説教「天使の御告げ」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章26~38節

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イエス様の御降誕を祝うクリスマスがもうすぐです。今日の礼拝ではクリスマスの喜ばしい出来事が起こる前に神様がどんな出来事をなさったのか、今日はマリアに起こった出来事を中心に御言葉に聞いてゆきたいと思います。ユダヤのガリラヤの町ナザレと言う村に一人の乙女マリヤがおりました。ガリラヤの町ナザレと言ってもこの当時誰にも知られていない片田舎です。26節によりますと〔6ヶ月目に天使ガブリエルはナザレと言うガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人の許婚である乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアと言った。〕とあります。純粋で清らかな心を持っていたマリアに突然天使ガブリエルが現れたのですから彼女はどんなに驚いたことでしょう。そしてマリアに大変なことを告げたのであります。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます。」マリアはいきなりこう言われて」驚きと恐れの思いで聞いたでしょう。天使の言葉は祝福の言葉ですが、なぜ祝福されねばならないのか全く分からなかったからであります。マリアは何を考えてよいのか天使に告げられたことが理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、天使の言われるままを聞いたいます。聞いていくうちにだんだん分かって来たのです。何が分かったにかと言いますと「主が一緒にいてくださる」ということであります。30節から見ますと天使がマリアに告げました。「マリア恐れることはない。あなたは神からの恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない」。マリアに対して、恐れなくて良いあなたは身ごもって男の子を産むと言われる。更に天使は告げます。「その子にはダビデ王の座をくださる」と言うのです。天使ガブリエルが告げた言葉は凄いことでした。マリアにはとてもとても考えられないことばかりです。マリアは思い迷って迷って心が乱れたことでしょう。どうしていいか何もかも分からなくなってしまった。マリアが驚いたのは自分にはあり得ないことであるからです。それで34節でマリアは言いました。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしはまだ夫がありませんのに」。ヨセフとは許婚の仲で結婚はまだしていないのに、どうしてあり得ましょうか、と言うのであります。マリアの言葉はそのとおりに違いありませんが、ただそれだけのことでしょうか、ただ田舎の小娘が慌て恐れてこう言っているだけでしょうか。この前にルカはザカリヤの妻に起こったことを書いています・。

ルカはわざわざ聖書に書き残しておく必要がどこにあるでしょうか。〔実はルカはマリアの話だけでなく、1章5節から25節に至るまで祭司ザカリヤの妻に年老いてから子供が授かっていることを延々と書いているのです。〕年老いたザカリヤの妻に子供が産まれるという、どうしてそんなことがあり得ましょうか。マリアの身に起ころうとしていることが、その6ヶ月前に神様はもう90歳近いこの老夫婦に凄いことをおこされている。「どうしてそんな事があり得ましょうか」人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なことでした。確かにザカリヤ夫婦は子供を望んでいたでしょうが、もうずうっと子度は与えられなかった、それに老人になってしまって子供が出来るなんて考えられないことに絶望していたことでしょう。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。これがクリスマスを迎える全ての人に投げかけられる神からの不思議な神秘であります。そこで35節を見ますと天使

ガブリエルはマリアに答えてあげます。それは壮大な世界しかも深遠な神の霊の世界に触れて、その神秘のベールをあらわにされています。天使は告げます、「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。今や聖霊がマリアをすべて包んでいます。聖霊の出来事です。マリアが乙女であったとか神ご自身がどうして人間の姿をもってみどり子としてお生まれになったのか、そんなことより次元の違う神の霊の次元にマリアはただ恵みを得ているのです。だから生まれる子は聖なる者です、神の子と呼ばれるでしょう。マリアはもう神の霊に満たされて、すべてが神のご計画の中にあってその尊い御業は進められて行きます。マリアは天使の御告げを聞き彼女はそれを正しく受け止めることができました。そこには聖霊の助けとマリア自身の清らかな貧しくしかし純粋な信仰をもっていたからでしょう。カトリック教会の人々はマリアを聖母として特別な人間のようにお祈りをしたりします。しかしマリアが偉いのはそんな事のためではありません、マリアは主なる神が自分に対してなさったことをそのまま信頼をもって受け入れたことであります。そうしてマリアは心のそこから賛美があふれ出て言います。38節にありますように「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」、といっています。天使の言葉からマリアはこのような想像もつかないことが自分の身に起こって行く、それが主のために用いれられ生かされて行くというのです。わたしは、すべてを主に献げて信頼してゆきます、わたしは主のはしためです、と言っています。はしためと言うのは女奴隷のことです、だから、わたしは神様の奴隷でございます、と告白しているのです。奴隷は御主人様の言うままになる者です、その生命もすべて主人のものです。マリアは特別な運命の御業をすべて身に受けて自分を全く神の御手にまかせきったのです。マリアのこれからの身に起こってくる、いろいろな辛い苦難や人々からの非難が襲ってくる、そして家族や許婚のヨセフ、身にも影響して行くすべての事柄を「主のお言葉どおり従って行きます」といっています。それは、計り知れない大きなこと、そして大きな恵みであります、神の子を産むという大きな恵みです。マリアが奴隷と言ったのは少し言いすげでしょうか、神様の思いのまま、そのお考えがどんなものになるのか・・・どこまで思いのままに従うことなのでしょうか。私たちもマリアだけでなく信仰を持つということは神様に委ねて神様に従ってゆく生活です。けれども神の思いのままに従って行きます、とは言っても程度があると言うことになるのでしょうか。毎週の日曜日の朝を神に礼拝しに行くたびに、いろいろと自分の都合を挟み込んで考えてしまいます。自分のうちに口では言えないもろもろの課題が降り注いできます。マリアの思いがどんなに重いものであったか、私たちの神様にお任せする程度などちりのように吹き飛んでしまうほどしかないものでしょうか。

マリアと共にこれから先のことも私たちは一切を神にお任せして従って参ります。神に任せた者の祝福を受けるものがどんなものか、そこには及びもつかない神の祝福がいつもあるということです。マリアは主のはしためです、と言いましたが私たちは神の奴隷としてキリストの奴隷として信頼して主に委ねて行きます、と言うのでしょうか。私たちは神のみ前に罪の奴隷になっていたのにキリストの救いによって購われたのです、キリストに買い取られたのです。そしてキリストのものとなってしまっているのです。今日私たちが信仰生活をするとき少し真剣に考えてみると自分は自分で造ったものでない。両親が造ったものでもない、本当は神様によって造られた自分であることを思えば自分は神様に対して奴隷どころではない、自分は何もせず努力もしないで神様によってだけ造られて今があるのです。それならばマリアと同じように「お言葉どおりにしてください」と言うほかありません。天使は去って行きましたマリアはどうしたでしょうか、ルカは39節以下に一生懸命に書き記しています。マリアはザカリアの家を訪ねエリザベトに会いに行きました。エリザベトは聖霊に満たされてマリアを迎え喜び合います。42節にありますように「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」マリアは感謝と喜びに満たされて彼女の最大の心を込めて主を賛美しました。それが46~55節のマリア賛歌です。「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜び讃えます。・・・」実はマルチン・ルターはこのマリア賛歌を、分かりやすくドイツ語で請解説教のように書きました。1520~21年に書いてルターの身の危険から保護してくれたマイセンの領主ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ殿下に捧げています。〔殿下よわたしは先日お送りくださいました殿下の親愛なるお手紙、恭しく拝受いたしましたその慰めに満ちたお手紙のおもむき全てを喜びを持って拝承しました、しかしながら殿下よ私が長い間お約束してまいりました「マリア賛歌講解」は多くの反対者との不幸な論争にしばしば妨げられていまだにその責任を果たしていません。それで私は同時にこの小冊子をもって殿下のお手紙に対するお返事に代えたいと存じます。〕王や君主は神のみ前にどうあるべきか、マリアの賛歌の51~53節をもって強調して行きます。

ルター自身がこの時カトリックの会議で破門されるかどうか生死との危険の只中で自分の身を重ね合わせている訳です。そして序言の書き出しには次のようにあります、〔この聖なる賛歌を順序正しく理解するには祝福された処女マリアが彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は聖霊によって照らされ教えられたのである。というのは何人も直接聖霊から与えられない限り神も神の言葉も正しく理解することはできない。しかし何人もそれを経験し試し体得することなしには聖霊からそれを受けることはできない。かくして聖処女は彼女が価値なく卑しく貧しい、そして軽蔑された者にも関わらず神がかくも大いなる事を彼女のうちになしたもうたことを経験したときに聖霊は彼女に神はかくの如き主にいまし低き者を高うし高き者を低くしたもう、ということ、知恵と知識とを与えた。〕今回はこれまでにしましょう。 アーメン・ハレルヤ!

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