説教「自己犠牲を厭わない愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章15-19節

主日礼拝説教 2018年4月22日 復活後第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の栄光を現わすということ

今日は福音書の日課をもとに二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、福音書の箇所の終りでイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言しているところです。この福音書の記者であるヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。それで、この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。

まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。キリスト教会の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21章18節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだなとわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。福音書記者のヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。

さて、ペトロの殉教は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方です。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

それは、神の動かすことのできない真理を、私たちが自分の言葉や行いや生き方を通して人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、神聖な神の前に立たされても、神のひとり子イエス・キリストの身代わりの犠牲のおかげで大丈夫でいられる者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで造り主である神のもとに永遠に戻ることができる道を今歩んでいる者である、と答えること。以上の三つを胸をはって答えることです。何も問われなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんな真理は取り下げないと命はないぞ、という迫害の時代だったら殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は造り主の神に見守られてこの世を生き、神の御許に戻る道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心・信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間がどこから来てどこに向かって行くのかということについてキリスト信仰と異なる立場を取る人たちが社会の多数派を占めていれば、いろいろ軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことをいろいろ考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことも、現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。少数派が黙っていたら、多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまうので、口に出すことは良心・信条の自由が存在するためにも非常に大事なことです。

 

2.神の自己犠牲を厭わない愛

 次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、十字架の出来事の時にペトロがイエス様のことを人前で三度「知らない」と言ったことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみてみます。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているので、この区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。この二つの動詞の違いを見てみましょう。

 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背後に退きがちになるからです。当スオミ教会で以前牧師をされていたヘイッキネン先生が言っていたのですが、日本で中学生位の女の子たちに聖書の勉強会を行っていた時、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちは互いに顔を見合わせてくすくす笑っていたということです。

古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。

それでは、イエス様がペトロに聞く時に使った「愛する」アガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範にして弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーです。それでは、イエス様が弟子たちを愛する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオー、アガペーの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。

そうすると、兄弟愛、同志愛、人間愛は自己犠牲をしないのか、それらの愛にも大切な人のために自分を犠牲にするということがあるのではないか、と思われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみますと、兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアですが、新約聖書の中でのそれらの使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式のように使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。その意味でそれらには自己犠牲を厭わないくらいの強い愛はないと言えます。

そうすると、例えば親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起きれば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものであると教えます。人間に対する神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったのかということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペー、アガパオーです。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神が御自分のひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。

人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。造り主である神と造られた人間との結びつきが失われてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持ててその見守りと導きのうちに生きられるようにしようと、また万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにしようと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が自分で罪を背負い続けてしまったら、この世を去る時にその重みで大いなる滅びの世界に落ちてしまいます。しかし神はイエス様に人間の罪を全部背負わせて、十字架の上で罪の罰を全ての人間に代わって受けさせました。さらに、死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて完成した救いをただ受け取ることだけです。イエス様が成し遂げたことはこの自分のためであったとわかり、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取りは完了します。どうして洗礼が出て来るかというと、イエス様を救い主と信じた人がその後の人生の歩みの中でその信仰に留まれるために必要だからです。洗礼は、神と人間の結びつきを守る大事な鍵です。

イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神の人間に対する深い大きな愛と同じような愛で愛しているかと聞いたのです。人間が神との結びつきを持てるようになるためにひとり子を犠牲にした愛と同じような愛です。さてペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、などと威勢の良いことを言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神的な愛を避けて人間的な愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間的な愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神的な愛の形のアガパオーを使わず、ペトロと同じ人間的な愛の形フィレオーを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応を見ると、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?いくらなんでもあんまりです!という様子が窺われます。

(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。)

 ところで、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世の道を歩めるために彼らを守り指導しなさい、つまり牧会をしなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責任を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様は三度も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということが明確になります。

 

3.私たちの自己犠牲を厭わない愛

私たちがイエス様を愛する時の愛はどんな愛でしょうか?人間のために自己犠牲の重荷を背負って下さったのはイエス様です。私たちがイエス様のために自己犠牲するということは、もちろんありえません。イエス様は神のひとり子ですから、神との結びつきを回復する必要などないからです。そこで注目すべきは、ヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることです。それでは、イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それは先ほども見ましたようにヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様が自分を犠牲にしてまで人間と神の結びつきを回復しようと駆り立てられた愛、その愛で互いに愛し合いなさい、と言うのです。互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになる、と。

それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛し合うとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持って生きられるようになったら今度は、隣人も同じように神から見守りと良い導きを受けながらこの世を生きられるように、またこの世を去る時は神のもとに永遠に戻れるように働くことです。その働きはどんな働きでしょうか?

もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように見守り、必要が生じたら助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者も苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そのような時、もし何らかの理由で解決が長引けば、どうして神は黙っているのかと疑念が生じ、それが神に対する失望や不信にかわる危険があります。苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるように助けることが視野に入っています。

イエス様は弟子たちに向かって互いに愛し合いなさいと言われたので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ない感じがしますが、よく考えるとそうではありません。全知全能の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけのためではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助けることにおいて、自分の持てる力や時間や財産を使わなければならない時があることはいつも肝に銘じておかなければなりません。ルターは、そのような時、財産や命を失う可能性もあることを覚悟しなさい、と言っています。

自己犠牲を厭わない愛と言う場合、もちろん、神との結びつきの回復ということと無関係に行われるものもあるでしょう。例えば、親が自分の命を顧みず子供の命を守ろうとすることが考えられます。そのようにして助かった子供は、その後の人生をどう生きるでしょうか?自分の命が親の犠牲の上に成り立っているとわかったら、その犠牲は尊いものに感じられ、軽々しい生き方はできなくなるのではないでしょうか?そのような強烈な体験は、普通そんなにあることではありません。しかしながら、イエス様の十字架と復活のことを聞いて、それがこの自分にも関係している、自分のために起こされたとわかれば、普通の人でも同じような強烈な体験をすることになります。親の犠牲に比べたら身近な感じがしないと言われるかもしれません。しかし、イエス様のおかげで、この罪ある自分が神聖な神の前に立たされても大丈夫と見なされる、その神の見守りと導きを受けてこの世の人生を生きられる、この世を去る時に神の御許に手を取って迎え入れられる、これら全てはイエス様の犠牲のおかげだとわかれば、やはりそれは自分にとって尊いものになり、軽々しい生き方はしてはならないという心を強く持つことになると思います。

最後に、キリスト信仰の愛には、隣人が神との結びつきを保てるように/持てるようにすることが当然、視野に入っているということがルターの次の教えにもよく表れているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明しに用いている聖句は、ローマ15章3節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」です。

 「イエス様は神の恵みに満たされた神聖な方であったにもかかわらず、ファリサイ派の人たちのように私たちを見下したり、私たちが持たないものを持っていることに満足するような方ではなかった。主は、私たちが何も有さず、彼が全てを有していることに不満だったのである。満足しても良かったのだが、主は逆に私たちが何も有さないがゆえに苦しまれる道を選ばれた。私たちが主のようになれるために、また主が有するものを私たちも有することが出来るために、さらには私たちが罪に支配された状態から解放されるために、私たちにどのように舞ったらよいか?このことに主は心を砕いたのである。それらを実現するのはちょっとやそっとのことではないとわかると、主は、自分自身が何者であるか、自分が何を有しているか、そういったことを顧みず一切を投げ捨てて、私たちの罪が御自身に降り注ぐに任せ、そうやって私たちから罪を取り除こうとされた。あたかも主は、私たちがこれだったら受け入れてもいいというような、私たちが満足できるようなことをして下さったのだ。

ファリサイ派の人たちが取税人たちに対して振る舞ったように、また高ぶった者たちが弱い罪びとたちに振る舞ったように、もし主が同じように私たちに振る舞ったならば、一体私たちの誰が罪の支配下から贖われることが出来たであろうか?それだからこそ、私たちも隣人の罪に対しては、主が私たちに振る舞ったのと同じように振る舞わなければならない。私たちは、裁いたり、陰口をたたいたり、見下したりしてはいけないのであって、かわりにその人が罪から解放されるように助けてあげなければならないのである。そうすることで私たちが命、生活、所有物、名誉その他私たちが有しているもの全てを失うことになろうとも、そうしなければならないのである。そうしない者は、キリストを失い、その信心はキリスト信仰の信心とは別の信心になってしまったことを知るがよい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

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