説教:木村長政 名誉牧師

 聖書ヨハネ福音書1章3~5・14節

今日はクリスマス特別礼拝です。聖書はヨハネ福音書1章3~5節と14節であります。クリスマスの出来事をヨハネ福音書の方では1章5節を見ますと「光は暗闇の中で輝いている」そして14節になって「言は肉となって私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」と書いています。「この世の人間の心は暗闇である。その暗闇の中に天からの光輝くまことの救い主イエス・キリストが来られた」とこのように告げています。ルカ福音書の2章ではクリスマスの夜、神の栄光が照り渡ったとあります。そこへ御使いたちがあらわれると、主なる神の栄光が羊の群れ一帯をめぐり照らした。羊飼いたちを包むように闇の中に光の束となって照り輝いた。羊飼いたちは、もうびっくり仰天です。真っ黒な闇が一瞬にして昼のように明るくなったのですから、これはもう何事が起こったのだろうと驚きと恐ろしさのあまりひれ伏してしまったことでしょう。クリスマスの光は神の栄光です、天の御使いたちが一斉に神を賛美します。クリスマスには私たちもまず神を賛美するのです。天使たちは歌います「いと高きところでは神に栄光があるように!」。・・・クリスマスは神の栄光に始まって神の栄光に終わった、と言ってもいいでしょう。クリスマスにあらわれた神の栄光というのはどんな光でしょう。旧約聖書の詩篇には次のようにあります。詩篇19「もろもろの天は神の栄光をあらわし大空は御手の業を示す」。・・・そうすると神の栄光というのは、もろもろの天があらわすものですから光とは限らない。普通には神の栄光があらわれた時には眩しいほどの光に照らし出されたというイメージでしょう。私たちの知っている光にはいろいろな光がありますね。太陽の光、熱いねつがあります、月の光は熱いものではありません。人間が最初に作り出した焚き火の光、ろうそくの光、ランプの光、そして科学が進んで電気によるさまざまな色の光があります。自然の雲の中を走る雷の光など光と言ってもいっぱいあります。羊飼いたちをめぐり照らしたのは太陽の光でもない、月のあかり等でもない、どこから来たのでしょう。天からの光で神からの光であります。

旧約聖書の出エジプト記にはモーセが神様にお願いしました、「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください」。すると神様はそれに答えて「わたしはもろもろの善をあなたの前に通らせ主の名をあなたに述べるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。と言われた。

更に「わたしの顔を見ることはできないだろう」と仰せになりました。どんな人間にとっても恐ろしいことです。罪ある人間には眩しくてとても見られないでしょう。神の栄光というのは神が最も生き生きとしてあらわれたもう、ということです。神の御心がはっきりあらわれて神の恵みが強く感じられる時にわたしたちは神の栄光を仰ぐことができるのであります。神は今もわたしたちのこの世界に生きておられます。しかし信仰によってその御力や御恵みが分からない人には、ここに神の栄光が満ちていることは分からないのです。しかし詩篇19編を書いた人はどこを見ても神の栄光がみえたのでしょう。ですから、もろもろの天が神の栄光をあらわしていると歌っているのです。クリスマスは神が生き生きと生きておられるということをわたしたち人間に示すためにあったということであります。それは御使いが出てきて羊飼いの周りを照らしたからではありません。それは一つの徴でしかないのです。この徴によってこの夜まことに力強く驚くほどの恵みを持って神は生きておられる事を示されたのです。しかもそれだけでなくその栄光がわたしたちの目で見えるようにしてくださったのであります。

コリント信徒への第2の手紙を見ますと4章6節には「闇の中から光が照り出でよ」と仰せになった、「神はキリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を明らかにする為にわたしたちの心を照らしてくださった」と言っています。

ここに神の栄光はキリストの顔に輝いている、というのです。キリストの御顔を見て、そしてキリストの生涯を見てキリストのなさったこと、キリストが語られた御言葉を見ると神の栄光が見えるというのであります。こうして今は聖書を通してキリストというお方によって神の栄光をあらわしてくださったのであります。クリスマスの夜にはベツレヘムの馬小屋の中で神の栄光が見られました。だから羊飼いたちもむさくるしい仕事着のままで見に行けたのです。そこで神様が疑いもなく生き生きと生きておられることを知ったのであります。それはこんにちも同じです。クリスマスは神様が一番わたし達の身近に感じられる日なのです、どうでしょうか。神はなぜそんなにはっきりとご自分をお現しになったのでしょうか。それは神が私たちを放っておかれないからであります。人間は勝手な者であります、人間の身勝手さが最もよく現れるのは神のことを考える時であります。少し幸せが続くと神に感謝する気持ちに素直になれます。神様のおかげだと感じます。しかし少しいやなことがあると神に感謝する気持ちなどになれない、どうしてこんなに辛い目にあうのかと落ち込みます。又いろいろな事がうまく行くと今度は自身を持つようになって神なんかもう信じなくても自分だけでやって行けると思うわけです。又少し不幸が続くと神はもう自分を見放してしまわれたのではないかと疑うのです。神がおられることは信じているかも知れませんが実際は神様と言っても天の高いところにおられて自分たちのことは余り親身になって思ってくださらないのではないかと疑ったりもします。ところがクリスマスに神の栄光がこんなに強くあらわれたのはそうしたことではない、ここに神様が生きて働いておられることが事実歴史の只中に現されたのであります。御光となって輝き出るまでにそれが示されたのであります。それはこの時だけでなく、いつでも生きておられるという、しるしであります。生きておられるだけでなく、この世とそこに住む人間を放っておかれるのではない、ということであります。それがクリスマスの時にはっきり出てきたのです。それはクリスマスの時以外でも神は私たちを放っておかれるのではない。ですからクリスマスの恵みを知った人はいつでも神の栄光が私たちの周りを照らしている。私たちはそういう神の恵みの中に生きているので、なんという素晴らしいことでしょうか。

世界中の教会がクリスマスは祝われています、私たちは余り代わり映えのしない毎日の生活であります。しかし時として美しい公園や花園に足を踏み入れたり高い山に登るとき森の中では美しい自然がいっぱいです。自分にホットします、新しい発見をします、小さな恵みをみつけます。そしてそれならそれらしい生活をしようと思うのです。それと同じようにクリスマスに神の栄光を知り神が生きて働いておられることに触れたなら神の不思議な支配の中にいるのを軽んじるでしょう。それならそれらしく生きようとおもうのです。クリスマスはそのための最も確かな恵みの時であります、素晴らしい時です、そんな素晴らしい瞬間に私たちは生きるのです。神が御自分を最も生き生きと現されるというのはどういうことでしょう。それは人間を救おうとして現れる時であります。人と人との間でも人が一番強烈に自分を印象付けられる時というのはどういう時でしょう。それはきっと自分が助けられた時でしょう。あの時あの人に助けてもらった。いま自分がここにあるのはあの人のおかげである。と特別にお世話になった人を自分は生涯忘れられないからであります。あの人のあの親切がなかったら自分はもうダメになっていたかも知れない。今日の自分はなかったと思う、そのような愛、親切、助け、救い、それこそどんな姿よりも忘れられないことになるでしょう。その時その人が一番生き生きとして感じられるのであります。神が直接ふれて働いてくださる、救ってくださっているのであります。

神が人間をおつくりになられた時、神の御計画は完全なものでした。すべてのものは良かったのであります。それを詩篇の19編の作者は「もろもろの天は宇宙のすべてのものが神の栄光をあらわしていた」と神のおつくりになった宇宙を、世界を、神の美しさ自然を賛美したのです。ところが人間はこの自然を破壊し罪の人間が神の御計画の美しさを壊してしまって、神の美しさ、立派さをなくしている。時がたつと共に人間は偉くなったと思い人間の自我が奢り高ぶって人間はみな自分中心に生きるようになってしまった、その本来の美しさを失ってしまった。神本来のつくられた目的にしたがって神の栄光を現そうとしないで、自分の名誉、自分の利益のことしか考えていない。そこに栄光の光と共に救い主がおいでになられたのです。人を救うために来られた。もう一度神の栄光のために生きることのできる人間となるように、つくりかえるためにおいでになった。それがクリスマスであります。救い主が誕生されて私共の中に来てくださったのであります。あなたのためにイエス・キリストは救い主として来られたのであります。クリスマスの栄光がきょう私たちの上にありますように。

                アーメン・ハレルヤ!

 

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