説教「神の救いを贈り物として受け取る信仰」吉村博明 宣教師(講壇交換により市ヶ谷教会にて)、マタイによる福音書18章1-14節

 主日礼拝説教 2017年9月24日 聖霊降臨後第16主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、イエス様から祝福をいただこうと親たちが子供を連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、イエス様は逆に弟子たちを叱って、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言い、祝福を授けます。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を父なるみ神は断じて許さないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、イエス様が子供の信仰を引き合いに出して、何を私たちに教えようとしているのか、それを見てまいりましょう。

 2.

 弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問しました。「天の国」とは、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、かわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨します。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国に君臨しそれを統治することになる王、イエス様の側近になれるのは誰なのか?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
 つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。誰が神の国で一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えるのです。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできないのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、それは本当は人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。加えて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は今度は、一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。「神の恵み」と言うように「恵み」という言葉がありますが、北欧のルター派の国スウェーデンやフィンランドの言葉では「恵み」は「恩赦」を意味する言葉の派生語です([ス]nåd ← benåda、[フィ] armo ← armahtaa)。つまり、これらの国の言葉では「神の恵み」とは「罪の赦しの恵み」の意味が強く出るのです。

ところで、キリスト信仰者とは言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の違う点は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

そういうわけでキリスト信仰者とは、絶えず神の方を向いて歩き、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々歩む者と言えます。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む者はこの世の人生の段階で既に神の国の一員として迎え入れられています。

ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありませんが、目に見えるようになる日が来ます。それは復活の日と呼ばれる日であり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、イエス様が再臨され、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れて、王として君臨される。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。少し脇道にそれますが、キリスト教会のある教派の総会を覗いたことがありますが、そこで「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この世の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に迎え入れられるようにすることだと思います。

3.

 神の国が以上述べたようなものであることは、実はイエス様の十字架と復活の出来事の後にはっきりします。十字架と復活が起きる前の人々の神の国理解と神のひとり子イエス様の理解の間にはギャップがありました。神の国を人々がどう理解していたかは、福音書の記述や当時のユダヤ教社会の思想から大体見当がつきますが、それはここでは立ち入らないことにします。いずれにしても、十字架と復活の出来事が起きる前は、人々は神の国とそこに君臨するメシアについて正確な理解を持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問したのです。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われたのです。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」と。これはどういうことでしょうか?

「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では「立ち返る」という意味の動詞στρεφωです。それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申しました、神がイエス様を用いて実現して下さった「罪の赦しの救い」を子供のようにいただくということです。神が「どうぞ受け取りなさい」と言って下さるものを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。これだけのものをいただけるのだから、こちらからも何かしないといけないとか、そんな返礼は考えず、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに子供のようになって受け取るだけです。ここまでして「自分は何もできない、おできになるのは天の父なるみ神だけだ」と観念して受け取らないと、イエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しはその人にその通りにならないのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後は、人間は洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、神がイエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を子供のように無力な者になって受け取る、こうして人間は神の国に迎え入れられることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は今度は、その神の国の中で一番偉い者は誰かという、最初の質問に答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べた神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて一生懸命業を行っても、人間は死を超えた永遠の命を持てない、神の方で整えてくれて与えてくれなければ持てない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のように自分を低くする人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。この文のギリシャ語原文は少し厄介なところで、私なりに解決策があるのですが、話が細かくなるので立ち入りません。新共同訳の文を使っても、前後の脈絡をしっかり押さえておけば大丈夫です、と言うにとどめます(*後注)。この「受け入れる」ということですが、これは、孤児とか貧しい子供を引き取るというような人道支援的な意味ではありません。次の6節でイエス様が「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っていることに注意しましょう。ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つ子供です。信仰を持つ子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは人道支援ではなく、信仰を持つ子供を信仰者の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様が「神の御前にいる守りの天使は大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えていることにも注目しましょう。イエス様を救い主と信じる者は、大人だろうが子供だろうが、皆全く同じくらいに「罪の赦しの救い」と「神の国への迎え入れ」を持つのです。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語としてスキャンダルという言葉があります。日本語で「醜聞」と訳されることがあります。昨今の日本ではニュースで醜聞が多すぎるのではないかと思わされます。それだけ「つまずく」人が多いということなのでしょう。

「つまずかせるもの」は、どう私たちをつまずかせるでしょうか?先ほど申しましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで「罪の赦しの救い」を所有することができるようになり、この世にあって神の国に至る道に置かれて、今その道を神から力を得ながら歩んでいます。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく者です。そうした時、「つまずかせるもの」が、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとします。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑もあります。例えば、「これをすれば君は素敵なことを経験できるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合にです。しかし、キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が十字架の上で流した尊い血が代償となってこの私を罪と死の支配下から解放してくれたということが最大の自由であります。この世が誘う「素敵なこと」こそが束縛です。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり、また享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」がひけらかす人間像が何か新しく見えて、本当の新しい人間が古くなったように見えてしまう危険があります。

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰から外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なるみ神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられるのを拒否しない限り、必ず神に見出されて天の御国への道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか神によって見つけられますように。

4.

 それでは、イエス様が子供の信仰を引き合いに出して、私たちに信仰について何を教えようとしているのか、それを見てみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」は、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取りなさいと、全人類に差し出して下さっている。「罪の赦しの救い」はまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのです。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。その時また、信仰が人間の自由な意思決定に従うものとなって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しない限り、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の御言葉などは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、新たに洗礼を受ける必要はありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、人生の歩みの途中で受けるということが多いです。そうなると、信仰を自分の自由な意思決定に従わせてしまう危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力か何かを持ってこの救いを得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地で起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その意味で、子供が有利な地位にあることは否めません。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言申し上げたく思います。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではないか、むしろ全てを客観的に眺められる立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供をキリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波にも乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。さらに、キリスト信仰者の自由とは、何と言っても罪と死の支配下からの自由であり、同時に父なるみ神に対する感謝の念から神の意思に沿うように生きようと志向する自由です。いずれも、イエス様の十字架と復活から生じた自由です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、主の十字架と復活を語らずして、キリスト者の自由を語るなかれ、です。これをよく肝に銘じておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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