「聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日」神学博士 吉村博明 宣教師、 使徒言行録2章1-21節

主日礼拝説教 2018年5月20日 聖霊降臨祭

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.聖霊とは何者か?

  本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰をもってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 それでは、聖霊とは一体何でしょうか?まず、イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行ってイエス様の福音を宣べ伝えるようにと命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で取り残されて一人ぼっちになるということはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護して下さるのでしょうか?真理の霊なら、その真理とは何で、それが私たちにどう関係するのでしょうか?このことは、以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の御心に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へと増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神との間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けたり神のもとから立ち去ったりすれば、悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには、罪の他にも、この世で遭遇する不幸や苦難もあります。神は私の至らなさに不満で、それでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、何の落ち度があって神は私を見捨てるのか!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。

まさにそのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けて下さいます。まず、罪の問題では、聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護して下さいます。「この人は、イエス様が十字架上の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向かって次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神は私たちにすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と神との結びつきは失われていないのだ、とわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだ、とわかります。あの方は十字架の上では犠牲になられたが、神の力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足の下に踏み潰しておられる。私はあの方と洗礼を通して結び付けられている。そのことがわかると、不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は、神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていましたが、今度は逆に、存在して見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。一緒に歩んで下さる神は嵐の中でも良い御心を示してくれる、ということに心が向くようになります。その時、不幸や苦難は、もはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰ればお風呂に入って服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。

 聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに次のような真理を明らかにするからです。まず、キリスト信仰者といえども十戒の掟に照らせば私たちは罪を持っているという真理です。ここで悪魔が私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出されてもやましいところは何もない、そう思って大丈夫なんだ、と安心します。その時、イエス様を送って下さった神に感謝の気持ちで満たされ、これからは罪を犯さないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向するのです。

 そういうわけで、聖霊が「真理の霊」であると言うのは、私たちに神の真理を明らかにするというだけでなく、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。

 この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方であると聖書の中で言われます。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるとされますが(12章7節)、教会の成長のために発揮される力は他にも考えられます。

ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えた方は取り上げることも出来る方とわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるようですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしいかもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことを、先ほど申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えることが大きいのではないかと思われます。

もう一つ、聖霊が結ぶ「実」というものもあります。どんな実かと言うと、使徒パウロがガラテア5章22-23節で挙げています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制がそれです。これらは「聖霊の賜物」と異なり、イエス様の罪の赦しの救いに留まって神の御心に沿おうと志向するキリスト信仰者なら誰にでも実ってくる実です。ただしキリスト信仰者というのは、ルターも言うように、皆これから成長していく、絶えざる初心者なので、いろんなことに揉まれて鍛えられないと実ってこないのではと思います。(あと、聖霊の結ぶ実と正反対のものとして「肉の業」というものもあります。どんなものがあるかは、ガラテア5章19-21節をご参照下さい。)

 

2.聖霊降臨日の出来事

 使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されていますが、その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その時エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭があったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ地方出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒をはじめとする律法の掟を授けられ、約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現できたという出来事です。さらに神の偉大な業として考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがあったことを忘れてはなりません。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となった出来事でした。あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられ、大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。

 

3.聖霊降臨祭 - キリスト教会の誕生日

 さてペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象、弟子たちが群衆の母国語で神の偉大な業について語り出したという現象を説明します。群衆の中には、新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れな説明をします。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと、的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?ペトロは説明し始めます。

 ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14-21節)は、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であるというところです。二つ目の部分でペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします(2章22-40節)。

 ペトロはまず、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという現象について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。17節で、聖霊が注がれるのは「終わりの時」と言われているのは、これは終末論の観点で言われています。旧約聖書のヨエル書には「終わりの時」ということははっきり言われておらず、ペトロが意味を明確にしようとして付け加えたのです。聖霊が注がれるのが終末の時というのは奇異な感じがしますが、これは新約聖書の歴史観として、イエス様が天に上げられてから再び来るまでの間の期間というのはイエス様の再臨を待つ期間である、という見方があるからです。それでこの世の終わりということが視野に入って来るのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現ということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味を持っているかについても解き明かします。大体次のような内容です。

あの、無数の奇跡の業と権威ある教えをもって神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者とローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というお方は、天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、この世で十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。そういうわけでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていたことだ(25-28節、詩篇15篇)。こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇110篇1節)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明白になった(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、それでも、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません(注 新共同訳では「大いに心を打たれ」(2章37節)と訳されて、なんだか群衆がペトロの説教に深く感動したようですが、ギリシャ語のκατενυγησανは「心に突き刺さるものがあった」という意味で、文字通り「グサッと来た」ということです)。群衆は不安に襲われて、私たちはどうすればよいのですか?と聞きます。それに対して、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって生み出して下さった「罪の赦し」を神からの贈り物として全身全霊で受け取ることです。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側から離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

キリスト教会が誕生して2000年近く経ちました。それでか、人々の目には教会は古びて時代遅れに映るかもしれません。しかし、教会を教会として成り立たせている三つのもの、聖書の御言葉と洗礼と聖餐式は今もかつてと同じように、人間に神との結びつきを与え、その中で歩ませる力に満ち満ちています。一人でも多くの方がその力に与れるよう願ってやみません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

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