説教「イエス様の昇天とは何だったのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様の昇天

本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは休日になっています。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。本日の最初の日課である使徒言行録は、まさにこの出来事から始まります。イエス様の昇天から10日後、今度はイエス様が送ると約束されていた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。弟子たちは聖霊の力でイエス様こそ救い主であると宣べ伝え始め、それがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行きますが、その過程が描かれているのが使徒言行録です。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年位の出来事の記録です。先々週の説教でも申しましたが、まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物と言えるでしょう。 

さて、イエス様の昇天の出来事ですが、新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。私などはこれを読むと、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くような印象を受けてしまうのですが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲だけで、その上か中にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

そうなると、新共同訳の「雲」はただ単に上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎませんが、ここで、聖書は旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象についていろいろ記されていることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が運びながら移動した臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上で弟子たちの目の前でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。イエス様は裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来る、と預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、現れた天使が弟子たちに言います。イエス様は天に上げられたのと同じ有様で再臨する、と。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。キリスト教徒も最近は、そういうふうに考える人が多いかもしれません。

 ここで、もう一つ考慮に入れておかなければならないこがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないこともありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが、自分にはある、と言って、十字架で受けた傷を見せたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主の神の立場にある方なので、被造物の天使と同じではありませんが、いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく、復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

2.天の御国

 天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるでしょうか?

 ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

 信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主など存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様だと言うでしょう。

 キリスト信仰者にとって、人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものになります。それで、この世界の中では造り主の意図が働いている、そして自分に起きることには神の意図が働いていると考えます。しかも、神はひとり子を惜しまずに送られた方だから、その意図は良いに決まっていると素朴に信じるのがキリスト信仰者です。ただ、大災害のように大きな不幸をもたらすことが起きると、試練に直面します。神様なぜですか!という抗議の問いかけが出てきたり、また、こんなことを起こす神はひどい、とか、こんなことも止められなかった神は無力だ、とか言って神に対する反発が生まれ神に背を向けることも出て来ます。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国にまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発は静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、神はひとり子イエス様を私たちに送って下さったのだ、と思い返す時、神の方に向き直る心も戻ってきます。

 このように、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするというのが神の意図です。では、それを持てるようにするために神はなぜイエス様をこの世に送らなければならなかったのでしょうか?それは、人間は生まれたままの自然の状態のままでは天の御国の人生は持てないからです。なぜ持てないかと言うと、旧約聖書の創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪だけでなく現れない罪も含めて罪が人間に天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間にかわって解決して下さったのです。

まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開いたのです。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆って、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになるのです。その人の内に自分の命と人生はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

3.この世と教会

 イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜイエス様は天に上げられなければならなかったのでしょうか?

一つには、詩篇110篇1節に神が御子に述べている言葉があります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」これは、本日の使徒書であるエフェソ1章22節に引用されていますが、この引用が示すように、イエス様の昇天はこの詩篇の聖句の実現を意味しました。それから、聖書の観点では、この現実の世界は初めがあったように終わりもある。終わりの時は最後の審判があり死者の復活ということが起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、天の御国の実現のために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。

そうなると、このイエス様が天の御国に上げられて再臨するまでの長い期間は一体何なのか、これがわかると、イエス様が天に上げられて、今父なるみ神の右に座していることは特に問題に感じられなくなります。イエス様が神の右に座している期間とは何か?それは、使徒パウロが本日の使徒書のエフェソ1章20~23節で教えてくれます。イエス様を死から復活させられた神は、彼を御自分の右の座に着かせ、「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれた。支配、権威、勢力、主権というのは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。トランプ大統領も習近平国家主席もプーチン大統領も金委員長もどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。霊的な力とはどんな力かは後で述べます。

ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」はとても抽象的なものです。今皆さんがいらっしゃるスオミ教会は「教会」ですが、それはまたルター派教会という教派の中の一教会です。ルター派の名を冠する教会も一つに統一されておらず、いくつもの団体に分かれています。さらにキリスト教会は、ルター派以外にもいろんな教派があります。パウロがここで述べている「教会」は、そういう教派的、組織的な教会ではなく、理念的な教会で、イエス・キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、そこでは聖書の御言葉が宣べ伝えられており、その御言葉の中でもイエス様の十字架と復活に基づく福音が中心になっている体です。次に、洗礼を受けることを通してその体の部分になれます。そして、その体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で栄養を得て、神との結びつき、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういう、御言葉・福音、洗礼、聖餐の三つが働いている体です。そこでは、体の部分を成す信仰者がこの三つの働きを受けています。

そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは、果たして支配とか権威とか勢力とか主権に対してイエス様のように勝っているか、と言うと、果たしてそうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっているはずの自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実があります。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったとわかった筈なのに、罪の誘惑はやまないという現実があります。全てに勝っている状態からほど遠いではないか?全てに勝るイエス様に繋がっている筈なのに、信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生など持てないようにしてやろう、と。そして、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主である神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているところです。これらが、イエス様の下に服して足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっと今もこれからもこの世で働き続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、イエス・キリストの体は全身が天の御国の中に置かれることになります。

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実、一方で全てに勝るイエス様に守られているという現実、他方でこの世の力に攻めたてられるという現実、この二つを抱えて生きていくことになります。イエス様はこうなることをよくご存知でした。それでヨハネ16章33節で次のように述べられたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼしました。そして昇天されたことで全ての力を足下に服させました。イエス様は何重にも世に勝たれたのです。そのことが苦難に打ち克つ勇気の源になるよう祈って止みません。最後にルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことの大切さを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

 「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが、私たちの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。このことの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、私たちに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28-29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を見つけては、キリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕向けてくるであろう。しかし、そのような悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、私たちには悪魔をも足下に服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ私たちを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃はあなたをとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ、あなたは祈らなければならない。あなたが堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちもあなたのために祈らなければならない。どんなことがあっても神があなたを見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ずあなたを苦境から救って下さる。そうである以上、あなたの方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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