三鷹教会での吉村博明 宣教師の説教、「最後の審判で神は何を裁くのか」マタイによる福音書25章31-46節

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 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 今日は聖霊降臨後最終主日ですので、教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってました、とばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。いつも、待降節までまだ1週間あるのに、と思ったものです。近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。

Jesus Returns 07 - Waiting For The Word - www.flickr.com/photos/waitingfortheword/さて、本日の福音書の箇所ですが、これはキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て、支援に乗り出して行きます。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派を越えてキリスト教そのものの在り方に関わります。というのは、善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム・人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すれば、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ14章6節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころにして支援活動に携わるキリスト信仰者を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動にしっかりした土台を据えるものであることがわかると思います。

2.

  最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場には、人々のグループは二つではなく、実は三つあります。三つ目のグループとは誰のことか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτων)なので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、第三のグループとして主の兄弟グループも同じ場にいるのです。主は、羊と山羊の二グループに対して「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのです。

それでは、この主の兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。

それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与えて、迫害に遭遇しても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41-42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ18章6節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは何者か?イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめなさい、また自分がなさる業をしっかり見届けなさい、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、教えと業だけでなく、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えなさい、と選ばれた弟子たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。

 3.

 以上、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちはどうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者だと考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり、実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。

 さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、教えと業に加えてイエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。

 4.

  以上、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れたことの帰結であることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントになるとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の後の時代の人たちは、もし仮に使徒たちが生きているとしたら、自分たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。

 そうは言っても、本日の箇所でイエス様は支援のことばかり言っていて、福音の受け入れについては何も言っていないではないか、との疑問が起きるかもしれません。イエス様が福音の受け入れを前提にしつつも、それには触れずに、支援のことだけを言っているのにはわけがあります。イエス様はこの教えを述べる際、本日の旧約の日課エゼキエル書34章の解き明しとして述べていることがあります。どういうことかと言うと、エゼキエル書34章11節から24節までの箇所は、一見するとバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が将来祖国に帰還でき、民を虐げた民族は神から罰を受けると預言しているように見えます。同じような預言は、イザヤ書やエレミア書にも多く見られます。ところが、めでたく祖国帰還した後も、イスラエルの民の現実は預言で言われる理想状態から程遠いと気づかれるようになります。それで、預言は実はまだ未完なのだ、それは今ある天と地が終わりを告げて新しく創造し直される時、まさに真の神の国が現れる時に実現するという預言だったのだ、と理解されるようになります。本日の福音書の箇所のイエス様の教えは、エゼキエル書の預言をバビロン捕囚からの解放という歴史的出来事を越えて、まさに終末論の観点で解き明かすものでした。

 エゼキエル書の箇所の中で何度も「羊と羊の間を裁く」と言われますが(17節、20節、22節)、ヘブライ語の単語שהは羊と山羊の両方含めた意味ですので、羊と山羊がごっちゃ混ぜになった状態です。ここでは羊が良い者、山羊が悪者というような特定化はありません。はっきりしているのは、太っていて力強い者が牧草地や水場を独占し、やせて力弱い者には踏み荒らされた牧草地と水場しか残されない、それで神は裁きを行って虐げる者を罰する。虐げられる者は、「私の群れ(צאני、羊も山羊も含む)」と何度も言ってそれを守ると言われます。イエス様は、その裁きの内容を具体的に述べるわけです。判決と根拠を明確にし、良い者は羊、悪者は山羊と特定化します。  

イエス様の解き明しにはエゼキエル書の預言には見られない新しい事が一つあります。エゼキエル書の預言の裁きは、虐げる者と虐げられる者の間の裁きですが、イエス様の解き明しの裁きには、虐げられる者を支援する者が加えられたということです。ただ単に虐げられた使徒を神が守って下さると言うだけならば、エゼキエル書のように二つのグループで十分です。しかし、イエス様は、虐げられた者を使徒と位置づけるだけでなく、彼らに連帯する者たちを加えたのです。すなわち、使徒が携えてきた福音を受け入れるという態度決定をした者たちです。エゼキエル書の預言にこのような具体的な内容が与えられたのは、十字架と復活の出来事の後に起こってくる人間の態度決定が考慮に入れられたからです。

 ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきましょう。福音とは、一言で言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻して下さったという、素晴らしい知らせです。創世記3章にあるように、人間が神に造られた時に持っていた神との結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を持つようになってしまったために失われてしまいました。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。

 失われた結びつきを回復するために神は、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いてそれを実行しました。人間には神との結びつきの回復を不可能にしている罪が染みついている、それで、イエス様に人間の罪を全部負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すという策を講じました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間のために開かれました。

 人間は、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものにすることができ、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮します。こうして人間は罪を赦された者として神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。それからはずっと順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになりました。これほど私たち人間のために尽くして下さる愛と恵みの神は永遠にほめたたえられますように。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。

 人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の意思に沿うように生きようという心を持つようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかれば、自分の利害のちっぽけさもわかって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

 ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について触れておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛の方は、キリスト信仰では、それは神への全身全霊の愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業がまさに神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。

 5.

  以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。その信仰から神の意思に沿うように生きるようという心が生まれ、そこからキリスト信仰者の善い業が生まれてくるということです。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか?この疑問は、特に日本のキリスト信仰者にとって気になるところではないかと思います。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのではないかという不安が生じるからです。

近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたと聞きます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けます。

福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、ここでは黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと言われます(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13-15節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の者たちです。まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味を持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

 ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのです。

 キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという大問題で、このように全てを全知全能の神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。それでも、何かのきっかけでこの平安が揺らぎ、今はっきりした答えが欲しいという思いにとらわれることがあります。その時、あなたが自分の希望を神の御心だと言ってしまったら、神をあなたの希望に従わせてしまうことになってしまいます。この問題は、人間の限られた知見や能力ではどうにもならないことなのです。

ここで肝要なことは、もう一つの大問題、すなわちこの世を去る時にどこに行くかのという問題で、あなた自身はどこに行くのがいいのか、ということです。あなた自身はどうなのか、ということです。この問題で聖書が示す選択肢は言うまでもなく、この私を造って下さって、ひとり子イエス様を送って下さった父なるみ神のもとに戻るということです。ルターの言葉を借りれば、この世の歩みを終えて心地よい眠りをひと眠りした後、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて天の祝宴に迎え入れられるということです。復活の日までひと眠りするのですから、登山道なんか登りません。

この選択肢でなければ、別の宗教が教えるところがいいのか、それとも、何も明らかにしないまま逝くのがいいのか、ということになります。もし、造り主の父なるみ神のもとに行くことでいいと決めたら、あとは、復活の日の再会については、お祈りの中で父なるみ神に希望を打ち明けて、最後に「私の思いではなく、あなたの思いが行われますように」と付け加えることです。自分で解決できないことに自分を思い煩わせないことです。

神は罪を焼き尽くさずにはいられない厳しい神聖な方であり、また人間が罪と一緒に焼き尽くされることを望まず、そのためにイエス様を送られた憐れみ深い方でもあります。このために私たちの側で不安と期待が入り乱れることは避けられません。しかし、全知全能の神に全てを任せるしかないというところに落ち着けば、使徒パウロの次の言葉はあなたにとってその通りになるはずです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6-7節)

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように    アーメン


主日礼拝説教 2017年11月26日 聖霊降臨後最終主日、日本福音ルーテル三鷹教会

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