説教:浅野直樹 牧師(武蔵野教会)

 

2017年9月24日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教(スオミ教会)

 

聖書箇所:マタイによる福音書18章1〜14節

説教題:「小さき者を愛される神さま」

 

「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」

 

 今日の説教題は「小さき者を愛される神さま」とさせて頂きました。今日の福音書の日課を読んでみますと、新共同訳の小見出しにもありますように、三つの話題に分けられるようにも思います。しかし、この三つの話には共通しているものがあるように思うからです。それが「小さき者」です。6節にも、10節にも、この言葉が登場して参ります。もっとも最初の部分、18章1節以下では「子供」という言葉が繰り返されますが、お読み頂ければお分かりのように、この「子供」と「小さき者」とは重なり合うわけです。ですので、最初の話題の「子供」ということを考えていきますと、この「小さき者」というのが一体どのような存在なのかが、自ずと見えてくると思います。

 まずイエスさまはこのようにお語りになられました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。有名な言葉です。しかし、正直、誤解も受けやすい言葉だと思います。その一つが、「心を入れ替える」といった言葉です。皆さんは、この「心を入れ替える」といった言葉にどんな印象を持たれるでしょうか。道を誤った任侠者の人が、ちなみに、この説教の準備をしていて私自身はじめて知ったのですが、「任侠者」といえばヤクザ映画(暴力的な)などの印象を持っていたのですが、もともとの意味は「弱い者を助け、強い者をくじき、義のためには命を惜しまないという気風。おとこぎ」(かっこいいですね)といった立派な意味を持っていたのですね、ともかく、その任侠者がその道から足を洗い、まっとうな人生、カタギの人生を送るような場面で「心を入れ替える」といった言葉が用いられそうな印象があります。すくなくとも、大層な場面で使われる印象がある。ある解説を読んでいますと、この言葉が人々にプレッシャーを与えてきた、とありました。私も同感です。もちろん、そういった重々しいイメージも全部が間違いではないのでしょうが、もともとの意味は「グルッと向きを変えて」とか、「戻るべきところへ戻って来て」といった意味合いなのです。「悔い改め」といった言葉の印象もそうですね。もともとは「神さまに立ち返る」といった意味合いなのに、なにか厳しい修行の果てに身につける奥義のような印象を受ける。これは予断ですが、ちょっと翻訳を考え直していただきたい、近々、標準訳といった新たな日本語の翻訳聖書が出ると聞いていますが、どんなものに仕上がっているのか私には分かりませんが、ともかく、あまり重苦しい、厳しい表現にしすぎない方が良いと個人的には思っています。話が逸れてしまいましたが、もちろん、軽々しく考えて良いことではないのでしょうが、しかし、ことさら自分の内面に沈潜するような事柄ではないように思うのです。そうではなくて、今の自分がどのような状態なのかをしっかり把握して、どこに向かうべきなのかをしっかりと聞き取るべきなのです。

 そして、もう一つはこの「子供のように」といった言葉が誤解を生んでいるようです。現代の子供理解と当時の子供理解とでは随分と違っていたことが指摘されています。現代は子供、特に小さな子供といえば、純真無垢、天真爛漫、天使のよう、つまり大人のようには汚れていない、といった肯定的なイメージを強く抱くものです。ですから、この「子供のようにならなければ」といったイエスさまの言葉に対しても、イエスさまはそんなふうに、汚れなき姿を、素直で純粋な姿を私たちに求めておられるのだ、と現代人は受け止めるわけです。しかし、当時の子供理解は、もちろん親たちにとっては当時(昔も)においても自分の子供は可愛かったでしょうから違った受け止め方をしていたと思いますが、世間一般では役に立たない無力な者といったイメージでした。これは、私たちにもなんとなく理解できることです。日本でもかつてはそうでしたし、世界では今でもそういった国々が決して少なくないことを私たちは知らされていますが、子供も労働力と考えられているからです。つまり、一方では子供を働かさなければならないほどの厳しい世界、社会とも言えるわけです。そういった中では、いつまでも子供でいてもらっては困るのです。はやく大きくなってもらわなければ、家族の役に立つようになってもらわなければ、稼げるようになってもらわなければ、自立してくれなければ困るのです。それが社会です。生きていくための仕方のない論理です。そして、先ほども言いましたように、今日では当時とは全く状況も理解の仕方も違っているわけですが、しかし、そんな社会の仕組み、社会の中で生きるための基本的な理解・構造は現代でも変わっていないように思います。

 私たちもまた、早く子供を卒業するようにと、早く大人になって自立するようにと求められて生きてきました。それが、この世界では大切なことだから、この世界で生きるためには仕方がないことなのだからと教えられ生きてきました。また、親とされた私たちも、子供を可愛がってきましたが、天使のようだと喜んできましたが、そのままであることを求めることはなかった。人よりも成長が遅いと、心配になりました。この子はちゃんと大人になれるのだろうか、と不安な気持ちも持ちました。やはり、大人になることを、自立することを、自分で、自分の力でちゃんと立派に生きていくことを願った。そうです。私たちは「子供のようになりなさい」という世界には生きていないのです。「大人でありなさい」という世界に生きている

 ですから、この時の弟子たちの問いの方がずっと良く分かる。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。偉くなるためには、子供であってはならない。自分で生きていけないような、自分で責任をとることのできないような、自分で自分を支えることもできないような、そんな未熟な、幼稚な、すぐに泣き出して誰かを頼るような、そんな子供であってはならない。そうではなくて、誰もが認める立派な大人、人々が賞賛するような立派な大人にならなければ、天の国でだって偉くはなれないはずだ。そう弟子たちが考えたってなんらおかしくないでしょう。むしろ、それが常識です。

 しかし、イエスさまは「違う」とおっしゃる。その常識を、世の、社会の常識を変えよ、とおっしゃる。少なくとも、天の国ではそんな常識は通用しない、とおっしゃる。むしろ、天の国では、大人であるよりも子供であることの方がはるかに望ましい、とおっしゃる。では、ここでイエスさまが語られている「子供らしさ」とは一体何か。先ほど言った純真無垢さでも、天真爛漫さでもないことは明らかです。そうではなくって、子供の子供らしさとは、頼る、ということです。すがる、ということです。大人になるためには否定されるべきこれらのことが、何よりの子供らしさだと思うのです。親に頼る。親にすがる。なぜか、自分だけでは立ち向かえないからです。自分だけでは解決できないからです。誰かを頼らなければ、誰かに助けられなければ生きていけない。それが、子供です。そんな「子供らしさ」をイエスさまは「自分を低くして」とおっしゃるのです。変に大人の知恵を働かせた自己卑下ではないのです。下手に出た方が有利だ、といった計算でもないのです。そうではなくて、頼らなければ、すがらなければ、生きていけない。それが、何よりも神さまにこそ向くことを神さまは求めておられるし、喜んでおられるのです。あの山上の説教にある「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」の言葉に通じるものです。苦しい時の神頼み。大いに結構。子供らしい姿じゃないですか。逆に、こんなことで神さまをわずらわすことはできない、なんて遠慮深くする方が子供らしくない。それは、大人がすることです。神さまはそんな子供らしさを求めておられます。そんな子供っぽい小さき者を躓かせるものは大いに不幸だ、と言ってくださるほどに慈しんでくださっています。この小さき者のために天使が仕えてくれていて、この小さき者を必死に探し出してくださっています。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と。

 この世界、この社会が大人であることを求めることにも意味があるでしょう。確かに、自立をし、自分の力で生きていくことも大切なことだと思うからです。私自身、(三人の子供たちがいますが)子供たちには、そんな生き方をしていってほしいと願っています。しかし、では、大人でなければダメなのか、大人でなければこの世界、この社会では生きていく資格がないのか、といえば、そうではないはずです。神さまは天の国ばかりでなく、この世界、この社会においても、たとえ大人としての生き方ができなくても、それでも生きていける、愛され、守られ、用いられていく世界、社会をも求めておられるのではないか、と思うのです。つまり、私たち自身が天の国に入るために子供のようになることを求められているのと同時に、今度はそんな天の国を知った者として、他者を、この世界を、この社会をどのように見るべきなのか、ということにもなるわけです。

 イエスさまは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がまし」だ、とさえ言われます。では、小さな者をつまずかせるとは一体どんなことなのか。「小さくてはダメだ」ということでしょう。何もできないような、役に立たないような「小さな者ではダメだ」と、大きくなることを、立派になることを求めることです。あるいは、イエスさまは10節で「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」と言われます。やはり迷う奴はダメだ。周りを見ろ。みんなちゃんとやっているではないか。お前だけだ。お前一人だけがウロウロして迷っている。そんなことではダメじゃないか。もっとしっかりしろ。私たちは、ついついそう言いたくなる。でも、イエスさまは違う、とおっしゃるのです。そうではない。この「小さい者」を軽んじるな、とおっしゃる。なぜならば、この小さい者を神さまは愛しておられるからです。

 私たちはどうしても、自分を見るときも、また他者を見るときも、弟子たちと同じ視点で見てしまう者です。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と。誰が一番偉いのか。誰が一番ふさわしいのか。誰が一番能力があるのか。そんな中で自分は一体どれくらいの位置にいるのか。そうではない。イエスさまはそんな思いを変えて、そんな価値観、方向を変えて「子供のように」と語られるのです。なぜならば、神さまは大人ぶっている私たちであろうとも、背伸びをして自分自身でなんでもできるような顔をしている私たちであろうとも、我が子のように愛(いと)おしんでおられるからです。心配で、目が離せないでおられるからです。放ってはおけないからです。だから、もう一度、子供のようになれ、子供の頃を思い出せ、とおっしゃっておられるのではないでしょうか。

祈りましょう。

「憐れみ深い私たちの天の父なる神さま。今朝はスオミ教会の皆さまと共に礼拝の恵みに預かれましたことを心より感謝いたします。直ぐにでもあなたの恵みを、愛を忘れてしまう私たちをどうぞ憐れんでください。あなたを軽んじて、常に自分の力、知恵、思いなどに頼ってしまう私たちを憐れんでください。そして、人をも同じ基準で測り、出来る出来ないと優劣で判断してしまう私たちを、どうぞ赦してください。あなたにあって『子供らしさ』を取り戻すことができますように。そして、この小さき者をも愛してくださっているあなたの愛から離れることなく、他者に対しても、このあなたの愛の眼差しで見つめることができるようにお導きください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン」

 

 

「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン」

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