11月のフィンランド家庭料理クラブのご報告

 
穏やかな初冬の到来に、この日のキャセロールメニューはぴったりでした。

最初にお祈りからスタートです。

今回の参加者は6名、丸形と長方形の型で2台のサーモンとジャガイモのキャセロールをつくりました。

フィンランド人の男性の参加もあり、ジャガイモの皮むきのスピードと綺麗な出来上がりに、子供の頃からお手伝いすると聞き、流石だなと思いました。

下ごしらえした材料を器に敷き込み、卵液を流し込みオープンへ入れて、次は付け合わせの人参です。
人参のすりおろしとパイナップルのあえ物は、簡単で美味しいサラダになりました。

キャセロールの焼き上がりまで1時間程あるのです、パイブィ先生から、キャセロール料理の思い出や聖書のお話を聞かせて頂きました。

オープンからはキャセロールの焼ける香ばしく美味しい香りがしてきます。
焼き上がりのチェックをして、完成です。

熱々のキャセロールを取り分け、バイブィ先生の焼いて下さったパンと一緒に、美味しく頂きました。

下ごしらえをして、後はオープンにお任せできるキャセロール料理は、寒い季節の重宝な一品になりました。

参加の皆様お疲れ様でした。

料理クラブの話 2017年11月 サーモン・ポテト・キャセロール

フィンランドの家庭ではいろいろなキャセロールを作ります。例えばキャベツ・キャセロール、人参キャセロール、以前こちでも作ったマカロニ・キャセロールなどがよく作られます。キャセロールは特にフィンランドのクリスマスの食卓の伝統的な料理です。クリスマスの前に多くの家庭では人参キャセロールやポテト・キャセロールなどを早めに作って、クリスマスまで冷凍で保存します。サーモン・ポテト・キャセロールはフィンランドの伝統的な料理で、1700年ころから貴族の食卓の料理でした。普通の家庭では1800年くらいから作られるようになりました。

今日作ったサーモン・ポテト・キャセロールは私の家でも母が良く作った料理です。母はいつもパンを自分で焼きました。パンを焼く日に母は薪でオーブンを温めました。パンを全部焼き終えると、母はサーモン・ポテト・キャセロールをオーブンに入れて、夕食は簡単にできました。なぜなら、オーブンに入れたままでいいからです。それで母はパンを沢山焼いた後、一休みが出来ました。このように、オーブン料理が好まれる理由の一つとして、オーブンに入れたら他の家事を休むことが出来ることがあります。

サーモン・ポテト・キャセロール「lohiperunalaatikko」は、フィンランドでは寒い季節の料理の一つです。11月になると、外はだんだん暗く寒くなってきますので、フィンランド人は体を温めるご飯を食べたくなります。オーブンで焼く料理を作ると、部屋も暖かくなります。こうして寒い季節にオーブンで作る料理のおかげで体はとても温かくなります。しかし、心はどうでしょうか?温かいご飯と暖かい部屋があれば、心も温かく感じるかもしれませんが、心には体と違う、心を温かくするものがあると思います。例えば、心を温める言葉があると思います。例えば「ありがとう」「楽しいね」「うれしい」と言ったら、言う人も言われた人も心が温かく感じるでしょう。そういう言葉は「心が味わうオーブン料理」と言っても、いいのではないでしょうか?言葉だけでなく、心を温めるお話もあります。皆さんもそのような映画や本を沢山知っているでしょう。私は「心を温めるお話し」を考えると、聖書にある「放蕩息子」の話を思い出します。これはイエス様がたとえを使って人々に語った教えの一つです。それを紹介したく思います。

ある家に息子が2人いました。それは雇い人が沢山いる裕福な家でした。弟の方は好きなことばかりやって暮らしていました。ある日、外国に行きたくなって、父親に強く言いました。「お父さん、お父さんが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞きません。父親は自分勝手な息子のことを悲しく思いましたが、財産を兄弟に分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。

息子はそこでとても華やかな生活をしました。高価な服を着て、そこで出来た友人たちと美味しいものを食べ、お酒を飲んで毎日遊んでばかりいました。しかし、いつしかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって、彼は食べ物に困り始めました。お金がなくなると、友達もいなくなってしまいました。みんな、お金が目当てだったのです。だれも助けてくれる人はなく、息子は一人ぼっちになってしまいました。

それで息子は仕事を探しました。やっと豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹はいつもペコペコでした。きたなくて冷たい豚の餌を食べたいと思うくらいでしたが、持ち主はダメだと言いました。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分はもう息子と呼ばれる資格はないとわかっていました。それで、家の雇い人の一人にしてもらえるように頼んでみようと思いました。父親の前でこう言おうと考えました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

息子は家に帰る途中ずっと、父親は自分と口をきいてくれるだろうか、ドアもあけてくれないのではないかと心配しながら帰りました。やっと懐かしい家が見えました。すると、父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、体じゅう汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親が走り寄ってきたのに驚きました。その時、考えたことを言おうとしましたが、父親の顔をまっすぐ見ることが出来ませんでした。すると父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」息子が「雇い人の一人にして下さい」と言う前に、父親は家来たちに言いました。「さあ、急いで一番良い服を持って来て、息子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから最高の食材をそろえて、盛大なお祝いの準備をしなさい。息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」父親が罰ではなくて愛をもって受け入れたので、息子は生まれ変わることができました。

イエス様がこのたとえを話したのは、神様はどのような方であるかを教えるためでした。父親は神様のこと、息子は私たち人間のことを指します。私たちも神様のもとに戻って行けば、神様はこの放蕩息子の時と同じように必ず私たちを喜んで抱きしめて迎えて下さいます。このように神様の私たちに対する愛は、私たちの罪を赦して受け入れて下さることです。神様のもとに帰る人は皆、神様の子どもになれるのです。「ヨハネの第一の手紙」3章1節に次のように言われています。「御父がどれほど私たちを愛して下さるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、その通りです。」

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