説教「信仰の実を結ぶ」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章1-10節、使徒言行録8章26-40節

私はぶどうの木

主日礼拝説教 2018年4月29日 復活後第四主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.歴史の中のキリスト信仰

今日の説教では、最初の日課が使徒言行録でしたので、まず歴史の中でキリスト教がどのように広がって行ったかについてお話ししようと思います。歴史と言っても、使徒言行録の時代の中です。本日の使徒言行録の出来事に関連して、キリスト信仰にとって洗礼がどうして大切かということを次にお話しし、最後にキリスト信仰者が結ぶ実とはどんな実かということをお話しします。この三つ目のテーマは当スオミ教会の今年の年間聖句(ヨハネ15章4節)に直接関係するものです。使徒書と福音書の日課の解き明しをそこで行います。

本日の使徒言行録は8章からです。エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、ガザに向かう街道で使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。使徒言行録はどんな書物かについては、先々週少しお話ししました。復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降る、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物だと思います。

本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来るので、何か時代を超えるものを感じさせます。ガザは、現在こそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の焦点の一つになってしまいましたが、本当はこの町は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアはと言うと、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、エジプト南部の地域を指していました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録の使徒パウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂したのです。

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7-8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語訳の旧約聖書だったことによります。訳がもとの文と変わっているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので、割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰は持つに至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったでしょう。

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方もいるかもしれません。歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。そういう後世に出て来た見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかということを当時の視点で見てみますと、かなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性モラルは奔放というかルーズなところがありましたが、そういうところで、人間を男と女に造られた創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていたのです。これも、「汝殺すなかれ」の掟を持つユダヤ教が反対したのは言うまでもありません。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには、旧約聖書の神を信じるが、何らかの理由で割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍がいたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさにそうした人たちを指しています。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、割礼を受けなくとも神の民、神の子になれる!と教え出したのです。旧約聖書の預言は実現した!神が送られたメシアが自分を犠牲にしてまで人間を罪の支配下から贖い出す業を行って下さった!しかも、神は彼を死から復活させ大いなる栄光を示された!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきを持って生きることが出来る!もう割礼は不要なのだ!そういうことを教えたのです。さて、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば、予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。自分たちの力でパウロを抑えつけられなければ、ローマ帝国の官憲も巻き込んで迫害しようとします。このようにして、ユダヤ教の中から生まれたキリスト教は急速に広まると同時に強い反対も引き起こしていったのです。

 話しが脇道にそれましたので、使徒言行録の出来事に戻りましょう。エチオピアの高官はイザヤ書53章7-8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰なのか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所は少しやっかいです。ヘブライ語の原文では、羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまう、それで、彼と共にいた人たちのことを気にかける者は誰もいなくなる、そういう書き方です。ところがギリシャ語の方は素直に訳すと、主の僕は羊のようなへりくだりをしたことにより裁きが取り除かれる、ただ、彼が地上から取り去られてしまった今、彼が裁きを取り除かれたことを後世の人たちに解き明かしするのは誰か?そういう書き方です。

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が誰を指すかはわからなくても、彼が迫害を受ける者であることがわかります。ところがギリシャ語を読むと、主の僕から裁きが取り除かれるとか、彼は地上からいなくなってしまい、誰かがこのことを伝えないと誰もわからない、と言っています。さて、裁きが取り除かれるとは何を意味するのか?このことを主の僕に代わって解き明しするのは誰なのか?そういう疑問が起きます。

 皆さんもお気づきになられたかもしれませんが、ギリシャ語の訳は実はイエス様の出来事を知っている人ならば、わかる内容です。出来事を知らない人にはちんぷんかんぷんでしょう。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順で、その後で神に高く上げられた、ということです。

次の疑問は、主の僕は地上からいなくなってしまうので誰かがこのことを解き明かさなければならないと言う時、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架と復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。フィリポはその一人です。悩めるエチオピアの高官のもとにフィリポが送られました。彼はイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。フィリポが教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。神が送られたひとり子のイエス様が十字架の上で犠牲の業を行ったおかげで人間の全ての罪が償われた。そこで彼を救い主と信じ洗礼を受ければ、彼が実現した罪の赦しがその人に効力を持ち、その人は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになる、つまり順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得て生きられるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御腕をもってその人を引き上げ永遠に御許に戻ることが出来るようにして下さる。以上のような福音が伝えられました。イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもって生きられるようになりました。

2.信仰と洗礼

先ほど、イエス様を救い主と信じ洗礼を受ける者はイエス様が実現した罪の赦しを得て、神との結びつきを持って生きられるようになる、と申しました。どうして洗礼が出て来るのでしょうか?イエス様を救い主と信じるだけでは足りないのでしょうか?

 イエス様の十字架と復活の業はこの私のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主であると信じられるのは、キリスト信仰の観点で言うと、聖霊の力が働いたからということになります。聖霊の力が働かなければ、イエス様はただ単に歴史上の人物に留まり、知識として知ってはいるが、現代を生きる自分とは何の関係もない遠い過去の人物です。ところが、聖霊の力が働くと、イエス様は歴史上の人物の殻を破って、現代を生きる自分と人間関係を持つ身近な方になります。

加えて、キリスト信仰の観点では、聖霊は洗礼を受ける時に父なるみ神から注がれるように与えられます。もちろん、赤ちゃんに対してもです。大人でも子供でも、洗礼を受ける前の段階でイエス様のことを救い主とわかって信じるようになるというのは、これも聖霊の力が働いたからです。それなのに、さらに洗礼を受ける必要があるというのは、これは聖霊の影響の下に完全に服するということがあると言えます。せっかく聖霊の働きかけがあっても、洗礼によって聖霊の影響の下に服することをしていなければ、イエス様を救い主と信じたことは一過性のものになる危険が大です。とにかく、この世にはいろいろな霊が蔓延っていて、救い主はイエスではない、別の者だ、と言ったり、また、イエスは神のひとり子ではなかった、単なる人間だった、と言ったり、逆に、人間の体を持たなかった、単なる霊だった、と言ったり、様々です。

洗礼を受けると、天地創造の神の霊、聖霊に服することになるので、自分から脱しようとしない限り、イエス様を救い主と信じる信仰は揺るがないものになります。もう他の霊が何を言っても耳に響かなくなります。あとは、洗礼で新しくされた自分がいつまでも同じ新しさを保てるために、次のことが大事になります。まず、聖餐式でイエス様の血と肉として祝福されたパンとぶどう酒を摂って霊的な栄養を受けること。それから、常に聖書の御言葉に聴き、神の御心と意志を知ること。そして、人生のいろんなことに直面しながら、その中で神の御心と意志に沿うように行い、思い、語ること、その時いつも祈りの課題を見つけては祈ること、以上が大事であると考えます。

 ところで、聖霊の力とか影響ということについて、キリスト教の教派によっては、病気を癒す力が持てたとか、習ったことのない国の言葉で話が出来るようになるとか、そういう力が備わることを重視して、それこそが聖霊が注がれた証拠であるかのように言う教派もあります。もちろんこうした不思議な力は聖書に出てくることなので否定はしませんが、ルター派はその辺はあまり熱心ではないと思います。イエス様がこの私の、まさに生きた救い主であり、自分は彼と生きた関係にあるとわかっていることで十分という立場ではないかと思います。手ごたえが感じられない教派と思われるかもしれませんが、別にそれで構わないと思います。

3.信仰の実を結ぶ

本日の福音書の日課ヨハネ15章は、有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。そこで、イエス様に繋がっていながら、実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばない、とはどういうことでしょうか?ぶどうの枝は木から栄養を送ってもらって実を結びます。キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、栄養を受けなくなってしまったことを意味します。信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは、罪の赦しの恵みです。ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪の支配下から解放して新しい命を生きられるようにしてあげよう、という神の愛です。罪の支配下から解放されるためには罪の赦しが実現することが必要でした。神の愛、罪の赦しの恵みという栄養を受けつけなくなるとは、どういう状態でしょうか?先ほど言ったことの関連で言えば、他の霊の言うことに耳を貸すようになって、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことがあると思います。ヨハネ15章の後ろの節で、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまう、と言っていますが、これは最後の審判を暗示しています。さて、ここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。大事なことは、イエス様が真の救い主になることです。そして、神との結びつきを持てることがどれほど豊かなことなのかをわかることです。悲惨な目に遭うのが怖かったら信じろ、というやり方では、豊かさはわからないでしょう。

 2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば、父なるみ神に手入れしてもらって、さらに実を結ぶ、と言われます。3節をみると、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞と「清い」という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって、手入れをしてもらって小ぎれいな枝になっている、という意味になります。手入れをしてもらって小ぎれいな枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養をどんどん摂取するようになるということです。まさに霊的に健康で生産的な枝になれます。そういう枝になれる決め手が、イエス様の言葉なのです。ヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様は神の言葉そのものですから、聖書全体の神の言葉はイエス様と一体です。先ほど常に聖書に聴くことが大事だと申しましたが、まさにそれが霊的な栄養を摂取でき、霊的に健康を保ち生産的になれる秘訣なのです。

それでは、キリスト信仰者が霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは何を意味するのでしょうか?こういう時、よく思い浮かぶのは、隣人愛を実践して多くの困っている人を助けてあげることがあると思います。本日の箇所の終りでイエス様は、彼の掟を守ることが彼の愛に留まることになる、と言い、少し後の12節で、その掟とは、イエス様の愛と同じ愛で互いに愛し合うことである、と言われます。

イエス様の愛とは、先週の説教でもお教えしましたように、自己犠牲を厭わない愛です。そこで、何のための自己犠牲かというと、それは愛された人が神との結びつきを持ててこの世と次の世を生きられるようにするための犠牲でした。そういうわけで、キリスト信仰者の隣人愛には、苦難困難に陥っている人を助ける時にも、この神との結びつきを持てるようにするということが視野に入っているのです。このことは、ルターも有名な「キリスト者の自由」の中ではっきり言っています。

それじゃ、人助けと言っても、最終的には同じ信仰を持てるようにするための宗教勧誘の手段ではないか、と言われるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点からすれば、現実にある困難から助けてあげることももちろん大事だが、何よりも天地創造の神との結びつきを持てるようになって、その結びつきの中でこの世を生きられるようになって、この世を去る時には造り主のもとに永遠に戻れるようになる、そのことがとても大事なのです。自分は神との結びつきを持っているとわかれば、困難や死に直面した時、絶望することはなくなる、希望を持ち続けることができる、というのがキリスト信仰なのです。人が自分で自分を支えられるようになれる、そんな支柱を与えることになるので、長い目で見たら、こちらの方が本当の人助けになる、と言ってもいいと思います。キリスト信仰者が行う信仰の証しには、神は現実の困難を通しても、私と御自身の結びつきを強められた、という話がよく聞かれます。

 キリスト信仰者が結ぶ実には、助けるということ以外にも考えられます。隣人に対してどのように振る舞うかということがそれです。もちろん、そこには助けることも関係してくるので、完全に切り離すことはできません。それでは、どんな隣人に対する振る舞い方が実として考えられるでしょうか?

 キリスト信仰者は、神のひとり子イエス様のおかげで罪を赦されて神の前に出されても大丈夫な者とされたので、それで、赦すことが大切とわかっています。「神は赦しても私は許せない」ということがなくなります。パウロが教える、善をもって悪に勝たなければならないことが身近なものになります。悪が執拗でも悪で報いず、報復は神に任せるという態度でいて、どうしたら善をもって勝てるかを考えます。このような人は平和の実現に努める人です。たとえすぐ実現しなくても、努めることで少なくとも、この世の人たちが見えなくなっているものを輝かせることが出来ます。必ず気がつく人が出て来るでしょう。

 そんな輝きはひとりでに出て来ません。自分には神からの罪の赦しがあるとわかっていないと出て来ません。罪の赦しがあることは、イエス様と繋がっていなければわかりません。イエス様との繋がりは、繰り返しになりますが、聖書の御言葉に聴き、賛美をし、絶えず神に祈ることで保たれ、聖餐式のパンとぶどう酒に与ることで強められます。このように平和を体現し実現する者として立ち振る舞っていれば、周囲の人たちも福音は真理であり正しく生きる力を与えるものとわかるようになります。それがイエス様に繋がる輪を広げることになります。

しかしながら、こういうことは頭ではわかっても、現実は、自分は実を結んでいないのではないかと思い知らされることが沢山でてきます。隣人を神との結びつきに導くどころか、現実的な困難からの助けも思うようにできないとか、平和の実現者を意識しながらも、赦すことが難しいこともあるでしょう。そういう時は、本日の使徒書の日課の第一ヨハネ3章20節の御言葉を思い出すとよいでしょう。「もし、私たちの心が責めることがあっても、神は私たちの心よりも大きな方で、全てのことをご存知です。」新共同訳では「心に責められることがあっても」ですが、ギリシャ語原文では「心が責める」です。18節で言われるように、もし私たちが偽りを持たず純粋な気持ちで行為で示しながら愛するならば、たとえ至らなさや失敗があって心が責め立てても、神は人のそんな心よりも大きいのだ。私たちが偽りを持たず純粋な気持ちで行為で示しながら愛そうとしたことをご存知である。そのことに思い当たれば、19節にあるように、神の前に立たされても心を落ち着かせることができ、もう心は責め立てることはしなくなる。そうして私たちは、21節と22節で言われるように、再び神の御前で勇気を持つことができ、愛の実践のために必要なもの祈り求めることができるようになり、それを神は惜しみなく与えて下さる。なんと素晴らしい神の約束でしょうか!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

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