説教「成長させて下さる神」木村長政 名誉牧師

2017年9月10日(日)

 

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第10回コリント信徒への手紙Ⅰ

3章1~4節

今日の聖書はコリント信徒への手紙3章1~4節です。2章までのところでパウロが言ってきたのは〔神の神秘は人間には分からない、が聖霊によって知ることができる。〕つまり聖霊によって知らされることはキリストのことです。キリストの御業である「十字架の救い」のことであるということです。そこでパウロが言いたかったことは、まずキリストの十字架以外に語るべきものはないということ。続いて神の霊について語ってきました。そうするとパウロにとって神の霊というのはキリストの十字架を信じさせるものと言う事でしょう。神のことは十字架をおいて外にない。信仰の難しいところでああります。そういうことから見るとコリントの教会の人々はいかにも頼りない、神の霊を受けた人とは思えなかったのでありました。だから霊の人に対するように話すことはできないと思ったのでありました。しかしコリントの人々が神の霊を受けていたことは間違いありません。まだ始めの方に止まっていたということでしょう。肉に属する者というといかにも世俗的な人で信仰などには縁のない人のように聞こえます。しかしそうではなくてここでは霊のある人としてまだ十分に成長していない人という意味であります。霊の人と言っても大人もあれば幼子もあるというのです。そして話を食べ物の例へと持って行きます。

3章1節を見ますとまず其の事を書いています。〔兄弟たち私はあなた方には霊の人に対するように語ることができず乳飲み子である人々に対するように語りました。乳を飲ませて固い食物は「与えません肉の人だからです。〕信仰の食物の乳というのは何でしょうか、固い食物というのは何を指すのでしょうか、考えてみますと良く分からないのです。信仰にも深い浅いがあるようにその教えにも初心者向きと成熟した者のためということがあるのでしょう。ここで言われる乳とか堅い食物というのはそういう意味での入門とか実技とかいうものではないのです。その点から言えば福音はいつも同じであります。初心の人にとっても成熟した信者にとっても救いはただ十字架にあるだけであります。ある学者はこう表現しています。〔ここで言われている事は教えの本質ということよりも、むしろ教えを説く形式乃至方法であるのだ。同じキリストが幼子にとっては乳となり知識にたけた人には堅い肉になるのだからである。〕そうしてみると乳とか堅い食物という言い方は教えを説く形式乃至方法であるといえるでしょう。

ヘブル人への手紙5章12~13節には次のようにあります。口語訳でみますと〔あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。しかし堅い食物は善悪を見分ける感覚を実際に働かせ訓練された成人のためのものです。〕堅い食物は善悪を見分ける感覚がある、と実にすばらしいことを言っています。この中には何か神秘的な普通には入り込めないような境地というものがありません。それよりも大切なことがペテロの第一の手紙にあります。2章1~2節です。

〔だからあらゆる悪意、あらゆる偽り、そねみ、一切の悪口を捨てて今生まれたばかりの子の様に混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち救いにはいるようになるためである。〕ここで言われていることは信仰の初歩の者に対してだけ言われたものでないでしょう。どの信者にも悪意や偽りを捨てて今生まれた幼子のように霊の乳を慕いなさい。それなりにそれは成熟した信者にとっても同じことであります。

コリントの教会の人々の実情を知ってパウロから見れば信仰的には幼稚であって今になってもその力がないと言われる程である。このことはペテロの手紙の2章にあったように悪意や偽りといったことと関係がありました。信仰が衰えれば必ずその生活に問題が表れてきます。堅い食物をとることができないような信仰生活には悪意や偽りが出てくるのであります。そのことはコリントの教会で明らかでありました。ねたみと争いが出てきました。それで3節にこう言っているのです。〔あなた方の間にねたみや争いがあるのはあなた方が肉の人であって普通の人間のように歩いているためではないか。〕ここで普通の人間のようにと言うのはただの人間のようにということであります。そして又ここで言う肉の人というのは生まれながらの人です。神に対して責任を負うことができない神についても知らない人々のことです。

信仰者はみな何ほどかは神の霊を受けたはずであります。神の霊を受けるというのは目に見えたり手に触れたりすることではありません。神を信じることができるようになる時には神の霊を受けているのであります。それなのにこの人々はそのように生きることができないで普通の人間つまり神の霊を受けれいない人のような生き方をしていたのであります。神を信じると言いながら神に対して責任をとるような生活ができなかったのであります。そのように神によって生きることができない生活にねたみと争いが出てきたということです。普通に考えれば神から離れたことをあらわす時もっと凶悪な生活を思ってしまいます。例えば殺人とか盗みとかを想像しがちであります。ところがここには「ねたみ」と「争い」としか書いていないのであります。それはコリントの教会の事情がたまたま双であったのでしょうか。そうではないと思います。それは「ねたみ」と「争い」ということがそれほどに人間の心に根深く入っているからであります。人間の生活のある所どこでもいつでも問題になることはねたみでありそこから出てくる「争い」であることは誰でもよく知っていることであります。これはすぐに血を見るようなことまでないので深刻に考えようとしません。しかし考えてみるとこれほどに人生の生活を蝕んでいるものはないかもしれません。人が2~3人集まればそこにはもうねたみが起こります。ある人が言いました、「これはもう人間の諸悪の根源である」と。ねたみは自分の方だけを大きく見て他の方を小さく見るからです。それは肉に支配された性質を野放しにするからであります。そこから争いが生じやがて民族と民族の争い戦争が耐えません。又小さくともそうしたことは教会の中でも起こることです。

パウロの時代に限らず21世紀の教会の中に燻っている問題であります。信仰によってキリストに生かされ導かれて行くことです。どうか教会の中心に主イエス・キリストがおられ又私たちの信仰生活に主イエス・キリストがいっぱい満ち満ちていてくださるように祈って行きたいものであります。

<アーメン>

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