吉村博明 宣教師の市谷教会での説教です。「新しい礼拝のかたち」、マルコによる福音書12章41-44節

主日礼拝説教2015年11月15日 市ヶ谷教会

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿がありましたが、これは紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されました。これが第一神殿と呼ばれるものです。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚からエルサレムに帰還して、神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。最初これは、ソロモン王の神殿に比べてみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後エルサレムには「聖書の神」の神殿は存在していないことは周知のとおりです。

イエス様の時代の神殿はどんな建物かと言うと、まず敷地は横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分の罪と民の罪を神の前で償うために生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。

本日の福音書の箇所の出来事は、この神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。正確には、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったことになります。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、わりと容易に識別できたのでしょう。

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さて、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この二枚の銅貨は1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコがローマ帝国市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。しかし、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリです。では、1デナリはいくらかと言うと、それは当時の労働者の1日の賃金でした。今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値しかありません。イエス様は、これがそのやもめの全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対的にみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいのお金ですから、やもめにとってはとても大きな価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。また、やもめの献身は金持ちよりも尊いものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをもっと掘り下げてみたいと思います。

 

2.

本日の箇所が教える大切なこととして、まず最初にあげられるのは、神の目は、御自分が造られた人間一人一人の上にしっかり注がれる、特に人の目には取るに足らないとみなされる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れました。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもありません。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神様はあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたことでしょう。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られていい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本に住む私たちにも身近なものです。そんな時、64分の1デナリしか入れなかったやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去られたかもしれません。

ところが、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、まさになけなしの金であったことを見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実性はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。

天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命と人生を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見てみます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。

このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知って下さり、絶えず目を注いでいて下さる、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、それは、神に忘れられたとか、見捨てられたとか、そういうことでは全くないのです。そのような状況を、まさに神に支えられて一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい危険な状況を通らねばならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることです。私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いの神が同じように方向修正をしてくれます。不意にトントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということなのです。それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。

 

3.

以上、神の目は御自分が造られた人間一人一人の上に絶えず注がれており、特に人の目には取るに足らないと見なされる者にこそ注がれるということについて申し上げました。本日の福音書の箇所が教えるもう一つの大切なことをみていきましょう。それは、何が正しい礼拝の形かについて考えさせるということです。礼拝とは普通、教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の宗教的儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕えて捧げものをすることです。神に仕えて捧げものをすることは、宗教的儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰においては、生きること自体が神に仕えて捧げものをするようになって礼拝的になっていくことを忘れてはなりません。

本日の箇所は、やもめの献身の真実さを示すことで、一種の美談として理解されるかもしれません。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが皆さんは気になりませんか?本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。使徒言行録2章をみると、聖霊降臨の出来事の後に教会が誕生して、そこで信徒たちが自分たちの財産や持ち物を売って、おのおの必要に応じて分けあったことが記されています。どうか、このやもめも信者の共同体の中で無事を得られたように願わずにはいられません。

そういうわけで、本日の箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないかと思います。本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて読むと明らかになります。まず、本日の出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めをみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っている、と神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが戦利品のように略奪の対象になっていることがあげられています。

イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったと考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その後で本日の箇所の出来事がきます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にするのです。本日の箇所の次をみると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の場所はもう存在に値しないということであります。そして、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年程の後でローマ帝国の大軍によって破壊されてしまいます。

ところでイエス様は、やもめの捧げ物が金持ちの捧げ物よりも大きな価値があるとは認めますが、それでやもめが神の国に入れるとかそこまでは言っていません。イエス様としては、100%神に捧げることは重要であるが、ただ、それが自分の持ちものから捧げ物をして神から見返りに何か恩恵を受けようとする、そんな捧げ方には反対なのです。そんな仕方で100%捧げても、それは神殿の礼拝の論理で動いていることにかわりありません。神に捧げることは重要であるが、見返りの恩恵のために捧げるのではない捧げ、しかも、捧げるからには100%捧げてしまうことが当たり前になるような捧げ、そのような前例のない神への捧げを可能にするためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、ある意味でそのような新しい捧げを先取りするものでした。イエス様はそれを神殿の礼拝の枠を打ち破って正しい方向に導いていくことを行ったのです。それでは、それはどのようにしてなされたのでしょうか?

答えの鍵は、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24-28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちの基本路線が記されています。どんなことかと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて最も神聖な至聖所に入って行って自分の罪と民の罪の双方を神の前で償う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げた、ということです。神のひとり子の神聖な生け贄ですので、でもう1回限りで十分です。これでも足りないとばかり、また何か生け贄を捧げるようなことをすれば、それは、神のひとり子の犠牲では足りなかったと言うのと同じになって、それこそ神を冒涜することになります。

そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、神からの罪の赦しがその人に効力を持ち始めるのです。こうして神から罪の赦しを受けられた人間は、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得られて、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神の御許の引き上げられて、自分の造り主のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。これがまさに「罪の赦しの救い」であります。

このようなとてつもない救いを受けた私たちの礼拝のかたちはいかなるものになるのでしょうか?もう神から見返りの恩恵を得るために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来た恩恵を受け取りなさいと言われて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備してそれを行ってしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神とはなんと恵み深い方なのでしょうか!

こうして恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、これからどうすればよいのでしょうか?何も神に捧げることはしなくてもよいのでしょうか?この疑問に対する答えは、「ローマの信徒への手紙」12章の最初の部分にあります。使徒パウロは次のように教えます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(1-2節)」。

「なすべき礼拝」というのは、原語のギリシャ語(λογικος)では「理性的」とも「霊的」とも訳される言葉です。理性的な礼拝、霊的な礼拝とはとてもわかりにくいので、新共同訳では「なすべき礼拝」とうまくかわしたのではないかと思います。ルターのドイツ語訳やフィンランド語訳の聖書では「理性的な礼拝」、英語NIVでは本文には「霊的な礼拝」とあって、脚注に「理性的な礼拝でもよい」などとあります。スウェーデン語訳の聖書では「霊的な礼拝」です。次のように考えれば意味はわかります。まず、何が「理性的、霊的でない礼拝」かを考えます。言うまでもなく、それはエルサレムの神殿で行われていたような、人間が何か生け贄とか何かを捧げて罪を償ったり神から見返りとして恩恵を頂くという礼拝です。

ここで使徒パウロが教えることは次のことです。イエス様の十字架と復活の後はもうそういう礼拝の時代は過ぎ去ったのである。キリスト信仰者は、イエス様の十字架と復活を土台にして神から「罪の赦しの救い」の恩恵を受け取ったのである。だから、もう、恩恵を受け取る前の単なる肉だけの存在ではないのである。聖霊を注がれて新しい霊性を備えた存在なのである。神の恩恵が頭のてっぺんからつま先まで満たされているので、その人の体や心や魂は本当はもう神に喜ばれる聖なる生け贄になっているのだ。だから、本当は神の思いに反するこの世の思いに従わないのは当たり前のことになるのだ。イエス様の十字架と復活のゆえに心が一新して変えられた者として、何が神の御心か、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるのが当然になるのだ。パウロはこうしたことを読者に思い起こさせているのです。

こうなると、神の恩恵を受け取った人というのは、今生きているのは自分なのか神の意思なのかわからなくなります。使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」と言っている通りになります。しかしながら、現実の世界を生きていく時、いろんな課題に直面し人間関係に揉まれていくうちに、こうした霊的に研ぎ澄まされた心が濁ってきたり萎えてしまうことはしょっちゅうあります。まさにそこに信仰の戦い、霊的な戦いがあります。それゆえ、キリスト信仰者は絶えずイエス様の十字架のもとに立ち返って、あそこで自分は神から計り知れない恩恵を与えられたのだと思い起こさなければなりません。まさにそのために主日の礼拝が重要です。主日の礼拝は、十字架のもとに立ち返ることができる大事な時です。今まさにしているように神の御言葉を聞いてキリスト信仰者としての自分の立ち位置を確認します。また、恵み深き神を歌声をもって賛美し、神の助けと導きに信頼して祈りを捧げます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通して神から霊的な糧を受けます。その糧を受ける時、私たちは聖卓の前で神のみ前に全く無に等しい者として受けます。実に聖餐式では私たちは神に自分を100%捧げているのです。それこそ本日の福音書の箇所のやもめのように100%自分を神に捧げているのです。しかも、主の十字架と復活の後の時代に相応しい仕方で、です。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは既に神から罪の赦しの恵みを頂いているのですから、この世の思いに振り回されず、神の思いにしっかり立ち、自分を神に喜ばれる生け贄として捧げてまいりましょう。そして、十字架のもとに立ち返ることができる主日の礼拝を大切にしてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第25主日
2015年11月15日の聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章41-44節

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