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聖書の学び | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

聖書の学び

クリスマスツリーの物語と聖書の学び、パイヴィ先生

クリスマスツリーの物語とパイヴィ先生の聖書研究会(PDFファイル)

「悩んでいる人」、旅人の歌 その2、聖書を開きましょう、パイヴィ先生

「悩んでいる人」と言うタイトルで詩編121を皮切りに新旧の聖書のみ言葉を学びました。

 

「悩んでいる人」

旅人の歌 その2

1 導入 〜 安全な歩みの約束

先月、私たちはスオミ・キリスト教会の今年のテーマを学び始めました。そのテーマの元となった聖書の箇所を覚えていらっしゃいますか。はい、詩編121編1節と2節です。はじめに、テーマを思い出しましょう。

詩編 / 121編(旧約聖書 p.968)

【都に上る歌。】1目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

前回は、人生の目的地について考えるために、詩編121編一節の最初の文に注目しました。今日は、前回に続いて、その1節の二つ目の文を勉強して、人生の歩みに必要な助けを求めることについて一緒に学んで頂きたいのです。 最近、旅行に行かれましたか?旅行に出発することは楽しいでしょう。計画を立てたり、荷物を用意したりして、旅に出る前の段階から、旅行を楽しむことができます。そして、誰もが、旅で良い時間を過ごし、無事に家に帰りつくことを、つまり安全な旅行を望んでいます。詩編121編は天国を目指す私達に次のことを教えています。私たちは、神様の助けと見守りによって、日々の生活を安全に歩むことができるということです。 1.詩編121編3節〜8節を読みましょう(旧約聖書 p.968)。

3どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

この箇所は、主に信頼し、主に頼る人は、神様の見守りのうちに、安心して平穏な生活ができると言っています。神様は私たちの全てを完全にご存じであり、愛してくださる方です。神様は、私たちの「足がよろめかないよう」、私たちを守るようにと天使達に命令されます(詩編91編10節〜12節。)けれども、皆さんは、これまでの人生を振り返った時に、楽で安心な生活というものはあり得ない、と思われるのではないでしょうか。 疲れたり病気をしたり大切なものを失ったりすることがあります。いじめられたり、ごまかされたり、苦難と不正に遭ったりする人も少なくないでしょう。苦難や挫折 (ざせつ)を経験しない、全くの平穏な人生を送る人はいません。現実には、子供の時から苦しい思いを経験してきた人も確かにいます。詩編129編の著作者も、そのような経験をしていると思います。

2. 詩編 / 129編 1節〜3節 (旧約聖書 p.972)

【都に上る歌。】

1.イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが 2.わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。 3.耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った。」

人生には厄介な面があり、それゆえ、人生は楽しい旅であると言い切ることはできません。

2.神様、どうしてですか 〜 悩んでいる人の疑問

人はなぜ、苦しまなければならないでしょう?なぜ私が、そして、なぜ私の大切な人たちが苦しまなければならないのでしょうか?神様が守ってくださるという話は嘘でしょうか?詩編121編を、どのように理解したらいいでしょうか?皆さんもこのような疑問を持ったことがあるかもしれません。 神様が全能で愛に満ちているとすれば、なぜその神様が創った世界に、苦しみがあるのでしょうか。小さな存在である人間の理性では、これを完全に理解することはできません。賢い哲学者たちでさえも、時代を超えて存在する悩みと苦しみに答えを見つけることはないでしょう。それゆえ、私たちは、聖書を読み、み言葉により頼むことしかできません。 なぜでしょうか。神様の思いは私たちの思いをはるかに超えた所にあるからです。 3.イザヤ書 / 55章 8節〜9節 (旧約聖書 p.1153)

8.わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる 9.天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

聖書には、苦しみについての書があります。それは何という書ですか?ご存じの方は、いらっしゃいますか?はい、ヨブ記です。神様を信じ、正しい方であったのに、ヨブに襲(おそ)いかかった災難は、想像もできないほどのものでした。ヨブは財産と健康を失なったばかりか、十人の子供を失い、妻と親戚の者の支えをなくしました。そして、人間の尊厳までをも失い、その上、世間のあざけりを受けました。そのようなヨブの言葉を読みましょう。

4. ヨブ記1章20節〜22節 (旧約聖書 p.776)

20.ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 21.「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 22.このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

今読んだ箇所に二点、興味深いことがあります。一点目に、ヨブは全てのことを、すなわち幸福なことも不幸なことも、主からいただいたこととして捉えたということです。まさに、主が与え、主が奪うのです。悪いことや恐ろしいこと、それは決して神様の許可なしには起こりえません。

5.イザヤ45章7節(旧約聖書 p.1135)

光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。

二点目に、ヨブはそのような厳しい試練の中にあっても、罪を犯さなかったということです。ヨブが友達に言った、次の言葉を聞いて下さい。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった(ヨブ記 / 2章 10節、旧約聖書 p.777)。ヨブは、不信仰への誘惑に遭いましたが、それに負けませんでした。試練はかならずしも罪を生み出すわけではありません。しかし、試練は、罪を犯す危険性をはらむ誘惑へと代わる可能性があります。

誘惑と試練をそれぞれ簡単に定義します。1.誘惑とは悪いこと、危ないこと、禁じていることへおびきだすこと、つまり罪を犯すことへの誘いです。そして、2.試練とは、信頼を厳しく試されることです。ですから、試練は誘惑へと代わる可能性があります。長いあいだ辛くて難しいことが相次ぐと、人は、神様の助けや愛に迷いをおぼえ、信仰までもなくしてしまう危険があるでしょう。

マイリス・ヤナツイネンは「主はとられる 大震災を経て〜ヨブ記を読む」という本で二つの誘惑について書いています。一つは、罪は大変美しく、魅力的に見えてしまうこと、もう一つは、かけがえのないものを失ったために神から離れそうになること、です。そして、ヤナツイネンは次のように書き続けます。人は、健康、愛する人、名誉や仕事などを失ったとき、絶望し、信仰をなくして、みことばと聖餐を放棄し、神を呪い、自殺しようとしてしまう危険があることを。それがヨブの状態でした。(p.26)

苦しみと悩みには色々ありますが、その中でも、人間にとって一番深刻なものは、罪についての苦難です。自分の罪の恐ろしさを理解すればするほど人は悲しみを覚えます。では、試練と誘惑にあいつづける弱い人間はどうしたらいいでしょうか。

3.わたしの助けはどこから来るのか

ヨブや詩編の著作者たちに、私たちは共感を覚えます。私たちも「わたしの助けはどこから来るのか」という問いかけを続けているからです。それに対して、聖書は次のように答えています。

6.ヤコブの手紙 / 5章 13節 (新約聖書 p.426)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

私たちも試練に遭って、苦しんでいる時には、祈りましょう。 神様の前に立ち、心を開きましょう。大きい声を出して嘆いても構いません。聖書によると、人は弱い存在です。それゆえ、誘惑のわなに陥ってしまうのです。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。というみ言葉はマルコによる福音書 14章 38節に書いてあります(新約聖書 p.92)。私たちは、何か悪いことをしてしまいそうになる気持ちを抑えるために、神様に助けを求めましょう 。

7.哀歌3章55節〜56節 (旧約聖書 p.1291)

深い穴の底から/主よ、わたしは御名を呼びます。 耳を閉ざさず、この声を聞き/わたしを助け、救い出してください。

使徒パウロも、そのような時、何度なく神様に救われました。そして、罪を犯してしまった場合でも、その許しを得るために、神様のみ許に行きましょう。

8.詩編 / 130編 1節〜7節(旧約聖書 p.973)

1【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

罪を悔い改める人すべて、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されています。大胆に、聖なる神様に近づくことができるのです。天国に至るまで、神様に支えて下さいます。

9.コリントの信徒への手紙一 / 1章 8節 (新約聖書 p.299)

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

主は、御自分を頼る人を助けて下さる、と約束してくだざいました。

4.最後に、

人は苦難にある時には特に、混乱が早く終わって欲しいと望みます。そして、 平和と平安がある国に入りたいと強く思います。フィランド語にTaivasikävä というきれいな言葉があります。天国に行く事を待ち望むということを意味します。使徒パウロは、自分に襲いかかった様々な苦難について次のように記述していますが、彼にもそんな気持ちがあったのでしょう。  

10.コリントの信徒への手紙二 / 5章 1〜10節 (新約聖書 p.330)

1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって(苦しみもだえています)。

悩んでいても、キリスト者は信仰によって生きていると使徒パウロは語ります。神様から助けを求める私たちは、神様が助けの手を差し、伸べてくださる事に信頼をおくことができます。そして、イエス・キリストと共に天国への道を歩みつづければ、必ず、無事に、その目的地に着きます。神様は、はっきりと、天国の永遠の命へと私たちを励まして力づけて下さいます。

もし、ご自分がたてた計画に突然の変更を余儀なくされることがあっても、私たちは神様のご計画に絶対な信頼をよせることができます。理解できない人生の山も谷も、神様の隠された導きです。だから、私たちは全てのこと、幸いなことも苦しいことも神様を信頼し、すべてを神様に委ねましょう。聖書には、イエス­・キリストの助けと救いによる頼むならば、不幸なことのように思える試練も、最後には私たちにとっての幸せへと変わるという約束が 書いてあります。

11.ペトロの手紙一 / 1章 3節〜7節 (新約聖書 p.428)

3.わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 4.また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 5.あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 6.それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 7.あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

イエス・キリストの恵みによって、試練と死さえも、神様の国に入る扉なのです。今日の聖書の学びを星野富弘さんの言葉で終えたいと思います。

「いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった

いのちより
大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった」

聖書を開きましょう「二つの国の市民、旅人の歌 その1」 、パイヴィ先生

1 導入 

これからの秋の聖書の学びで、スオミ・キリスト教会の今年のテーマを一緒に勉強しましょう。週報にもホームページにも載せたテーマをもう覚えてくださった方がおられるでしょうか?テーマは詩編121編1節と2節に書いてあります。そのテーマの御言葉を3つに分けて、学んでいきたいと思います。今日は、初めに、大一節に注目して、人の目的地について考えましょう。次に、人生の歩みに必要な助けを求める事について、そして最後に助けて下さる主について学んでいきましょう。では、まず、聖書を開いて、テーマの元になっている

1.詩編121編を1節から終わりまで読みましょう。(旧約聖書 p.968)

イスラエル【都に上る歌。】

1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

都に上る歌。詩編の始まりに書いてある通りに、詩編121編は都に上る旅の歌です。このような旅人の歌は旧約聖書の詩編、つまり讃美歌、の中で120編から始まり、134編まで続きます。それはエルサレムに向かっている人たちの安全な旅を表しています。エルサレムは神殿がある聖なる都です。昔のユダ人は、どんな時にエルサレムの神殿に行ったでしょうか?巡礼者は大きなお祭りの度にエルサレムへ上って行きました。イエスも子供のころ両親と一緒に神殿に行ったことを覚えておられるでしょう。

2.ルカによる福音書 2章 42節 (新約聖書 p.104)

イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

またイエスは人々によく知られるようになってからも、例えば、仮庵祭のときエルサレムを訪れました。

3.ヨハネによる福音書 7章 2節と10節 (新約聖書 p.177)

ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた...しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

仮庵祭の他に、ユダヤ人にはどんな祭りがあるでしょうか?

例えば、過越祭、除酵祭、また七週祭と贖罪日という祭りがあります。そのようなとき、昔のユダヤ人は罪を赦してもらうために神殿で祈ったり犠牲をささげたりするために都に上りました。

(ユダヤ人の祭りについて参考に読んで下さい。
 仮庵祭
1 過越祭と除酵祭2   七週祭3   贖罪日4

 

では、聖書はさきほどお話した巡礼者の旅についてどのように教えているでしょうか?

4.詩編 84編 5〜6節から、調べましょう。(旧約聖書 p.921)

5 いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら 6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

6節に目に注目しましょう。そして、それを英語とフィンランド語と比べましょう。

Blessed are those whose strength is in you, whose hearts are set on pilgrimage.

Onnellisia ne, jotka saavat voimansa sinusta, ne, jotka kaipaavat pyhälle matkalle. (Ps.84:5)

日本語に訳すと、どちらもの意味も「あなたによって勇気を得る者は幸いです。聖なる旅(巡礼)を待ち望む者はいかに幸いでしょう。」つまり、聖書は神様の神殿に行こうとする人を幸いな者としてほめているでしょう。どうしてでしょうか?答えは7節と8節に書いてあります。では、詩編の121編で歌われている旅はクリスチャンにとってどんな意味でしょうか?

 

2 人生の目的(旅人の目的地)

5.詩編121編1節の最初の文をもう一度読んでみましょう。(旧約聖書 p.968)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

この一節は、「目を上げて」という言葉で始まります。エルサレムはその周辺と比べると

少し高いところですので、そちらに行くとき上って行かなければなりません。それが分かると、私たちは 旅に出た人のことが想像できるでしょう。旅に出た人は遠くにある都がまだ見えなかったのです。けれども、目的地を目指して目を上げていたでしょう。私たち

もそれと同じように、神様が約束された希望ととこしえの幸いに目を注ぐのです。

6.コリントの信徒への手紙二 4章 18節 (新約聖書 p.330)

わたしたちは見えるものではな、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

私たちは毎日の忙しさの中で、目指している目的地を忘れ易いものです。では、どうして永遠の目的地はそれほど大切ですか?その理由の一つは、フィンランドのある子ども讃美歌にもこのように書かれています。「ぼくは神の苗床の苗。天国のために作られた」。人は神の国のために造られたものです。また、次の箇所に人生の優先順位について書いてあります。

7.マタイによる福音書 6章 33節 (新約聖書 p.11)を開きましょう。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる

人生は大事な贈り物ですので、それを上手に使うことは重要なことです。けれども、何を一番大切にするかは、今読んだ通りです。生活で神の国を重んじるならば、人はそれ以上のことを心配しなくていいのです。約束通り、神様は自分の子どもたちに必要なものを備えて下さいますから。

要約すると、人生には意味があり、目的もあるということです。永遠もありますから、死は私たちの終わりではありません。そして、私たちは二本の道のどちらかを選びます。

8.マタイによる福音書 7章 13〜14節 (新約聖書 p.12)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

あなたはどちらの道を歩んでいますか?何を目指して人生を過ごしていますか?永遠をどこで過ごしたいですか?正しい道を選んで、天国を目指して生きていきましょう。

 

3 シオンの山 〜 神の国

詩編121編に戻りましょう。1節によるの、目を上げて、旅に出た人は何を見ましたか?「わたしは山々を仰ぐ。」旅人には周りと前の方にある山しか見えなかったのでしょう。では、あなたにとって山はどういう意味がありますか?富士山をどう思いますか?それをどのように感じますか?富士山はきれいな形のとてもいいイメージのものであるし、神聖な山としてもとらえているのでしょうか。日本の山々に比べるとイスラエルの山は違います。一つの違いは山の高さです。一番高い山でも1200メートルぐらいしかありません。聖書では、イスラエルの山に対してどんな意味があるのでしょうか?例えば、

9. ミカ書4章2節を読みましょう。(旧約聖書 p.1452)

多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

この箇所に書いてある主の山は何ですか?その山の他の名前は「シオンの山」です。シオンとはどんな意味かご存じですか?最初に、旧約聖書の王ソロモンはエルサレムに始めての神殿を建てたとき、それをシオンの山に建てました。さて、聖書はシオンという名前をある時はエルサレムの神殿の周辺という意味で、またある時エルサレムの都について使いますが、シオンはイスラエルの国全体という意味もあります。更に、シオンとシオンの山に関しては、聖書はこうも語っています。シオンは祝福ととこしえの命の場所という意味で5、シオンの山は主の名が置かれた場所という意味です6。そして、主が住まわれる場所です7。しかし、天国にあるシオンの山もあります。クリスチャンはそこに向かって地上の生活をしています。

旧約聖書はイスラエル人がエジプトから出て行ったときの旅について語ります。そのとき、神様がシオンの山で現れて、人々は恐れて身震いしました。

10.ヘブライ人への手紙 12章 18〜21節 (新約聖書 p.418)

18〜19 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。

けれども、次の節は、罪を赦していただいて、天国に到着した人のことについて述べています。その時は、シオンの山を近づいてももう恐れる事も身震い事もありません。天使たちと一緒にお祝いすることだけです。

11.ヘブライ人への手紙 12章 を続けましょう。22節(新約聖書 p.418)

しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、

 

4 最後に 〜 二つの国の市民

クリスチャンには二つの国、国籍があります。生まれた国の国籍と洗礼を通して頂いた神の国の国籍です。クリスチャンは二つの国の市民です。今この地上に住んでいるところですが、天国を目指しています。目的先を知っているので、苦難の日にも希望を持って生きています。クリスチャンにとって、一番良いときはこの世においてはまだ実験しません。けれども、約束された神の国の幸せはかならずやって来ます。イエスによって一人ひとりのために天国の住まいが用意されているのです。あなたも私もイエスを信じていつの日かそこに入りましょう。

フィンランドにこんな諺があります。クリスチャンの足は地を踏みますが、心は天国に上ります!今日の聖書の学びを

12.ルカによる福音書 12章 34節で終えましょう。(新約聖書 p.132)

あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 


 

1 ヨハネによる福音書/ 72節 (新約聖書 p.177)ときにユダヤ人の仮庵祭が近づいていた...しかし兄弟たちが祭りに上って行ったときイエス御自身も人目を避け隠れるよにして上って行かれた

2 マルコによる福音書/ 141節 (新約聖書 p.90)さて過越祭と除酵祭の二日前になった祭司長たちや律法学者たちはなんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そと考えていた

3出エジプト記/ 3422旧約聖書 p.152あなたは小麦の収穫の初穂の時に七週祭を祝いなさい年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい

レビ記/ 259旧約聖書 p.202その年の第七の月の十日の贖罪日に雄羊の角笛を鳴り響かせる

4出エジプト記/ 3422旧約聖書 p.152あなたは小麦の収穫の初穂の時に七週祭を祝いなさい年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい

レビ記/ 259旧約聖書 p.202その年の第七の月の十日の贖罪日に雄羊の角笛を鳴り響かせる

 5 詩編/ 1333節 (旧約聖書 p.975)

ヘルモンにおく露のよに/シオンの山々に滴り落ちるシオン主は布告(ふこく)された/祝福ととこしえの命を

6イザヤ書/ 187節 (旧約聖書 p.1088)

そのとき貢ぎ物が万軍の主にもたらされる背高く肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍の主の名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる

7 イザヤ書 8章 18節 (旧約聖書 p.1073)

見よわたしと主がわたしにゆだねられた子らはシオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である

この箇所によると、 シオンの山は主の住まわれる場所です。

 

聖書研究

本日の木村先生の聖書研究は、三位一体の神(その2)でした。マタイ福音書11章25節でイエスは「天の父なる神よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のあるものや賢い者に隠して幼子にあらわして下さいました。父よ、これは、まことに御心にかなったことでした。全てのことは父から、私に任せられています。そして子を知る者は父の他に無く、父を知る者は子と父をあらわそうとして、子が選んだ者との外に誰もありません」と言われました。

①キリスト教で神を知るのは、神がイエスを通して、神がいかなる方かを語って下さるのを聞いて知るのです。

②だから、キリスト教ではイエスなくしては神はわからないのです。イエスは人間にとっての神なのです。イエスは、もちろん人間としての人間でなくては困る。そして神様は人間イエスの言葉や行動を通して、御自分自身を私たちに示して下さるのです。

③イエスをのけると人間は直ちに自分の頭で神を考え始める。そうすると暗中模索になってしまうか、自分よがりの考えにおちいってしまう。

④生ける神は語ってくる神であり、その神の語る言葉はイエスを通して、イエスの言行を通して語ってこられるのです。

⑤だから聖書は神の言葉である、というのです。つまり、聖書はイエスの事が書いてある書物であり、そのイエスは神が人間へ語り給う神の言葉だからであります。

⑥このように私たち人間の側からすると、私たちは人間イエスを通さなくては神を知ることはできない。

⑦神ご自身が私たちに向かって「今、お前は、私に従って生きるか、どうか」と問いかけ語りかけ呼びかけて、その答えを迫って来られる。「一寸待って下さい。しばらく考えます」と言えば、これはすでに「否」と言ったことである。

⑧そういう神の語りかけが、また呼びかけがイエスを通して私たちの上に起こってくるのです。そういう人間への神の呼びかけ、語りかけを私たちの所へ持って来るイエスはマタイ福音書の言葉によると自分と神の関係を父と子の関係だと呼ばれているのです。

⑨そして「父を知る者は神の子の外になく又、子を知る者は父の外にない」と言われている。

今日の言葉  良寛(禅僧 歌人 1757~1831)

花 無心にして蝶を招き  蝶 無心にして花を尋ねる

花 開くとき蝶来たり   蝶 来るとき花開く 知らずして天則に従う

 

 

聖書の学び 「神様の二つの計画、その二」  パイヴィ先生

神様の救済の計画

1 導入

聖書によると、神様は人間のために二つのプランを立てられました。一つは人間を救うことのための計画で、もう一つは一人一人の人生のための計画です。先月は、自分の人生をいかに使ったら良いかと一緒に考えました。今日は、神様の救済の計画をテーマにしましょう。初めに、聖書を開いて、1.人間にとって重大な問題について、2.その問題に対して人間がどんな解決をするかをみてみましょう。その後で、3.なぜ神様の救済の計画が必要だったのか、そして、神様はどんな救済の計画を立てられたのかということについて学びましょう。

1.人の問題

神様はなぜ人間を造ろうと思われたかと考えたことがあるでしょうか。じゃ、両親はなぜ子供がほしいのでしょうか。自分の子供を愛するためでしょう。神様も同じように人を愛して下さるために人を創造されたのです。そして、神様は人を永遠に愛そうと思われたのです。この間学んだことを少し振り返ってみましょう。神様は私達が何をする為に命を与えられたのだったでしょうか。人生の目的は何だったか思い出してみましょう。

1.エフェソ信徒への手紙2章10節(新約聖書 p.353)
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。私達は善い業を行う為に造られた者です。神は、人が神ご自身を初め、隣人を自分のように愛するようにと命じられましたね。更に、地球と被造物を守るように教えられました。しかし、人はそのようにはうまくできませんでした。最初の人、アダムとエバから、人間は神様のみ言葉より悪魔の声を聞き、罪に陥って存じのように恐ろしい結果になりました
。神様と人間の信頼関係が破れて、人間は神様のみ前から追い出されてしまったのです。更に、死の陰が人生を覆ってしまいました。それは肉体的な死の意味、また永遠の死、すなわち地獄、という意味をも持っています。認めにくいかもしれませんが、全ての人は罪人なのです。

2.ローマの信徒への手紙5章12節(新約聖書 p.280)このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及(およぶ)んだのです。すべての人が罪を犯したからです。私達は「悪いことをしてしまった」ということを認めたくないでしょう。人間は自分がどんなに悪いかを知っているのに、まるでそれを忘れているかのようです。「それほどの罪ではない」というふうに自分の悪さを軽くしたがるのも常でしょう。更に、「僕はちょっと悪いことをしただけで、重い罪を犯した人に比べるとなかなかの善人だ」と思ったりするでしょう。しかし、私達は自分が潔白だとは主張できませんし、自分の罪から逃げることもできないのです。

3.ローマの信徒への手紙2 章1節(新約聖書 p.274)だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他者を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。次に、人間は、この問題をどのように解決しようとするでしょうか。ある牧師とルディという男性の語り合いについてお話ししたいと思います。

 

2.人間がとる解決
~ 善い行い

奥さんに教会に連れて来られたルディさんは困った顔をしていました。奥さんは何か急な用事でどこかへ行ってしまって、ルディさんを牧師の私のそばに残したからです。私は笑顔で「どうなさいましたか?」と聞きました。「家内は僕が信者になってほしいと願っている」と当惑顔のルディさんは言いました。「どうして奥さんはそう願っているのですか。」と私が尋ねると、「僕が地獄に落ちないためだ」とルディさんは答えました。「あなたはすぐそこへ行くつもりだったのですか」と私が聞くと、ルディさんはびっくりしてちょっと頭をあげて私の顔を見ました。そして笑い出しました。聖書を教える先生にユーモアがあることに気づいてルディさんは安心しました。「あなたは、ある日神様の前に立ちますね。そのとき地獄に落ちないようにするためには、どうしたらよいでしょうか。」と私は続けて聞きました。しかし、ルディさんは何も答えられませんでした。やっと「僕はそんな視点から考えたことはない」と言いました。そして少し遠慮しながら「僕は悪い人間じゃない。他の男みたいに女たちと遊ぶこともないし、いい人としてやってみるよ」と言いました。私はルディさんの理解を助けてあげようと思いました。「あなたは、神様がスケールのとても広い方だと思っているのではないでしょうか?あなたの罪がスケールの一方の端っこにあるように思っているのではないでしょうか?ルディさん、あなたも何か悪いことをしたことがあるでしょう?」「うん」とルディさんがうなずきました。私は話し続けました。「また、そのスケールの反対の端っこにあなたの善い行いがありますね。例えば、奥さんやお子さんや社会に対して行った善いことです。その通りですか?」「はい、はい、その通りです」とルディさんは熱心にうなずいて同意しました。「そして、もし、神様があなたの人生を評価するとき、悪いことより善い行いの方が多かったら、地獄に落ちる心配はないということなのでしょうか?」と私はルディさんの考えをまとめてみました。彼は、私の言葉通りと言って、少し微笑しました。「あなたの考えは、なかなか当を得た考えだ 」と私は言いましたが、ぺンを取ってノートに線を描きました。

完全に悪いこと…………………………完全に善いこと
(0%善いこと)        (100%善いこと)

「けれども、一つ難しい質問があります。善いことがどのくらい必要かご存じですか?」と私は尋ねて、ペンをルディさんに渡しました。「天国に入るために、ルディさんの行いの中で善いことの割合は何パーセントぐらいだったら十分でしょうか?その量を示せるように、そこに丸を描いて下さい。」ルディさんはペンを取り、適当な場所を探して、丸を大体60パーセントの所に描きました。けれども、ルディさんは考え直して、それをすぐ75パーセントのあたりに移しました。さらに、もう一度迷って、とうとう70パーセントの所に描いて、目を下の方に向いて、ペンを私に返しました。「はい、ありがとう」と私は言いました。「ルディさんは悪い人ではないと思います。けれども、もし神様が、天国に入るためには、例えば71パーセントが必要だとおっしゃったら、あなたのような人はその場合どうなるのでしょうか?」「地獄に落ちるしかないでしょう」とルディさんは私を見ないで答えました。「そんなことにならないように、丸の正しい場所はどこにあるかということを前もって、それも神様に会う前に、確かめるのが大事ではないでしょうか?」と私は言って礼拝堂を出て行こうとしました。「私は、丸の正しい場所を知りたいです。時間があったら、それについて先生に教えていただきたいと思います。お願いします。」とルディさんは頼みました。こうなることを待っていた私は内心とても喜んで静かな場所を探し、聖書を開いて、ルディさんに天国への道を教えました。あなたは丸の正しい場所がわかりますか?

3.神様の救済の計画

なぜ神様の救済の計画が必要だったのでしょうか。まず、神様の前でどんな人が正しい者とされるのか調べてみましょう。

4.レビ記18章4~5節(旧約聖書 p.190)わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。私の掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。掟を守る人は義なる神様の前で義とされます。新約聖書にも同じように伝えています。

5.ローマ10章5節(~13)節(新約聖書 p.288)モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。神様に前で義とされているということは、 善いこと、また正しいことです。このように、律法を全うする人は義とされるわけですが、掟を完全に全部守ることができる人は誰一人(だれひとり)いないのです。だから、人は善い業を通して救われることはないのです。

6.ローマ3章20節(新約聖書 p.277)なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。神様の掟を守ろうとする人は、まず自分の罪を認めるしかないでしょう。また、その自分は罪の罰から逃げることは出来ないという事実も見いだします。しかし、

7.テモテへの手紙一2章4節(新約聖書 p.385)神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
この次の箇所は、神様の人に対する愛の深さを表しています。

8.ヤコブの手紙4章5~6節 (新約聖書 p.425)それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのでか。「神はわたしたちのうちに住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」神様の救済の計画はどんなものだったでしょうか。人間は自分の力で自分を悪や罪や死から解放することはできません。イエス・キリストの他に、私達には希望はありません。そこで、イエス・キリストは御自分の死によって天に入る道を開いてくださいました。実は、その道はイエス・キリストご自身なのです。礼拝で何度も聞いた「ミニゴスペル」とも言われる、すなわち「良いお知らせ」という聖書のみ言葉を、皆さんもう覚えられたと思います。それを思い出しながら、声を合わせてご一緒に言ってみましょう。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。これはどこに聖書のどこに書いてあるでしょうか。ヨハネによる福音書3章16節(新約聖書p.167)次の箇所も読みましょう。

9.ローマの信徒への手紙3章23~24節(新約聖書 p.277) 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる購いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

4. 最後に

今日学んだ神様の救済の計画は一言(ひとこと)で言えば、私達は信仰を持って、恵みによって救われるということです。

10.エフェソの信徒での手紙2章8節~9節(新約聖書p.353)事実は、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。この間、神様の人生に対する計画について学んだとき、私達は善い業のために造られた者だと学びましたね。

11.エフェソ信徒への手紙2章10節(新約聖書 p.353)なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

それなら、この2つの教えの間に矛盾(むじゅん)があるかと思う人もいるでしょう。けれども、矛盾はありません。ある先生はよく働くクリスチャンに「働き者だという性格は、贈り物として使うと良いね。でも、決して、人や神からも愛や称賛や承認を『買う』ためにそれを使ってはいけないよ。」といいました。神様の恵みは無償、つまりただなのです。では、これが真実なら、神様から恵みをいただいた私達はどのように神様に応答すべきですか。

12.ミカ6章8節 (旧約聖書 p.1456)人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義
を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。これが神様に対する感謝の応答です。善行は救いを得る手段ではありません。善い業は救いのもたらす成果、恵みの感謝です。イエス・キリストを信じて罪を赦していただいて、私達は人生も永久も神様と共に生きることができます。この罪の許しを信仰によって受け取りませんか。もしあなたがそうされたら、神様との親密な関係の中で永遠に生きることが出来ます。あなたの為にも、私の為にも神様に立てられた救済の良い計画はこれなのです。

聖書の学び 「神様の二つの計画、その一」  パイヴィ先生

 

神様からの人生の計画

1 導入

神様は私達に掛け替えのない命を与えられました。しかし、私達はこの一つしかない人生をどのように使っているでしょうか。特に若い人の中には、自分の人生をどう生きたら良いかと悩んでいる人もいるかもしれません。しかし、年をとってもこの疑問を忘れないことは良いことです。年齢によって、皆出来ることがだんだんと変わっていきますから。人は自分の命の使い方を自分で決定出来ますが、私達をお造りになった神様は、私たち一人一人の人生にもご計画を立ててくださっています。そこで、自分の人生について神様に尋ねるということを御一緒に考えてみたいと思います。

神様を信じていたユダヤの王、ヨシャファトの例を、見てみましょう。ヨシャファトは戦争の計画をしているイスラエルの王に、どのように助言したのでしょうか。

1.列王記上22章5節(旧約聖書 p.572)
しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めて下さい」と言いました。賢い人は、自分の考えが正しいと思っても、勝手に自分で決めないで、まず神様に尋ねて決定します。これを見て下さい。何が書いてありますか。この点は短い人生を、この矢印のある点線は終わりのない永遠をあらわします。神様がそのどちらも人に用意され、与えられたものです。
          

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聖書には、神は人に対して、二つのプランを立てられたと書いてあります。一つは人間を永遠の命に救うための計画で、もう一つは私達一人一人の人生のための計画です。救済の計画は皆にとって同じですが、人生に対する計画は人によって様々です。来月は、救済の計画をテーマにして、今日は、神様に与えられた人生をいかに使ったら良いかということを、ご一緒に考えてみましょう。まず、人生の一般的な目的について考えて、その後に、一人一人に与えられている人生の使命について学んでいきましょう。

 

2 人生の目的

神様は何のために人間を造られたのだろうと考えたことがありますか。聖書を開いてみましょう。初めに、旧約聖書を見てみましょう。
2.創世記1章26節 (旧約聖書 p.2)神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

3.創世記2章15節(旧約聖書p.3)主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。このように、神様は人を、ご自分の仕事仲間(同労者)また、協力者として造られました。すなわち、人は神様が造って下さった地球を住まいとして与えられていますが、その地球と被造物を守る役が与えられています。人生の目的は与えられた地を耕したり、守ったりすることなのです。次に、新約聖書を開きましょう。

4.エフェソ信徒への手紙2章10節(新約聖書 p.353)なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。この箇所によると、人は良い業を行うために造られたものです。しかし、その善い業とはどんなことでしょうか。答えは次の箇所に書いてあります。

5.マタイによる福音書22章35節~39節(新約聖書 p.44)(そのうちの一人、)律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この掟はルカによる福音書10章27節(新約聖書p.126)まとめてあります。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。

 (同じ掟が、旧約聖書にも書いてあります。例えば、
申命記6章5節(旧約聖書 p.291)あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
レビ記19章18節(旧約聖書p.192)。。。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。。。)
一言で言えば、人類の共通の任務、あるいは使命は、「愛すること」だということです。しかし、この愛は人類愛だけの意味ではありません。上の箇所に基づいて、フィンランドのある牧師で、キリスト教カウンセラー、またセラピストであるヴァリマキ・ペトリ(Valimaki Petri)によると、人は愛する関係に造られた者なので、人生の目的はこの愛する関係を3つの人間性のレベルで生かすことだと言われています。愛はまず、人と神様の関係の中で、また、自分と他人の関係の中で、更に、自分に対して生かすべきものです。愛することは人類の共通の使命です。けれども、だれでも、それを自分らしいやり方で生かしていいのです。一個人の使命もありますから。では、次に、一人一人の人生の目的について考えてみましょう。

3 一人一人の個人的な使命

全ての人は母の胎内で神様ご自身によって形作られました。ダビデ王はこう歌っています。

6.詩編139編13節(旧約聖書 p.980)あなたは、わたしの内蔵を造り母の胎内にわたしを組み立ててくださった。だから、神様は、私達が生まれる前から、私達をご存知でした。あなたも私も偶然として生まれた者ではありませんし、間違いもありません。あなたは神様の愛に満ちたご計画の中に存在していました。そして神様の御心の通りに造られた者です。だから、あなたの人生には目的があります。例えば、神様が預言者エレミヤの人生に計画を立てられたことについて読みましょう。

7.エレミヤ1章4節~10節(旧約聖書 p.1172)主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」。。。しかし、この言葉を聞いたエレミヤは若かったので、最初に神様に告げられた使命に抵抗しました。けれども、神様に励まされたり、また準備を与えられたりして、ついに受け入れました。そして、神様の助けによってその使命を果たしました。同じように、神様は私達一人一人にも使命を与えられ、それを果たすために様々な賜物を与えてくださっています。それは生まれながらいただいている、「自然な才能」と、また洗礼を通して新たに生まれた者に与えられる霊的な「恵みの賜物」です。先ほどのカウンセラーのヴァリマキは、人は人生の目的を達するために、自分の使命が何かを見つけ出さなければないと言います。けれども、自分の人生の使命は何かを、どのように見出すでしょうか。そのために、ヴァリマキは4つのアドバイスと質問を投げかけています。最初に、マルタとマリアの記事を思い出して考えましょう。

8.ルカによる福音書10章38節~42節(新約聖書 p.127)イエスはこの二人の女の家を訪問された時、マルタはいつものように女主人としての役目をし始めましたが、マリアは何をしましたでしょうか。第一のアドバイスは、私達もマリアのように手を止めて、イエスの元に行き、話に聞き入れたり祈ったりしてイエスの御心を尋ねてはどうでしょう。そして、じっと聞くということです。神様は色々な方法で私達に答えて下さいますから。二番目は、自分の心の声を聞くということです。神様は私達の心に働いておられますから。

9.フィリピの信徒への手紙2章13節(新約聖書 p.363)あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。あなたが一番やりたいと心の中で思っていることは何でしょうか。何のために頑張りたいのでしょうか。あなたは、自分にとって何が人生で大切なことだと思っていますか。三番目は、自分の周りを見ることです。あなたはどこで、だれを愛することが出来るでしょうか。遠くまで行く必要はないのです。例えば、あなたに家族があれば、あなたの一番重要な責任は家族のメンバーでしょう。四番目に考えることは、あなたにはどんな才能や賜物を与えられていますかということです。一人一人の才能や賜物は、それを十分に活用するために与えられています。才能は決して自分が人の前で輝くためではなく、自分の使命を全うするために与えられたものです。

4 要約

最後に,10.ローマの信徒への手紙11章29節(新約聖書 p.291)を読みましょう。神の賜物と招きとは取り消されないものです。素晴らしいみ言葉です。神の賜物と招きとは取り消されないものです。しかし、私達はこの神様の招きにどう答えるでしょうか。ヴァリマキは使命を次の一言で定義しています。あなたに与えられた使命とは「自分自身にぴったり合うもの」だということです。ご自分に与えられている才能を見つけて、磨いて、それを用いて下さい。神様があなたの人生に立てられた計画を実現できるのは、あなた自身だけなのです。

 

祈り

天にいます愛の父よ、イエス・キリストのゆえに、私たちに聖書をお与えください。聖書によって、私達の耳と心を開き、私達に語ってください。お約束を信頼し、イエス・キリストのみ名によって、あなたのみもとに近づき、祈りのうちに、信頼をもってあなたを語り合うことを教えてください。アーメン。

聖書を開きましょう「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 マタイ11章28節、パイヴィ先生

家に帰る道の休憩 その三

1.テーマ聖句と霊的な重荷

スオミ・キリスト教会の2011年のテーマ聖句は「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 マタイ11章28節(新約聖書 p.21)

素晴らしい招きと約束ですね。この聖句を元にして、私達は人が担っている重荷について学んできました。例えば、「人生の旅」を辛くする病気や疲れといった肉体的な苦労、そして、心配、恐れや悲しみのような重荷について話しました。しかし、今日はそれよりも重大な重荷について聖書を開いて一緒に学びたいと思います。この重荷の重さは私達が 人生の目的地、天国、に入ることも阻むほどです。これほどの力がある負担とは、一体何でしょうか。

最初に、

1.マタイによる福音書9章1〜8節(新約聖書  p.15)を読みましょう。

この中風で悩む男の人の話を読んで、驚くところがありませんか。 病気の男の人とその人を運んであげた人たちは何を望んでイエスのもとに来たと思いますか。男の人を直してもらいたかったでしょう。6節によると、イエスはこの願いに答えられ、病気を癒されました。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。(6節)けれども、なぜイエスは最初に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(2節)と病人に言われたのでしょうか。人々の病気による悩みもよくご存じだったイエスは、病気より重大な問題があるということを教えられたのでしょうか。イエスは一番重い荷、つまり罪、から人を解放したいと思われたのです。

2.どうして罪はそれほど悪いことでしょうか。

罪は霊的な重荷だと言われますが、抽象的な苦しみではありません。罪は内的と外的な影響に加えて、永遠に渡る影響も与えます。

霊的な重荷には最低3つのものがあります。まず1.犯した罪の結果、自分自身や他の人を取り巻く環境にもたらす迷惑や悩みです。次に2.「罪を犯してしまった」という責めと後悔の念 です。罪は霊的なものなのに、罪の重荷には肉体的にも精神的にも苦しみをもたらすのです。また、さっき言ったように、罪の結果の苦しみは、決して個人の生活に留まらずに、社会や世界中にも広がっています。1番目と2番目のような苦難は、罪の人生にはっきりと辛い影響を現わします。嘘、偽り、家庭暴力、子供の虐待、などです。マルコによる福音書7章22節(新約聖書 p.75)にこうあります。 「姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」これは、大変な不幸ですね。そして、罪に伴う責め、恥と恐れも余り良い旅の道連れではないでしょう。

しかし、3番目の苦労は罪の本当の怖さを表します。3.罪の罰を担う重荷です。

2.ローマ6章23節を読みましょう。(新約聖書   p.282)

「罪が支払う報酬は死です 。」罪は神の前で決して小さいものではありません。それどころか、罪は恐ろしいものです。人にとって死ほど深刻な問題はないでしょう。もともとは、死も他の悩みも神がお造りになった世界にありませんでした。創世記によると、それは罪のせいで、悪と同時に、この世に入ってきたものなのです。

3.創世記1〜3章を見ましょう。創世記1章31節(旧約聖書   p.2)

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

けれども創世記2章16〜17節をご覧下さい(旧約聖書   p.3)。神はエデンの園に住まわせて人に何を言われましたか。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」神は蛇の誘惑に陥ることの危険、死のこと、をアダムとエバに告げられました。(参考に、創世記3節3節も読んで下さい。旧約聖書p.3)

しかし、3章7〜12節(旧約聖書p.4)を読むと、人が神に対する最初の罪を犯して、それに伴って「罪の意識」、それは「恥」、「恐れ」と「責め」、が人の生活に入ってきたことが分かります。更に、3章を読み続けると、苦労も生活に入ってきたことが分かります。例えば、3章16節 (旧約聖書p.4)は女の産みの苦しみ、3章17節 (旧約聖書p.5)土が呪われるものになったこと、そして3章19節(旧約聖書p.5)労働の悩みを明にします。「お前は顔に汗を流してパンを得る」。更に、ついに死が人の生活に入ってきてしまいました。3章22、23節(旧約聖書   p.5)

4.ローマ6章23節に書いてある通りに、罪が支払う報酬は死です 。全ての被造物と同じに、この私たちの体もいつか死ぬことでしょう。これも罪の報酬ということですが、永遠の死ということもあります。裁きの日の後は、永遠に神と共に生きることと、永遠に神から離れてしまうことがあるのです。しかし、ローマ6章23節(新約聖書p.282)読み続けましょう。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。罪も深い問題ですが、イエスによる永遠の命は素晴らしい賜物です。では、この賜物はどのように得るでしょうか。私達はどのように罪、サタンと死から解放されるのでしょうか。

5.ミカ7章18節〜20節 (旧約聖書 p.1458)

「あなたのような神がほかにあろうか咎を除き、罪を赦される神が。 神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ我らの咎と抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことをアブラハムに慈しみを示して下さい その昔、我らの父にお誓いになさったように。」

私達は永遠の命の賜物を、神の愛と恵みと罪の赦しのみによって得るのです。旧約聖書にも新約聖書にも罪の許しについての約束があります。例えば、

6.イザヤ44章22節 を開きましょう。(旧約聖書 p.1134)

「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたをあがなった。」

また、福音を一言にまとめたと言ってもいい聖句を覚えていますか。

7.ヨハネによる福音書3章16節 (新約聖書 p.167)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この「ミニゴスペル」とも言われる聖句の意味を是非学んでください。もし聖書で一節を覚えたかったら、これを丸暗記し て下さい。イエスのみは苦しんでいる人を全人的に助けられる方です。残念ながら、イエスが再び来られるまでは、罪のせいでこの世に入った病気や苦しみは完 全に消えません。けれども、一番深い問題、罪、を解決できる神は他の問題の中にもある人たちをも助けることがお出来になります。

8.イザヤ63章8〜9節 (旧約聖書 p.1165)

「主は言われた 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主になられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし御前に使える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみを持って彼らをあがない 昔から常に 彼らを負い、彼らを担って下さった。」

9.イザヤ46章4節 (旧約聖書 p.1138)

「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。」

3.要約

教会は疲れた旅人のために用意された神の宿屋です。ですから、できれば、神の前に集うことができるために聖別された日曜日に一緒に礼拝に参加しましょう。そ れから、一人でいるときも、祈ったり聖書を読んだりすることを通してイエスのもとに行きましょう。例えば、毎朝、次のように祈りましょう。

10.イザヤ33章2節    (旧約聖書 p.1112)

「主よ、我らを憐れんで下さい。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり 苦難のとき、我らの救いとなってください。」

このように罪の許しを願いましょう。他の重荷も十字架の前に置いて、リュックサックの中身を軽くしていただきましょう。イエスは重い荷を担う人を絶えず、呼んでくださり、十字架のもとに来た人を憐れみを持って迎えて下さいます。そして毎日新たに「休ませて上げよう」と言ってくださいます。

聖書を開きましょう 「家に帰る道の休憩 その二」 パイヴィ先生

1.テーマ聖句の復習

人は世界を歩む旅人によく例えられます。クリスチャンにとって、人生は天国の家に続く道だと言ってもいいです。しかし、とにかく長い旅です。ですから、荷物はできるだけ軽い方がいいでしょう。更に、最後の目的地に到着することができるために、毎朝、新しく力を得ることが必要です。

今日は、週報の表紙に書いてあるスオミ・キリスト教会の今年のテーマの勉強を続けましょう。まず、聖句を思い出すために、それを一緒に声に出して読んでみましょう。

1.マタイ11章28節(新約聖書p.21)
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」

この箇所が、聖書のどこにあるか覚えていますか。

人に疲れをもたらす重荷は、人によって異なります。それはどんなものがあるのか、と先月に考えてみました。肉体・感情・理性・倫理、また霊的な人間は、肉体的・精神的、また宗教的な悩みと問題を抱えることがあります。前回は、肉体的な疲れから始めたので、今日は精神的なことに注目して聖書を開きましょう。また、今度は霊的な重荷について学びましょう。聖書を読むと、神はご自分がお造りになった私たち全員を全面的に助けたいと願っておられることが明らかになります。

 2.精神的な重荷

人の心は面白いものです。心は、喜んだり悲しんだり、楽しんだり悩んだりするものです。状況によっては、ほんの一瞬の間に変わることがあります。将来のことに対して、つまり私たちがまだ経験していないことに対して、
心は怖がったり心配したりしやすいのです。また、過去に対して、つまり私たちに起きてしまった何か大変なことなど、私たちは既に失ってしまった自分にとって何か大事なものに対して、心は悩んだり悲しんだりするのです。このような、辛く感じる心の重荷を一つずつ調べましょう。

 2.1恐れ 

あなたが怖がっている時に、「恐れるな」と言う励ましの声を聞いたことがありますか。どんな時でしたか、どういう状態の中でしたか、また誰がそれを言ってくれたのか覚えていますか。怖い思いをしている時、「恐れることはない」という言葉を聞くと励まされるでしょう。実は、「恐れるな」という言葉は聖書の中に何度も書いてあります。旧約聖書を読むと、神はこの言葉をイスラエルの偉い人物にも、アルラハム、イサク、ヤコブのような祖先、またモーセにも言われました。

※アブラハム(その時は彼はまだアブラムと呼ばれました。)

2.創世記15章1節(旧約聖書 p.19)

これらのことの後は、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」

イサク

3.創世記26章24節(旧約聖書 p.41)

その夜は主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。

同じように、ヤコブに

神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。」創世記46章3節(旧約聖書p.83)

またモーセに

主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。」 民数記21章34節(旧約聖書 p.250)

しかし、「恐れるな」という言葉は偉い人だけではなく、イスラエルの民にも向けられた励ましの言葉でした。イスラエルの民のように、私たちはイエス・キリストによって神に選ばれたものです。ですから、この言葉は、私たちにも向けられている言葉として読みましょう。

4.エザヤ41章10節-13節(旧約聖書 p.1126)

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を堅く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

「恐れるな」という言葉は新約聖書の人物にも、例えばヨセフとマリアに(マタイ1章20節、新約聖書 p.1、ルカ1章30節、新約聖書p.100)言われた言葉です。だからこそ、神はこの言葉を私たちのような普通の人にも言われます。神は私たちに何か難しいことをやり遂げさせたい時に、また毎日の生活をするためにも何度も繰り返して私たちに向けて言われます。 

2.2心配

しかし、恐れることだけではありません。恐怖につきものは心配でしょう。心配することもとても人間らしいことです。例えば、家族のことを気に病む余り、病気になってしまうお母さんたちは、少なくないでしょう。主は、このことをご存知ですから、将来のことを心配する私たちに向かって、「思い悩むな。思い煩うのはやめなさい。」とおっしゃいます。

5.ルカによる福音書12章22節(新約聖書)

「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。」わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を堅く取って言う (ルカによる福音書12章22-31節は、神がどのように私たちのケアをしておられるということについてかいてあります。それを家で読んで下さい。)

6.フィリピの信徒への手紙4章6節(新約聖書 p.366)

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。」

次の考えを聞いたことがありますか。「昨日は終わりです。あしたはまだです。しかし、今日は主の助けがある。」この言葉は、ずっと若いときから私にとって大切なものでした。

 2.3 悲しみ

心の重荷についていえば、恐れや心配に加えて悲しみがある時もあります。悲しみの余り気が沈むことは、珍しいことではないでしょう。苦悩や悲しさに直面した時に、私たちは何をしたらいいのでしょうか。

東北の大震災の後、皆さんは、「頑張ろう」という言葉をあらゆる場所で何度も見たり聞いたりしたでしょう。東日本大震災の後、被災地で心のケアを精力(せいりょく)的に行った、アンディ・ミーコ先生はこの頑張ることについてこう書いています。「まるで、どんなに悲しいことが起こっても、悲しそうな顔をしてはいけないかのように。でも、「もうこれ以上頑張らなくてもいいよ」と言わせてほしいです。泣いてもいいです。泣きたいだけ泣くことです。」

聖書の人物も悲しい時には、悲しんでいました。ヨブのことを覚えていますか。

7.ヨブ記30章28節(旧約聖書 p. 814)

「光をみることなく、嘆きつつあるき人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。」

苦しみ、悲しみ、悩んでいる人をどう迎えるかということについて聖書はこう教えています。

8.ローマの信徒への手紙12章15節(新約聖書 p.292)

喜ぶ人と共に喜ぶび、泣く人と共に泣きなさい。

聖書によると私たちには慰めの神もいます。だからこそ、この神の元に行きましょう。

9.詩編94編19節 (旧約聖書 p.933)

わたしの胸が思い煩(わずら)いに占(し)められたとき、あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました。

10.コリントの信徒への手紙二1章3節(新約聖書 p.325)

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。」

苦難を経験しながらも、その中で慰めを受けた人は、苦難の中にある他人を理解し、その人を慰めることができるでしょう。

11.コリントへの信徒への手紙二1章4節(新約聖書 p.325)

「神はあらゆる苦難に隠してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。」

従って、苦難や悲しみに対面する時は、一人で悩んだり悲しんだりしないでください。話し合うことが出来る相手を探しましょう。更に、出来れば友達と共に祈りながら慰めの神の元に行きましょう。 

2.4 切望

長い間、恐れ、心配、悲しみや苦難のストレスが重くのしかかっていれば、人は疲れて絶望しますが、それは珍しいことではありません。神様の預言者であっても疲れることがありました。例えば、旧約聖書のエリアという預言者は力を尽くして働いて、とうとう疲れてしまいました。そして、気が重く、暗くなり、(意気消沈した?気がめいった?)死にたい気持ちになりました。

しかし、聖書は何があっても、暗闇の中にいる時も、神に信頼するようにと教えて励まされます。主が私たちの代わりに苦悩してくださいます。ですから、安心してください。

12.出エジプト記14章14節(旧約聖書p.116)

主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。

 3. 要約

最後に、デイリーブレットから少し読ませてもらいます。「出エジプト記15章には、イスラエルの民たちが、神に導かれて荒野に旅立ったと記されています。旅を始めて3日目、彼らの水は尽き、あたりに水はありません。しかし神は、この問題をご存知でした。事実、マラ(25節)とエリム(27節)という所に解決が用意されていました。神は、水の問題を解決するだけでなく、彼らが休む場所も用意しておられたのです。

状況は困難に見えるときでも、神が導いておられることを信じましょう。神は、私たちがいつ何を必要なのかをすでにご存知です。」

13.サムエル記上7章12節(p.438)

サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、『今まで主は我々を助けて下さった』と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。

今日の話を要約します。心の重荷を抱え疲れた皆さん、今までの旅を顧りみてみましょう。ここまで、主は、私たちをずっと導いてくださいましたから、主はこれからも私たちを助け続けて下さるのです。

聖書を開きましょう 「家に帰る道の休憩 その一」 パイヴィ先生

1.テーマ聖句

人は世界を歩む旅人によく例えられます。目標地を知らない人もいますが、クリスチャンは神の国を目指しています。ですから、クリスチャンにとって、人生は天国の家に帰る道だと言ってもいいでしょう。長い旅なので、旅の疲れをとれるためにたまにどこかに泊まらなければなりません。みんなは疲れてしまうことがありますが、特に、荷物をたくさん背負う人は疲れやすいので、しばしば休憩した方がいいです。荷物を軽くすれば確かに助かりますが、やはり最後の目的地に至ることができるために、毎朝新たな力が必要です。

いかがでしょうか、週報の表紙に書いてあるイエスのみ言葉を覚えていますか?

1.「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」今日は、このスオミ・キリスト教会の今年のテーマをもっと勉強しましょう。この箇所は聖書のどこにあるかご存知ですか? マタイ11章28節(新約聖書 p.21) 

このみ言葉は招きと約束が含まれています。約束は何ですか?「休ませてあげよう。」
また、どんな招きですか?「わたしのもとに来なさい。」

これは優しい招待です。けれども、イエスはだれを呼ばれていますか?「だれでも。」ですから、全ての者、私もあなたも含めて呼ばれています。聖書の箇所をもっと詳しく読みましょう。イエスは特にどんな人を招かれていますか?「疲れた者、重荷を負う者。」

このことは英語の聖書にこう翻訳しています。 ”Come to me, all of you who are tired from carrying heavy loads” Matthew 11:28 つまり「重荷を負って疲れた皆さん、わたしのもとに来なさい 。」全然重荷がない、とか全然疲れることがない人はいませんね。だからこそ、イエスの招きは私たちのみんなにとってふさわしく嬉しいことでしょう。

疲れの源になる重荷は人によって様々です。どんなものがあるでしょうか考えてください。肉体・感情・理性・倫理、また霊的な人間には身体・精神、また宗教的な悩みと問題があり得ます。神はご自分がお造りになった人間を愛しておられますから、私たちを全面的な面で助けたいと願っておられます。身体的な重荷から初めて、その後は精神的なこと、最後に霊的な重荷に対して聖書を開いて学びましょう。今日は身体的な重荷と疲れに注目しましょう。

2.肉体的な重荷: 疲れと病気 

人が仕事をして疲れたりすることは当然でしょう?イエスはそれをよくご存知でしたから、弟子たちを休ませたいと思われたので弟子たちをたまに静かな所に連れて行かれました。実は、フィンランド語の聖書で読んでみると、マタイ福音書11章28節の翻訳は仕事についても書かれています。「仕事と重荷で疲れた皆さん、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」” Tulkaa minun luokseni, kaikki te työn ja kuormien uuvuttamat. Minä annan teille levon.”  Matt.11:28 (1992)

神は人をお造りなった時良い計画を立てて、昼と夜のリズムを創造されました。しかし、人間はそれで満(みた)しないようです。時々は仕方がないですが、夜遅くまで働かなければなりません。けれども、最近、夜遅くまで働いたり遊んだりして睡眠不足の方の数は増えいきがちです。神はまた、一週間の一日を聖別して休日として祝福されました。聖書を読んでみましょう。

2. 創世記2章3節 (旧約聖書 p.2)
「この日に神はすべての創造のことを離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」
素晴らしいことですから、神は十戒の中でその日についてこうおっしゃいます。
出エギプとト20章8節 (旧約聖書 p.126)
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」
人はこの戒めを守っていますか?この戒めは義務ではありません。私たちに与えられた休憩できるチャンスです。けれども、現代の生活は反対でしょう。日曜日に教会のかわりに、ショピングセンターに足を運ぶ人は少なくありません。 もっとお金を作ったりそれを使ったりするように日曜日も過ごす方が大勢でしょう。だから、過労のために病気になってもおかしくないでしょう。出エジプト20章9〜11節も読みましょう。神も休みをとられました。神ではない人は神より弱い者でしょう。だからこそ、休みは必要なものです。

3.詩編23編2、3節 (旧約聖書 p.854)
主は私を青草の原に休ませ 憩(いこ)いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。

青草の原と憩いの水はどこでしょうか?教会でしょう。もちろん、日曜日にもしなければならい仕事や職業もあります。しかし、日曜日の祝福を理解したら、できる人は毎日の仕事から離れてゆっくりしたり、神様の民一緒にみ言葉、また聖餐式の聖礼典を通して強めてもらったりするようにもっとしたいでしょう。神のところに来る人に、神はこう約束されますから。

4.エレミヤ31章25節 (旧約聖書 p.1236)
「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた(おとろえた)魂に力を満たす。
また、イザヤ33章24節 (旧約聖書 p.1114)
「都に住む者はだれでも病を訴えることはない。都に住む者は罪を赦される。
もちろん、これは完全に実現にするのは天国のエルサレムですが、地上でも神の家、つまり教会で、こんな経験ができます。ですから、教会に集まって、天国の家に至るために必要な力をいただきましょう。 けれども、とても疲れた時は、人は自発的に何もできないこともあるでしょう。その場合はどうしたらいいでしょうか?その時にも、心配しなくていいです。助けは遠くにありません。

5.黙示録3章20節 (新約聖書 p.457)
「見よ、わたしは戸口(とぐち)に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしを共に食事をするでしょう。」
イエスは心の戸口に立って「入ってもいいですか」と聞かれます。決して無理に人を助けようとはされません。ですから、大切なことは、皆さんの応答です。私たちはイエスの助けがいりますか?疲れを癒していただきたいでしょうか?いつでもどこでも神が私たちを助けたり強めたりしてくださるように祈のることができます。

6.最後に、 旧約聖書 p.1112を開いてイザヤ33章2節で終わりにしたいと思います。
主よ、我らを憐れんでくさい。我らはあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり 苦難のとき、我らの救いとなってください。アーメン。

聖書を開きましょう 「聖書の慰め 危機の中で その二」 パイヴィ先生の聖書の学び

(宣教師レア・ルッカの聖書研究の翻訳と編集:宣教師パイヴィ・ポウッカ) 

イエス・キリストの安全な支配

この間、聖書は危機の中にいる人たちをどのように慰めているかということについて話しました。今日は続いて、イエス・キリストは世界を安全に支配してくださるということについて学びましょう。

この世界は神様の世界です。自然の力や自然の法則の中で、地殻のプレートまで、地球は神様が計画されて、お造りになったものです。それらは全て完全に神様によって支配されています。
 
1.コロサイ人への手紙 1章16、17節(新約聖書 p.368
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
 
万物には二種類のものがあります。それは目に見えるものと目に見えないものです。どちらも主イエス・キリストがお造りになったもので、キリストが所有されておられるもの、そしてキリストの支配の下に据えられたものです。ですから、イエス・キリストはお名前の通りに真(まこと)の主です。キリストの支配の下にない力と権力はありません。
 
2.ローマ人への手紙 8章31節 (新約聖書 p.285)
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

もし私たちがイエスのものだったら、この世には恐れることは何もありません。
 
3.ローマ人への手紙8章38、39節 (新約聖書 p.285)
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
 
魚の大群をペテロの網に導かれたごとく、イエスは万物を操られ(あやつられ)たり導い(みちびい)たりなさいます。

4.ルカ5章4節 (新約聖書 p.109)
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

5.また、ヨハネ21章6節 (新約聖書 p.211)
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

全世界(cosmos)の一番小さくて細かいものまで、全ては、まことの神でありまことの人間であるイエスがお治めになっているとするなら、どんなに安全なことでしょう。
 
6.ルカ12章6、7節。(新約聖書)
五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
 
7.ヘブライ人への手紙1章10-12節 (新約聖書 p.401)
はイエスの無限の力をよく表現しています。また、こうも言われています。「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、/これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、/あなたの年は尽きることがない。」

イエスにとって天地は衣のようなものです。イエスはそれらを外套のように巻かれます。この イエスは聖書の神様を知らない人にとっても「栄光の希望」です。
 
8.コロサイの信徒への手紙によると(1章27、28節)(新約聖書p.369)
この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
 
(ここに書いてあった「異邦人」という言葉は元々ユダヤ人ではない外国人の意味でしたが、キリスト教の場合は「異邦人」は聖書の神様を知らない人々と国民の意味を持っています。)だから、私たちの最も大事な仕事は皆さんにイエスについて教えることです。イエスは日本の方たちにとっても唯一の希望ですから。
 
9.イザヤ45章3節 (旧約聖書 p.1135)
暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。
 
10.テモテへの手紙一2章4節によると (新約聖書 p.385)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
 
ですから、イエスの支配の中にいることは安全なことです。イエスの行いは全てこれを目指しています。神はご自分らしい仕事(人間の目から見てもいかにも神様が行ってくださりそうな愛のわざ)と、またご自分らしくはない仕事(一見すると神様が行うとはとても思えないような、人間にとっては嫌なこと)を通して全世界を支配されます。

大災害の被害を受けることは大変なことですが、大災害にも神様の目的があります。神様はそれを通して私たち人間を諭したり、また考えを改めさせて、恵みに気付くように眼を開かせたりしてくださいます。

神はご自分らしい仕事と、またご自分らしくはない仕事を通して全世界を支配されます。預言者は人を恐れさせることを神様のご自分らしくない仕事と呼びます。

11.イザヤ28章21節 (旧約聖書 p.1104)
主はペラツィム山のときのように立ち上がり/ギブオンの谷のときのように憤られる。それは御業を果たされるため。しかし、その御業は未知のもの。また、働きをされるため。しかし、その働きは敵意あるもの。

神のご自分らしい仕事というのは、私たちを生かし、また慰めてくださることです。アウグスブルグ信仰告白弁証の XII, 50-52にはこう書いてあります。

神様が人間を恐怖で震え上がらせるようなことをなさるのは、その人が神様からの慰めを受け入れて、神様と共に生きる者とされる機会(チャンス)を、その人に与えたいからなのです。なぜなら、自分自身の罪深さを認めない人間は、神様の怒り(の恐ろしさ)を知らないため、神様からいただく慰めを軽んじるものだからです。聖書は、このようにして神様からの恐怖と慰めという正反対の二つのことを互いに結びつける場合がよくあります。それは、神様のみ前での悔いと信仰とが「悔い改め」の主要な両面であることを、聖書が私たちに教えることを目的としています。そして、この信仰こそが、人を慰め、義とするのです。
 
次のようなイエスの御言も読みましょう。
 
12.ルカによる福音書13章4、5節 (新約聖書 p.134)
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 
13.黙示録9章20、21節 (新約聖書 p.463)
これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。

今の天地万物は神様が創造された時の世界と違います。人間が惹き起こした(ひきおこした)呪いから自由にされるようになることを待っている間、被造物もすべて私たちと共にうめいています。
 
14.ローマの信徒への手紙8章19-23節(新約聖書 p.284)
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
 
今の地球も人間も神様が創造された元の状態(様子)と異なっています。私たちと同じように、被造物も神様の良いご計画(神様がたてられた良い計画)を実行してはいません。むしろ、それは自由を失ってしまって、滅びと虚栄を奴隷として使うようになりました。元々は、被造物は人を喜ばせたり、元気で幸せに活かすために(to give people well-being)造られましたが、人間の罪のせいで呪われてしまったのです。だからこそ、自然は人間を使うことの代わり(「人間に仕える代わり」という意味?)、人間を生きづらくさせたり窮地に追いやったりするのです。
 
15.創世記3章17-19節 (旧約聖書 p.4)
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
 
被造物もいつか変わる、と使徒パウロは明らかにしています。神の子たちが現れ、罪(の中)から神の子の栄光へと解放されてから、被造物を苦しめた呪いも消滅します。その時地震も津波も終わります。イエスを信じる者は「霊の初穂」を持っていて、この御霊は、神の栄光が約束された通りにやってくる、と保証してくださいます。
 
けれども、究極的な救いや栄光に入ることはそれからで、まだ待たなくてはならないことです。しかし、心配することは神の御心に適うことではありません。心配することは神様の救いの計画とその救いの確かなことを知らないことに由来にしています。
 
16.テサロニケの使徒への手紙一 4章13-18節(新約聖書 p.377)
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

私たちの最も重要な仕事はイエスについて伝えることです。人間の心は、福音を聞いてそれを受け入れることなしに、本当の励みと確かな慰めを得ることはないのです。
 
17.ヨハネによる福音書14章27節 (新約聖書 p.198)
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

これらは不思議な言葉です。神の御言葉なので、ここには真理があると認めさせる力、また御言葉への信仰をもたらす(生じさせる)力を持っている言葉なのです。そして、約束された通りに、心に平和を与えて下さる言葉です。この地球も私たちの生活も揺れることがありますが、イエス・キリストは人生の揺れない基盤です。

最後に、使徒パウロの挨拶の通りに(2コリントへの手紙13章13節)

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

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  • 6月 20日 7:00 pm
    フィンランド語クラス
    初級クラス、中級クラス
  • 6月 20日 8:15 pm
    フィンランド語クラス
    上級クラス
  • 6月 23日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ7章11~17),礼拝後交わり。
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