない。」この答えをニコデモは理解できませんでした。そこで、イエス様とニコデモの間に対話が始まります。その終わりの方で、イエス様は最も単純明快な福音を宣べてニコデモに真理を伝えようとしました。イエス様は次のように教えました。「神は、そのひとり子を送るほどにこの世を愛された。ひとり子を送るという仕方でこの世を愛されたのである。それは、彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命に与るためであった(ヨハネ3章16節)。

なぜニコデモはイエス様の教えを理解することが難しかったのでしょうか?難しいというより、理解するのが不可能でした。その理由について、イエス様は次のように答えています。「肉から生まれた者は肉である。神の霊から生まれた者は霊である」(ヨハネ3章6節)。これと同じことを、使徒パウロは次のように言い表しています。「人間は自然の状態では神の霊が教えることを受け取らない。というのは、それは彼にとって馬鹿げたことに見えるからだ。それは神の霊の力を借りてのみ把握できるものなので、自然の状態では気づくこともできないのだ」(第一コリント2章14節)。パウロのこの言葉は何を意味するでしょうか?それは、神の御国に関する事柄は理性では理解できないということです。また、人間的な思考に頼ってでは神はどんなお方かを知ることが出来ないということです。人間の限りある論理は人間を神のもとに連れて行くことはできません。聖書が教えるように、私たち人間は堕罪のゆえに霊的に目が見えなくなっており、霊的に耳が聞こえなくなっており、また霊的に死んでしまっているのです。私たちには霊的な命がないのです。もちろん人間は宗教的になることは出来ますし、あれこれの神々について語ることは出来ます。それらに祈ったり、宗教的な儀式を行ったりすることは出来ます。しかしながら、そうしたからと言って、私たちの心に真の霊的な命があるということにはなりません。本当は神ではないものを神であると言って崇拝することは、それこそが霊的に死んでいることを表わしています。私たちの命にとって一番重要な問いは、「いかにして霊的に死んだ者が生き返ることができるか?」ということです。

私の生まれ育ったフィンランドのトゥルクという町に古い教会があります。それは1300年に献堂式が執り行われ、今年で718歳になる教会です。その大きな教会の中に入ると、扉の左側に洗礼の水を入れる石で出来た器があります。今では使われていませんが、かつてはその水で洗礼が施され、人をキリスト信仰者にしていました。その器が扉のところにあるのは、それが洗礼について大事なことを教えるからです。つまり、洗礼とは、それを受ける教会の一員になって教会の中に入る扉を意味します。また、洗礼を受ける教会だけでなく世界を覆うキリスト教会の一員になってその中に入る扉を意味します。さらに、洗礼を受けることで、イエス様の弟子、彼に付き従う者になります。洗礼を通して、神の子とされた者たちの群れに加えられるのです。そして何よりも、洗礼を受けると、イエス様が十字架で流された血の力で私たちの罪が洗い流されて私たちは清くされ、イエス様がニコデモに言ったように、水と神の霊から新しく生まれるということが起きるのです。神の霊が新しく生まれさせてくれると、目の見えなかった者は見えるようになり、耳の聞こえなかった者は聞こえるようになり、死んでいた者は生き返ります。パウロがエフェソの信徒たちに次のように書き送っている通りです。「神の意思に反することを行ったために、罪のために死んでいたあなたたちを、神が生ける者にして下さったのです」(エフェソ2章1節)。洗礼を受けたキリスト信仰者は、神のことや神の御国のことを理解し始めるようになります。神の霊が、聖書の神の御言葉の力を借りて信仰者に教えます。そのようにして神を知ることが始まり、それは深まっていくのです。

洗礼は、神の恵み、つまり罪の赦しの恵みの中に入る扉です。パウロはローマの信徒たちに次のように言います。「キリストは、今私たちがしっかりと留まっているこの恵みの中に入る道を開いて下さった」(ローマ5章2節)。あなたは、洗礼を受けたキリスト信仰者として、またイエス様を救い主と信じる者として、この神の恵みに包まれているのです。たとえあなたが弱く、依然として罪びとのままで、時に過ちを犯してしまうことがあっても、罪の赦しの恵みはあなたを包み、覆いかぶさっているのです。あなたは、神から罪の赦しを受けた神の子なのです。洗礼を通して、あなたはまず、この罪の赦しの恵みの中に入りなさいという神の指導を受け、次に、この恵みの中にしっかり留りなさいという指導を受けます。この恵みの中に入り留まるということは、自分が一員となった教会に留まって生きることであり、また、イエス様のことを罪の赦しを与えて下さる方として信じることです。それは、さらに、神聖な聖餐式を罪の赦しの確かな印として、また信仰を強めるものとして味わうことでもあります。もちろん、聖書の神の御言葉を聞き読むことも入ります。

イエス様が開けて下さった扉から中に入ったあなたは、もはや外側にはいません。扉を通って中に入るということは、一つの状態から新しい別の状態に移行したということです。扉の隙間に留まって、中に入ろうか外に留まろうか、とどっちつかずの状態にいることは出来ません。同じことが洗礼についても言えます。洗礼が神の御国に通じる扉であると言う時、それは何かを後にする扉なのです。洗礼は、それまでの生き方、それまで人生にあったことを後にする扉です。このことをパウロは力強く次のように述べています。「キリストに繋がっている者は全て、新しく造られた者である。古いものは姿を消し、新しいものに取って代わられた」(第二コリント5章17節)。次のようにも述べています。「あなたがたも自分自身について同じように考えてみなさい。『あなたたちは罪に対して死んだので罪と無関係になった。そして、イエス・キリストと繋がって神の方を向いて生きる者となった』」(ローマ6章11節)。これは何を意味するでしょうか?歴史上最初のキリスト教徒たちにとって、それは何よりもまず、古い神々や魔術や霊的な力を捨てることを意味しました。彼らは、古い神々や宗教的な儀式は古い生き方に属するものであり、自分たちはそれらを後にして新しい命に移行したとわかったのです。使徒言行録に記録されていますが、エフェソの町でキリスト信仰者になった多くの者たちは、以前は魔術を行っていたが、それをやめて、それに関係する書物を集めて、群衆の見ている前で全て燃やしました。彼らは、古い生き方から離脱したことを公けに示したかったのです(使徒言行録19章19節)。キリストは、古い命を象徴する偶像が自分と同列に置かれることを認めません。私たちも、何が私たちの古い命を象徴する偶像かを考えてみなければなりません。それらは、もう私たちの命を支配することは出来ないので、私たちはそれらを後にしなければならないのです。

新しい命に移行するということは、最初のキリスト教徒たちにとって、それまでと違う新しい生き方、生活態度、隣人との関わり方を持つことも意味しました。キリスト信仰者というのは、生きている間、神の意思は何であるかを絶えず問います。その答えは、聖書から見いだすことが出来ます。キリスト信仰者は、それに従って生きようとします。しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。失敗することも度々あります。まさにその時こそ、次のことを思い出すべきです。罪の赦しの神の恵みは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者を包んでいるということを。罪に陥っても、赦しを得られます。そして、いつの日か、天の御国の神の御許にて、不完全だった者は完全な者に変わります。罪は永久に背後に押しやられ、残るものはただ、喜びと平安と神を完全に知ることだけになります。

アーメン

 

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