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聖書の学び | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

聖書の学び

聖書研究会

毎月第2主日礼拝の後は木村先生による聖書研究会が開かれています。本日から「ヨハネの黙示録」を学ぶことになりました。キリスト教の受難時代を背景に書かれた「ヨハネの黙示録」は私たちには大変難解な書でもあります。木村先生はこれから私達に分かりやすく読み解きをしてくださいます。

聖書を開きましょう「絶えず祈りなさい」、パイヴィ先生

絶えず祈りなさい、パイヴィ先生の聖書研究 (PDFファイル)

聖書を開きましょう「助けて下さる主、旅人の歌、その3」 パイヴィ先生

1.導入

来月の総会で、スオミ・キリスト教会の新しいテーマ聖句を決定することになりますが、 その前にもう一度、去年選ばれた御言葉を学びましょう。その聖句は聖書のどちらに書いてあったでしょうか。
詩編121編1節〜2節です(旧約聖書 p.968)。
では、初めに、テーマ聖句をご一緒に思い出しましょう。
1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
  わたしの助けはどこから来るのか。

2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

テーマの元と成っている詩編121編は「旅人の歌」とも呼ばれています。今日は、詩編の2節に注目しましょう。2節は短いですが、それには二つの大切な約束が含まれています。最初に、「わたしの助けが来る」という約束です。そして、続けて、わたしの助けは天地を造られた主のもとから来るということも明らかに記されています。世界をお造りになった方は全能で全てのことを支配されているお方ですから、その方に助けていただければ、心配はないでしょう。これほど素晴らしい約束があれば、みんなは煩う事を止められるでしょう。けれども、現実は違います。今回、聖書を開いて、二つの質問を考えたいと思います。一番目は、なぜ人は天地を創られた主から助けを求めないのか、二番目に、私たちを助けたい主はどんな神様か、ということです。

 

2.なぜ人は神様から助けを求めていませんか

みんなが父なる神様から助けを期待しているわけではないのです。まだ聖書を知らない人もかなりいると思いますが、聖書を知る者の中でも、天地の造り主を信じていない人は少なくではないでしょう。
1.ガラテヤの信徒への手紙 / 4章 8節〜9節を読みましょう(新約聖書 p.347)。
8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

この箇所によると、人々は神でないものを神として拝んでいるということです。神様を知らない人だったら、そのようなことは当たり前でしょう。けれども、キリスト者になった私たちにも、そのような危険があるのではないでしょうか。私たちはキリスト者になっても、まだ罪人なので、もともと神でない神々を拝みがちです。では、罪に堕ちた人間は、例えば、どんなものを神として捉えるでしょうか。4つの面から考えてみましょう。

一番目に、罪の一つは、人間は神様の変わりに、自分の力と知恵に頼ることです。
2. エゼキエル書 / 28章 1節〜2節(旧約聖書 p.1340)
主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。
3.ハバクク書 / 1章 11節(旧約聖書 p.1464)
彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。(イザヤ書 / 26章 12節を参考に読んで下さい。旧約聖書 p.1099、「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。」)

二番目に、人は金銀や財産などを偶像礼拝としてしやすい者だということです。
4.箴言 / 11章 4節 (旧約聖書 p.1004)
怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。
5.エゼキエル書 / 7章 19節〜20節(旧約聖書 p.1304)
19 彼らは銀を外に投げ捨て/金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も/彼らを救うことができないからだ。銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず/腹を満たすこともできない。かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。
20 彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い/憎むべき忌まわしい偶像を造った。それゆえ、わたしはそれを汚れたものとし

三番目に、将来のことを心配している人には占いをする誘惑があります。人は、例えば、トランプとか夢とか星占いなどで自分の未来はどんなものかと知りたがるのです。ある人は占い師の店に行って、お金を支払って占いをしてもらおうとします。占いの他に、直接に死者に伺いを立てる人、それから、霊媒を通して死者に伺いを立てる人もあるでしょう。けれども、聖書はそのようなことについてどのように教えているか調べてみましょう。
6.申命記 / 18章 11節  (旧約聖書 p.309)
呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
7.ゼカリヤ書 / 10章 2節  (旧約聖書 p.1490)
テラフィムは空虚なことを語り
占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。
その慰めは空しい。
それゆえ、人々は羊のようにさまよい
羊飼いがいないので苦しむ。
(英語の聖書 「People consult idols and fortunetellers, but the answers they get are lies and nonsense. Some interpret dreams, but only mislead you; the comfort they give is useless. So the people wander about like lost sheep. They are in trouble because they have no leader.」)
8.イザヤ書 / 44章 24節〜25節 (旧約聖書 p.1134)
24 あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。
25 むなしいしるしを告げる者を混乱させ/占い師を狂わせ/知者を退けてその知識を愚かなものとする。
死者に伺いを立てることは滅多にないことかもしれませんが、それは死者の霊魂を拝むこととか死者に祈ることとはあまり違いないことです。神様の代わりに、自分の力と知恵に頼ることも、金銀や財産に頼ることも、死者に頼ることも、占いをすることも偶像礼拝です。その上に、

四番目に、人は自分の手で偶像を造り、それを拝もうとします。 9.ハバクク書 / 2章 18節〜19節 (旧約聖書 p.1467)
18 彫刻師の刻んだ彫像や鋳像/また、偽りを教える者が何の役に立つのか。口の利けない偶像を造り/造った者がそれに依り頼んでも/何の役に立つのか。
19 災いだ、木に向かって「目を覚ませ」と言い/物言わぬ石に向かって「起きよ」と言う者は。それが託宣を下しうるのか。見よ、これは金と銀をかぶせたもので/その中に命の息は全くない。
神様は全てのことを支配され、神々の上に権威を持っておられます。十戒の中で、1番目の戒めは何でしたでしょうか。
10.出エジプト記 / 20章 3節〜5節 (旧約聖書 p.126)
3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。
偶像礼拝をする人たちはこの戒めを守りません。天地を創造された全能の神様を唯一の神様として尊敬しません。けれども、聖書は私たちに偶像を作らないように、また偶像礼拝をしてはいけないと戒めていますよ。そしてその代わりに、 生きておられる神様が私たちを助けて下さることに信頼するようにと教えています。

 

3.私たちを助けたい主はどんな神様ですか

私たちを助けて下さる神様は、詩編121編の2節にも書いてある通りに、どんな主なのでしょうか。先ほどお話した通りに、主は創造の主です。(エレミヤ書 / 51章 15〜19節を参考に読んで下さい。)

万物の創造者である万軍の主は小さな人間のことをどのようにしてくださいます。 11.イザヤ書 / 46章 3〜9節  (旧約聖書 p.1137)
3  わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 
4  同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
5  お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。
6  袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む。
7  彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。
8  背く者よ、反省せよ/思い起こし、力を出せ。
9  思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。

けれども、偶像礼拝をしてしまった罪人の私たちに対する主のみ心はどんなものでしょうか。主は私たちを罪から救おうとして下さるのです。
12.ヨエル書 / 3章 5節 (旧約聖書 p.1425)
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
それがどんなに素晴らしいものであっても、霊的なことや宗教的な儀式は、私たちを死と罪と悪魔の力から救うことは出来ません。神の御子、主イエスだけが救い主です。私たちはイエス・キリストによって神様の子供になれます。
13.エフェソの信徒への手紙 / 1章 5節 (新約聖書 p.352)
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
最後に、イザヤ書54章10節を読ませて頂きます。(旧約聖書 p.1151)。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。

まとめましょう。

心配や恐れのある時、目を上げて、わたしは主の住まいがある天を仰ぎましょう。私たちの助けはそこから来ます。私たちの助けは天地を造られた主、私たちの救い主のもとから来ますから。

クリスマスツリーの物語と聖書の学び、パイヴィ先生

クリスマスツリーの物語とパイヴィ先生の聖書研究会(PDFファイル)

「悩んでいる人」、旅人の歌 その2、聖書を開きましょう、パイヴィ先生

「悩んでいる人」と言うタイトルで詩編121を皮切りに新旧の聖書のみ言葉を学びました。

 

「悩んでいる人」

旅人の歌 その2

1 導入 〜 安全な歩みの約束

先月、私たちはスオミ・キリスト教会の今年のテーマを学び始めました。そのテーマの元となった聖書の箇所を覚えていらっしゃいますか。はい、詩編121編1節と2節です。はじめに、テーマを思い出しましょう。

詩編 / 121編(旧約聖書 p.968)

【都に上る歌。】1目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

前回は、人生の目的地について考えるために、詩編121編一節の最初の文に注目しました。今日は、前回に続いて、その1節の二つ目の文を勉強して、人生の歩みに必要な助けを求めることについて一緒に学んで頂きたいのです。 最近、旅行に行かれましたか?旅行に出発することは楽しいでしょう。計画を立てたり、荷物を用意したりして、旅に出る前の段階から、旅行を楽しむことができます。そして、誰もが、旅で良い時間を過ごし、無事に家に帰りつくことを、つまり安全な旅行を望んでいます。詩編121編は天国を目指す私達に次のことを教えています。私たちは、神様の助けと見守りによって、日々の生活を安全に歩むことができるということです。 1.詩編121編3節〜8節を読みましょう(旧約聖書 p.968)。

3どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

この箇所は、主に信頼し、主に頼る人は、神様の見守りのうちに、安心して平穏な生活ができると言っています。神様は私たちの全てを完全にご存じであり、愛してくださる方です。神様は、私たちの「足がよろめかないよう」、私たちを守るようにと天使達に命令されます(詩編91編10節〜12節。)けれども、皆さんは、これまでの人生を振り返った時に、楽で安心な生活というものはあり得ない、と思われるのではないでしょうか。 疲れたり病気をしたり大切なものを失ったりすることがあります。いじめられたり、ごまかされたり、苦難と不正に遭ったりする人も少なくないでしょう。苦難や挫折 (ざせつ)を経験しない、全くの平穏な人生を送る人はいません。現実には、子供の時から苦しい思いを経験してきた人も確かにいます。詩編129編の著作者も、そのような経験をしていると思います。

2. 詩編 / 129編 1節〜3節 (旧約聖書 p.972)

【都に上る歌。】

1.イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが 2.わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。 3.耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った。」

人生には厄介な面があり、それゆえ、人生は楽しい旅であると言い切ることはできません。

2.神様、どうしてですか 〜 悩んでいる人の疑問

人はなぜ、苦しまなければならないでしょう?なぜ私が、そして、なぜ私の大切な人たちが苦しまなければならないのでしょうか?神様が守ってくださるという話は嘘でしょうか?詩編121編を、どのように理解したらいいでしょうか?皆さんもこのような疑問を持ったことがあるかもしれません。 神様が全能で愛に満ちているとすれば、なぜその神様が創った世界に、苦しみがあるのでしょうか。小さな存在である人間の理性では、これを完全に理解することはできません。賢い哲学者たちでさえも、時代を超えて存在する悩みと苦しみに答えを見つけることはないでしょう。それゆえ、私たちは、聖書を読み、み言葉により頼むことしかできません。 なぜでしょうか。神様の思いは私たちの思いをはるかに超えた所にあるからです。 3.イザヤ書 / 55章 8節〜9節 (旧約聖書 p.1153)

8.わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる 9.天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

聖書には、苦しみについての書があります。それは何という書ですか?ご存じの方は、いらっしゃいますか?はい、ヨブ記です。神様を信じ、正しい方であったのに、ヨブに襲(おそ)いかかった災難は、想像もできないほどのものでした。ヨブは財産と健康を失なったばかりか、十人の子供を失い、妻と親戚の者の支えをなくしました。そして、人間の尊厳までをも失い、その上、世間のあざけりを受けました。そのようなヨブの言葉を読みましょう。

4. ヨブ記1章20節〜22節 (旧約聖書 p.776)

20.ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 21.「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 22.このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

今読んだ箇所に二点、興味深いことがあります。一点目に、ヨブは全てのことを、すなわち幸福なことも不幸なことも、主からいただいたこととして捉えたということです。まさに、主が与え、主が奪うのです。悪いことや恐ろしいこと、それは決して神様の許可なしには起こりえません。

5.イザヤ45章7節(旧約聖書 p.1135)

光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。

二点目に、ヨブはそのような厳しい試練の中にあっても、罪を犯さなかったということです。ヨブが友達に言った、次の言葉を聞いて下さい。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった(ヨブ記 / 2章 10節、旧約聖書 p.777)。ヨブは、不信仰への誘惑に遭いましたが、それに負けませんでした。試練はかならずしも罪を生み出すわけではありません。しかし、試練は、罪を犯す危険性をはらむ誘惑へと代わる可能性があります。

誘惑と試練をそれぞれ簡単に定義します。1.誘惑とは悪いこと、危ないこと、禁じていることへおびきだすこと、つまり罪を犯すことへの誘いです。そして、2.試練とは、信頼を厳しく試されることです。ですから、試練は誘惑へと代わる可能性があります。長いあいだ辛くて難しいことが相次ぐと、人は、神様の助けや愛に迷いをおぼえ、信仰までもなくしてしまう危険があるでしょう。

マイリス・ヤナツイネンは「主はとられる 大震災を経て〜ヨブ記を読む」という本で二つの誘惑について書いています。一つは、罪は大変美しく、魅力的に見えてしまうこと、もう一つは、かけがえのないものを失ったために神から離れそうになること、です。そして、ヤナツイネンは次のように書き続けます。人は、健康、愛する人、名誉や仕事などを失ったとき、絶望し、信仰をなくして、みことばと聖餐を放棄し、神を呪い、自殺しようとしてしまう危険があることを。それがヨブの状態でした。(p.26)

苦しみと悩みには色々ありますが、その中でも、人間にとって一番深刻なものは、罪についての苦難です。自分の罪の恐ろしさを理解すればするほど人は悲しみを覚えます。では、試練と誘惑にあいつづける弱い人間はどうしたらいいでしょうか。

3.わたしの助けはどこから来るのか

ヨブや詩編の著作者たちに、私たちは共感を覚えます。私たちも「わたしの助けはどこから来るのか」という問いかけを続けているからです。それに対して、聖書は次のように答えています。

6.ヤコブの手紙 / 5章 13節 (新約聖書 p.426)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

私たちも試練に遭って、苦しんでいる時には、祈りましょう。 神様の前に立ち、心を開きましょう。大きい声を出して嘆いても構いません。聖書によると、人は弱い存在です。それゆえ、誘惑のわなに陥ってしまうのです。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。というみ言葉はマルコによる福音書 14章 38節に書いてあります(新約聖書 p.92)。私たちは、何か悪いことをしてしまいそうになる気持ちを抑えるために、神様に助けを求めましょう 。

7.哀歌3章55節〜56節 (旧約聖書 p.1291)

深い穴の底から/主よ、わたしは御名を呼びます。 耳を閉ざさず、この声を聞き/わたしを助け、救い出してください。

使徒パウロも、そのような時、何度なく神様に救われました。そして、罪を犯してしまった場合でも、その許しを得るために、神様のみ許に行きましょう。

8.詩編 / 130編 1節〜7節(旧約聖書 p.973)

1【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

罪を悔い改める人すべて、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されています。大胆に、聖なる神様に近づくことができるのです。天国に至るまで、神様に支えて下さいます。

9.コリントの信徒への手紙一 / 1章 8節 (新約聖書 p.299)

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

主は、御自分を頼る人を助けて下さる、と約束してくだざいました。

4.最後に、

人は苦難にある時には特に、混乱が早く終わって欲しいと望みます。そして、 平和と平安がある国に入りたいと強く思います。フィランド語にTaivasikävä というきれいな言葉があります。天国に行く事を待ち望むということを意味します。使徒パウロは、自分に襲いかかった様々な苦難について次のように記述していますが、彼にもそんな気持ちがあったのでしょう。  

10.コリントの信徒への手紙二 / 5章 1〜10節 (新約聖書 p.330)

1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって(苦しみもだえています)。

悩んでいても、キリスト者は信仰によって生きていると使徒パウロは語ります。神様から助けを求める私たちは、神様が助けの手を差し、伸べてくださる事に信頼をおくことができます。そして、イエス・キリストと共に天国への道を歩みつづければ、必ず、無事に、その目的地に着きます。神様は、はっきりと、天国の永遠の命へと私たちを励まして力づけて下さいます。

もし、ご自分がたてた計画に突然の変更を余儀なくされることがあっても、私たちは神様のご計画に絶対な信頼をよせることができます。理解できない人生の山も谷も、神様の隠された導きです。だから、私たちは全てのこと、幸いなことも苦しいことも神様を信頼し、すべてを神様に委ねましょう。聖書には、イエス­・キリストの助けと救いによる頼むならば、不幸なことのように思える試練も、最後には私たちにとっての幸せへと変わるという約束が 書いてあります。

11.ペトロの手紙一 / 1章 3節〜7節 (新約聖書 p.428)

3.わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 4.また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 5.あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 6.それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 7.あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

イエス・キリストの恵みによって、試練と死さえも、神様の国に入る扉なのです。今日の聖書の学びを星野富弘さんの言葉で終えたいと思います。

「いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった

いのちより
大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった」

聖書を開きましょう「二つの国の市民、旅人の歌 その1」 、パイヴィ先生

1 導入 

これからの秋の聖書の学びで、スオミ・キリスト教会の今年のテーマを一緒に勉強しましょう。週報にもホームページにも載せたテーマをもう覚えてくださった方がおられるでしょうか?テーマは詩編121編1節と2節に書いてあります。そのテーマの御言葉を3つに分けて、学んでいきたいと思います。今日は、初めに、大一節に注目して、人の目的地について考えましょう。次に、人生の歩みに必要な助けを求める事について、そして最後に助けて下さる主について学んでいきましょう。では、まず、聖書を開いて、テーマの元になっている

1.詩編121編を1節から終わりまで読みましょう。(旧約聖書 p.968)

イスラエル【都に上る歌。】

1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

都に上る歌。詩編の始まりに書いてある通りに、詩編121編は都に上る旅の歌です。このような旅人の歌は旧約聖書の詩編、つまり讃美歌、の中で120編から始まり、134編まで続きます。それはエルサレムに向かっている人たちの安全な旅を表しています。エルサレムは神殿がある聖なる都です。昔のユダ人は、どんな時にエルサレムの神殿に行ったでしょうか?巡礼者は大きなお祭りの度にエルサレムへ上って行きました。イエスも子供のころ両親と一緒に神殿に行ったことを覚えておられるでしょう。

2.ルカによる福音書 2章 42節 (新約聖書 p.104)

イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

またイエスは人々によく知られるようになってからも、例えば、仮庵祭のときエルサレムを訪れました。

3.ヨハネによる福音書 7章 2節と10節 (新約聖書 p.177)

ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた...しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

仮庵祭の他に、ユダヤ人にはどんな祭りがあるでしょうか?

例えば、過越祭、除酵祭、また七週祭と贖罪日という祭りがあります。そのようなとき、昔のユダヤ人は罪を赦してもらうために神殿で祈ったり犠牲をささげたりするために都に上りました。

(ユダヤ人の祭りについて参考に読んで下さい。
 仮庵祭
1 過越祭と除酵祭2   七週祭3   贖罪日4

 

では、聖書はさきほどお話した巡礼者の旅についてどのように教えているでしょうか?

4.詩編 84編 5〜6節から、調べましょう。(旧約聖書 p.921)

5 いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら 6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

6節に目に注目しましょう。そして、それを英語とフィンランド語と比べましょう。

Blessed are those whose strength is in you, whose hearts are set on pilgrimage.

Onnellisia ne, jotka saavat voimansa sinusta, ne, jotka kaipaavat pyhälle matkalle. (Ps.84:5)

日本語に訳すと、どちらもの意味も「あなたによって勇気を得る者は幸いです。聖なる旅(巡礼)を待ち望む者はいかに幸いでしょう。」つまり、聖書は神様の神殿に行こうとする人を幸いな者としてほめているでしょう。どうしてでしょうか?答えは7節と8節に書いてあります。では、詩編の121編で歌われている旅はクリスチャンにとってどんな意味でしょうか?

 

2 人生の目的(旅人の目的地)

5.詩編121編1節の最初の文をもう一度読んでみましょう。(旧約聖書 p.968)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

この一節は、「目を上げて」という言葉で始まります。エルサレムはその周辺と比べると

少し高いところですので、そちらに行くとき上って行かなければなりません。それが分かると、私たちは 旅に出た人のことが想像できるでしょう。旅に出た人は遠くにある都がまだ見えなかったのです。けれども、目的地を目指して目を上げていたでしょう。私たち

もそれと同じように、神様が約束された希望ととこしえの幸いに目を注ぐのです。

6.コリントの信徒への手紙二 4章 18節 (新約聖書 p.330)

わたしたちは見えるものではな、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

私たちは毎日の忙しさの中で、目指している目的地を忘れ易いものです。では、どうして永遠の目的地はそれほど大切ですか?その理由の一つは、フィンランドのある子ども讃美歌にもこのように書かれています。「ぼくは神の苗床の苗。天国のために作られた」。人は神の国のために造られたものです。また、次の箇所に人生の優先順位について書いてあります。

7.マタイによる福音書 6章 33節 (新約聖書 p.11)を開きましょう。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる

人生は大事な贈り物ですので、それを上手に使うことは重要なことです。けれども、何を一番大切にするかは、今読んだ通りです。生活で神の国を重んじるならば、人はそれ以上のことを心配しなくていいのです。約束通り、神様は自分の子どもたちに必要なものを備えて下さいますから。

要約すると、人生には意味があり、目的もあるということです。永遠もありますから、死は私たちの終わりではありません。そして、私たちは二本の道のどちらかを選びます。

8.マタイによる福音書 7章 13〜14節 (新約聖書 p.12)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

あなたはどちらの道を歩んでいますか?何を目指して人生を過ごしていますか?永遠をどこで過ごしたいですか?正しい道を選んで、天国を目指して生きていきましょう。

 

3 シオンの山 〜 神の国

詩編121編に戻りましょう。1節によるの、目を上げて、旅に出た人は何を見ましたか?「わたしは山々を仰ぐ。」旅人には周りと前の方にある山しか見えなかったのでしょう。では、あなたにとって山はどういう意味がありますか?富士山をどう思いますか?それをどのように感じますか?富士山はきれいな形のとてもいいイメージのものであるし、神聖な山としてもとらえているのでしょうか。日本の山々に比べるとイスラエルの山は違います。一つの違いは山の高さです。一番高い山でも1200メートルぐらいしかありません。聖書では、イスラエルの山に対してどんな意味があるのでしょうか?例えば、

9. ミカ書4章2節を読みましょう。(旧約聖書 p.1452)

多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

この箇所に書いてある主の山は何ですか?その山の他の名前は「シオンの山」です。シオンとはどんな意味かご存じですか?最初に、旧約聖書の王ソロモンはエルサレムに始めての神殿を建てたとき、それをシオンの山に建てました。さて、聖書はシオンという名前をある時はエルサレムの神殿の周辺という意味で、またある時エルサレムの都について使いますが、シオンはイスラエルの国全体という意味もあります。更に、シオンとシオンの山に関しては、聖書はこうも語っています。シオンは祝福ととこしえの命の場所という意味で5、シオンの山は主の名が置かれた場所という意味です6。そして、主が住まわれる場所です7。しかし、天国にあるシオンの山もあります。クリスチャンはそこに向かって地上の生活をしています。

旧約聖書はイスラエル人がエジプトから出て行ったときの旅について語ります。そのとき、神様がシオンの山で現れて、人々は恐れて身震いしました。

10.ヘブライ人への手紙 12章 18〜21節 (新約聖書 p.418)

18〜19 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。

けれども、次の節は、罪を赦していただいて、天国に到着した人のことについて述べています。その時は、シオンの山を近づいてももう恐れる事も身震い事もありません。天使たちと一緒にお祝いすることだけです。

11.ヘブライ人への手紙 12章 を続けましょう。22節(新約聖書 p.418)

しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、

 

4 最後に 〜 二つの国の市民

クリスチャンには二つの国、国籍があります。生まれた国の国籍と洗礼を通して頂いた神の国の国籍です。クリスチャンは二つの国の市民です。今この地上に住んでいるところですが、天国を目指しています。目的先を知っているので、苦難の日にも希望を持って生きています。クリスチャンにとって、一番良いときはこの世においてはまだ実験しません。けれども、約束された神の国の幸せはかならずやって来ます。イエスによって一人ひとりのために天国の住まいが用意されているのです。あなたも私もイエスを信じていつの日かそこに入りましょう。

フィンランドにこんな諺があります。クリスチャンの足は地を踏みますが、心は天国に上ります!今日の聖書の学びを

12.ルカによる福音書 12章 34節で終えましょう。(新約聖書 p.132)

あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 


 

1 ヨハネによる福音書/ 72節 (新約聖書 p.177)ときにユダヤ人の仮庵祭が近づいていた...しかし兄弟たちが祭りに上って行ったときイエス御自身も人目を避け隠れるよにして上って行かれた

2 マルコによる福音書/ 141節 (新約聖書 p.90)さて過越祭と除酵祭の二日前になった祭司長たちや律法学者たちはなんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そと考えていた

3出エジプト記/ 3422旧約聖書 p.152あなたは小麦の収穫の初穂の時に七週祭を祝いなさい年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい

レビ記/ 259旧約聖書 p.202その年の第七の月の十日の贖罪日に雄羊の角笛を鳴り響かせる

4出エジプト記/ 3422旧約聖書 p.152あなたは小麦の収穫の初穂の時に七週祭を祝いなさい年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい

レビ記/ 259旧約聖書 p.202その年の第七の月の十日の贖罪日に雄羊の角笛を鳴り響かせる

 5 詩編/ 1333節 (旧約聖書 p.975)

ヘルモンにおく露のよに/シオンの山々に滴り落ちるシオン主は布告(ふこく)された/祝福ととこしえの命を

6イザヤ書/ 187節 (旧約聖書 p.1088)

そのとき貢ぎ物が万軍の主にもたらされる背高く肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍の主の名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる

7 イザヤ書 8章 18節 (旧約聖書 p.1073)

見よわたしと主がわたしにゆだねられた子らはシオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である

この箇所によると、 シオンの山は主の住まわれる場所です。

 

聖書研究

本日の木村先生の聖書研究は、三位一体の神(その2)でした。マタイ福音書11章25節でイエスは「天の父なる神よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のあるものや賢い者に隠して幼子にあらわして下さいました。父よ、これは、まことに御心にかなったことでした。全てのことは父から、私に任せられています。そして子を知る者は父の他に無く、父を知る者は子と父をあらわそうとして、子が選んだ者との外に誰もありません」と言われました。

①キリスト教で神を知るのは、神がイエスを通して、神がいかなる方かを語って下さるのを聞いて知るのです。

②だから、キリスト教ではイエスなくしては神はわからないのです。イエスは人間にとっての神なのです。イエスは、もちろん人間としての人間でなくては困る。そして神様は人間イエスの言葉や行動を通して、御自分自身を私たちに示して下さるのです。

③イエスをのけると人間は直ちに自分の頭で神を考え始める。そうすると暗中模索になってしまうか、自分よがりの考えにおちいってしまう。

④生ける神は語ってくる神であり、その神の語る言葉はイエスを通して、イエスの言行を通して語ってこられるのです。

⑤だから聖書は神の言葉である、というのです。つまり、聖書はイエスの事が書いてある書物であり、そのイエスは神が人間へ語り給う神の言葉だからであります。

⑥このように私たち人間の側からすると、私たちは人間イエスを通さなくては神を知ることはできない。

⑦神ご自身が私たちに向かって「今、お前は、私に従って生きるか、どうか」と問いかけ語りかけ呼びかけて、その答えを迫って来られる。「一寸待って下さい。しばらく考えます」と言えば、これはすでに「否」と言ったことである。

⑧そういう神の語りかけが、また呼びかけがイエスを通して私たちの上に起こってくるのです。そういう人間への神の呼びかけ、語りかけを私たちの所へ持って来るイエスはマタイ福音書の言葉によると自分と神の関係を父と子の関係だと呼ばれているのです。

⑨そして「父を知る者は神の子の外になく又、子を知る者は父の外にない」と言われている。

今日の言葉  良寛(禅僧 歌人 1757~1831)

花 無心にして蝶を招き  蝶 無心にして花を尋ねる

花 開くとき蝶来たり   蝶 来るとき花開く 知らずして天則に従う

 

 

聖書の学び 「神様の二つの計画、その二」  パイヴィ先生

神様の救済の計画

1 導入

聖書によると、神様は人間のために二つのプランを立てられました。一つは人間を救うことのための計画で、もう一つは一人一人の人生のための計画です。先月は、自分の人生をいかに使ったら良いかと一緒に考えました。今日は、神様の救済の計画をテーマにしましょう。初めに、聖書を開いて、1.人間にとって重大な問題について、2.その問題に対して人間がどんな解決をするかをみてみましょう。その後で、3.なぜ神様の救済の計画が必要だったのか、そして、神様はどんな救済の計画を立てられたのかということについて学びましょう。

1.人の問題

神様はなぜ人間を造ろうと思われたかと考えたことがあるでしょうか。じゃ、両親はなぜ子供がほしいのでしょうか。自分の子供を愛するためでしょう。神様も同じように人を愛して下さるために人を創造されたのです。そして、神様は人を永遠に愛そうと思われたのです。この間学んだことを少し振り返ってみましょう。神様は私達が何をする為に命を与えられたのだったでしょうか。人生の目的は何だったか思い出してみましょう。

1.エフェソ信徒への手紙2章10節(新約聖書 p.353)
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。私達は善い業を行う為に造られた者です。神は、人が神ご自身を初め、隣人を自分のように愛するようにと命じられましたね。更に、地球と被造物を守るように教えられました。しかし、人はそのようにはうまくできませんでした。最初の人、アダムとエバから、人間は神様のみ言葉より悪魔の声を聞き、罪に陥って存じのように恐ろしい結果になりました
。神様と人間の信頼関係が破れて、人間は神様のみ前から追い出されてしまったのです。更に、死の陰が人生を覆ってしまいました。それは肉体的な死の意味、また永遠の死、すなわち地獄、という意味をも持っています。認めにくいかもしれませんが、全ての人は罪人なのです。

2.ローマの信徒への手紙5章12節(新約聖書 p.280)このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及(およぶ)んだのです。すべての人が罪を犯したからです。私達は「悪いことをしてしまった」ということを認めたくないでしょう。人間は自分がどんなに悪いかを知っているのに、まるでそれを忘れているかのようです。「それほどの罪ではない」というふうに自分の悪さを軽くしたがるのも常でしょう。更に、「僕はちょっと悪いことをしただけで、重い罪を犯した人に比べるとなかなかの善人だ」と思ったりするでしょう。しかし、私達は自分が潔白だとは主張できませんし、自分の罪から逃げることもできないのです。

3.ローマの信徒への手紙2 章1節(新約聖書 p.274)だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他者を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。次に、人間は、この問題をどのように解決しようとするでしょうか。ある牧師とルディという男性の語り合いについてお話ししたいと思います。

 

2.人間がとる解決
~ 善い行い

奥さんに教会に連れて来られたルディさんは困った顔をしていました。奥さんは何か急な用事でどこかへ行ってしまって、ルディさんを牧師の私のそばに残したからです。私は笑顔で「どうなさいましたか?」と聞きました。「家内は僕が信者になってほしいと願っている」と当惑顔のルディさんは言いました。「どうして奥さんはそう願っているのですか。」と私が尋ねると、「僕が地獄に落ちないためだ」とルディさんは答えました。「あなたはすぐそこへ行くつもりだったのですか」と私が聞くと、ルディさんはびっくりしてちょっと頭をあげて私の顔を見ました。そして笑い出しました。聖書を教える先生にユーモアがあることに気づいてルディさんは安心しました。「あなたは、ある日神様の前に立ちますね。そのとき地獄に落ちないようにするためには、どうしたらよいでしょうか。」と私は続けて聞きました。しかし、ルディさんは何も答えられませんでした。やっと「僕はそんな視点から考えたことはない」と言いました。そして少し遠慮しながら「僕は悪い人間じゃない。他の男みたいに女たちと遊ぶこともないし、いい人としてやってみるよ」と言いました。私はルディさんの理解を助けてあげようと思いました。「あなたは、神様がスケールのとても広い方だと思っているのではないでしょうか?あなたの罪がスケールの一方の端っこにあるように思っているのではないでしょうか?ルディさん、あなたも何か悪いことをしたことがあるでしょう?」「うん」とルディさんがうなずきました。私は話し続けました。「また、そのスケールの反対の端っこにあなたの善い行いがありますね。例えば、奥さんやお子さんや社会に対して行った善いことです。その通りですか?」「はい、はい、その通りです」とルディさんは熱心にうなずいて同意しました。「そして、もし、神様があなたの人生を評価するとき、悪いことより善い行いの方が多かったら、地獄に落ちる心配はないということなのでしょうか?」と私はルディさんの考えをまとめてみました。彼は、私の言葉通りと言って、少し微笑しました。「あなたの考えは、なかなか当を得た考えだ 」と私は言いましたが、ぺンを取ってノートに線を描きました。

完全に悪いこと…………………………完全に善いこと
(0%善いこと)        (100%善いこと)

「けれども、一つ難しい質問があります。善いことがどのくらい必要かご存じですか?」と私は尋ねて、ペンをルディさんに渡しました。「天国に入るために、ルディさんの行いの中で善いことの割合は何パーセントぐらいだったら十分でしょうか?その量を示せるように、そこに丸を描いて下さい。」ルディさんはペンを取り、適当な場所を探して、丸を大体60パーセントの所に描きました。けれども、ルディさんは考え直して、それをすぐ75パーセントのあたりに移しました。さらに、もう一度迷って、とうとう70パーセントの所に描いて、目を下の方に向いて、ペンを私に返しました。「はい、ありがとう」と私は言いました。「ルディさんは悪い人ではないと思います。けれども、もし神様が、天国に入るためには、例えば71パーセントが必要だとおっしゃったら、あなたのような人はその場合どうなるのでしょうか?」「地獄に落ちるしかないでしょう」とルディさんは私を見ないで答えました。「そんなことにならないように、丸の正しい場所はどこにあるかということを前もって、それも神様に会う前に、確かめるのが大事ではないでしょうか?」と私は言って礼拝堂を出て行こうとしました。「私は、丸の正しい場所を知りたいです。時間があったら、それについて先生に教えていただきたいと思います。お願いします。」とルディさんは頼みました。こうなることを待っていた私は内心とても喜んで静かな場所を探し、聖書を開いて、ルディさんに天国への道を教えました。あなたは丸の正しい場所がわかりますか?

3.神様の救済の計画

なぜ神様の救済の計画が必要だったのでしょうか。まず、神様の前でどんな人が正しい者とされるのか調べてみましょう。

4.レビ記18章4~5節(旧約聖書 p.190)わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。私の掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。掟を守る人は義なる神様の前で義とされます。新約聖書にも同じように伝えています。

5.ローマ10章5節(~13)節(新約聖書 p.288)モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。神様に前で義とされているということは、 善いこと、また正しいことです。このように、律法を全うする人は義とされるわけですが、掟を完全に全部守ることができる人は誰一人(だれひとり)いないのです。だから、人は善い業を通して救われることはないのです。

6.ローマ3章20節(新約聖書 p.277)なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。神様の掟を守ろうとする人は、まず自分の罪を認めるしかないでしょう。また、その自分は罪の罰から逃げることは出来ないという事実も見いだします。しかし、

7.テモテへの手紙一2章4節(新約聖書 p.385)神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
この次の箇所は、神様の人に対する愛の深さを表しています。

8.ヤコブの手紙4章5~6節 (新約聖書 p.425)それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのでか。「神はわたしたちのうちに住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」神様の救済の計画はどんなものだったでしょうか。人間は自分の力で自分を悪や罪や死から解放することはできません。イエス・キリストの他に、私達には希望はありません。そこで、イエス・キリストは御自分の死によって天に入る道を開いてくださいました。実は、その道はイエス・キリストご自身なのです。礼拝で何度も聞いた「ミニゴスペル」とも言われる、すなわち「良いお知らせ」という聖書のみ言葉を、皆さんもう覚えられたと思います。それを思い出しながら、声を合わせてご一緒に言ってみましょう。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。これはどこに聖書のどこに書いてあるでしょうか。ヨハネによる福音書3章16節(新約聖書p.167)次の箇所も読みましょう。

9.ローマの信徒への手紙3章23~24節(新約聖書 p.277) 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる購いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

4. 最後に

今日学んだ神様の救済の計画は一言(ひとこと)で言えば、私達は信仰を持って、恵みによって救われるということです。

10.エフェソの信徒での手紙2章8節~9節(新約聖書p.353)事実は、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。この間、神様の人生に対する計画について学んだとき、私達は善い業のために造られた者だと学びましたね。

11.エフェソ信徒への手紙2章10節(新約聖書 p.353)なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

それなら、この2つの教えの間に矛盾(むじゅん)があるかと思う人もいるでしょう。けれども、矛盾はありません。ある先生はよく働くクリスチャンに「働き者だという性格は、贈り物として使うと良いね。でも、決して、人や神からも愛や称賛や承認を『買う』ためにそれを使ってはいけないよ。」といいました。神様の恵みは無償、つまりただなのです。では、これが真実なら、神様から恵みをいただいた私達はどのように神様に応答すべきですか。

12.ミカ6章8節 (旧約聖書 p.1456)人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義
を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。これが神様に対する感謝の応答です。善行は救いを得る手段ではありません。善い業は救いのもたらす成果、恵みの感謝です。イエス・キリストを信じて罪を赦していただいて、私達は人生も永久も神様と共に生きることができます。この罪の許しを信仰によって受け取りませんか。もしあなたがそうされたら、神様との親密な関係の中で永遠に生きることが出来ます。あなたの為にも、私の為にも神様に立てられた救済の良い計画はこれなのです。

聖書の学び 「神様の二つの計画、その一」  パイヴィ先生

 

神様からの人生の計画

1 導入

神様は私達に掛け替えのない命を与えられました。しかし、私達はこの一つしかない人生をどのように使っているでしょうか。特に若い人の中には、自分の人生をどう生きたら良いかと悩んでいる人もいるかもしれません。しかし、年をとってもこの疑問を忘れないことは良いことです。年齢によって、皆出来ることがだんだんと変わっていきますから。人は自分の命の使い方を自分で決定出来ますが、私達をお造りになった神様は、私たち一人一人の人生にもご計画を立ててくださっています。そこで、自分の人生について神様に尋ねるということを御一緒に考えてみたいと思います。

神様を信じていたユダヤの王、ヨシャファトの例を、見てみましょう。ヨシャファトは戦争の計画をしているイスラエルの王に、どのように助言したのでしょうか。

1.列王記上22章5節(旧約聖書 p.572)
しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めて下さい」と言いました。賢い人は、自分の考えが正しいと思っても、勝手に自分で決めないで、まず神様に尋ねて決定します。これを見て下さい。何が書いてありますか。この点は短い人生を、この矢印のある点線は終わりのない永遠をあらわします。神様がそのどちらも人に用意され、与えられたものです。
          

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聖書には、神は人に対して、二つのプランを立てられたと書いてあります。一つは人間を永遠の命に救うための計画で、もう一つは私達一人一人の人生のための計画です。救済の計画は皆にとって同じですが、人生に対する計画は人によって様々です。来月は、救済の計画をテーマにして、今日は、神様に与えられた人生をいかに使ったら良いかということを、ご一緒に考えてみましょう。まず、人生の一般的な目的について考えて、その後に、一人一人に与えられている人生の使命について学んでいきましょう。

 

2 人生の目的

神様は何のために人間を造られたのだろうと考えたことがありますか。聖書を開いてみましょう。初めに、旧約聖書を見てみましょう。
2.創世記1章26節 (旧約聖書 p.2)神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

3.創世記2章15節(旧約聖書p.3)主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。このように、神様は人を、ご自分の仕事仲間(同労者)また、協力者として造られました。すなわち、人は神様が造って下さった地球を住まいとして与えられていますが、その地球と被造物を守る役が与えられています。人生の目的は与えられた地を耕したり、守ったりすることなのです。次に、新約聖書を開きましょう。

4.エフェソ信徒への手紙2章10節(新約聖書 p.353)なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。この箇所によると、人は良い業を行うために造られたものです。しかし、その善い業とはどんなことでしょうか。答えは次の箇所に書いてあります。

5.マタイによる福音書22章35節~39節(新約聖書 p.44)(そのうちの一人、)律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この掟はルカによる福音書10章27節(新約聖書p.126)まとめてあります。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。

 (同じ掟が、旧約聖書にも書いてあります。例えば、
申命記6章5節(旧約聖書 p.291)あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
レビ記19章18節(旧約聖書p.192)。。。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。。。)
一言で言えば、人類の共通の任務、あるいは使命は、「愛すること」だということです。しかし、この愛は人類愛だけの意味ではありません。上の箇所に基づいて、フィンランドのある牧師で、キリスト教カウンセラー、またセラピストであるヴァリマキ・ペトリ(Valimaki Petri)によると、人は愛する関係に造られた者なので、人生の目的はこの愛する関係を3つの人間性のレベルで生かすことだと言われています。愛はまず、人と神様の関係の中で、また、自分と他人の関係の中で、更に、自分に対して生かすべきものです。愛することは人類の共通の使命です。けれども、だれでも、それを自分らしいやり方で生かしていいのです。一個人の使命もありますから。では、次に、一人一人の人生の目的について考えてみましょう。

3 一人一人の個人的な使命

全ての人は母の胎内で神様ご自身によって形作られました。ダビデ王はこう歌っています。

6.詩編139編13節(旧約聖書 p.980)あなたは、わたしの内蔵を造り母の胎内にわたしを組み立ててくださった。だから、神様は、私達が生まれる前から、私達をご存知でした。あなたも私も偶然として生まれた者ではありませんし、間違いもありません。あなたは神様の愛に満ちたご計画の中に存在していました。そして神様の御心の通りに造られた者です。だから、あなたの人生には目的があります。例えば、神様が預言者エレミヤの人生に計画を立てられたことについて読みましょう。

7.エレミヤ1章4節~10節(旧約聖書 p.1172)主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」。。。しかし、この言葉を聞いたエレミヤは若かったので、最初に神様に告げられた使命に抵抗しました。けれども、神様に励まされたり、また準備を与えられたりして、ついに受け入れました。そして、神様の助けによってその使命を果たしました。同じように、神様は私達一人一人にも使命を与えられ、それを果たすために様々な賜物を与えてくださっています。それは生まれながらいただいている、「自然な才能」と、また洗礼を通して新たに生まれた者に与えられる霊的な「恵みの賜物」です。先ほどのカウンセラーのヴァリマキは、人は人生の目的を達するために、自分の使命が何かを見つけ出さなければないと言います。けれども、自分の人生の使命は何かを、どのように見出すでしょうか。そのために、ヴァリマキは4つのアドバイスと質問を投げかけています。最初に、マルタとマリアの記事を思い出して考えましょう。

8.ルカによる福音書10章38節~42節(新約聖書 p.127)イエスはこの二人の女の家を訪問された時、マルタはいつものように女主人としての役目をし始めましたが、マリアは何をしましたでしょうか。第一のアドバイスは、私達もマリアのように手を止めて、イエスの元に行き、話に聞き入れたり祈ったりしてイエスの御心を尋ねてはどうでしょう。そして、じっと聞くということです。神様は色々な方法で私達に答えて下さいますから。二番目は、自分の心の声を聞くということです。神様は私達の心に働いておられますから。

9.フィリピの信徒への手紙2章13節(新約聖書 p.363)あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。あなたが一番やりたいと心の中で思っていることは何でしょうか。何のために頑張りたいのでしょうか。あなたは、自分にとって何が人生で大切なことだと思っていますか。三番目は、自分の周りを見ることです。あなたはどこで、だれを愛することが出来るでしょうか。遠くまで行く必要はないのです。例えば、あなたに家族があれば、あなたの一番重要な責任は家族のメンバーでしょう。四番目に考えることは、あなたにはどんな才能や賜物を与えられていますかということです。一人一人の才能や賜物は、それを十分に活用するために与えられています。才能は決して自分が人の前で輝くためではなく、自分の使命を全うするために与えられたものです。

4 要約

最後に,10.ローマの信徒への手紙11章29節(新約聖書 p.291)を読みましょう。神の賜物と招きとは取り消されないものです。素晴らしいみ言葉です。神の賜物と招きとは取り消されないものです。しかし、私達はこの神様の招きにどう答えるでしょうか。ヴァリマキは使命を次の一言で定義しています。あなたに与えられた使命とは「自分自身にぴったり合うもの」だということです。ご自分に与えられている才能を見つけて、磨いて、それを用いて下さい。神様があなたの人生に立てられた計画を実現できるのは、あなた自身だけなのです。

 

祈り

天にいます愛の父よ、イエス・キリストのゆえに、私たちに聖書をお与えください。聖書によって、私達の耳と心を開き、私達に語ってください。お約束を信頼し、イエス・キリストのみ名によって、あなたのみもとに近づき、祈りのうちに、信頼をもってあなたを語り合うことを教えてください。アーメン。

聖書を開きましょう「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 マタイ11章28節、パイヴィ先生

家に帰る道の休憩 その三

1.テーマ聖句と霊的な重荷

スオミ・キリスト教会の2011年のテーマ聖句は「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 マタイ11章28節(新約聖書 p.21)

素晴らしい招きと約束ですね。この聖句を元にして、私達は人が担っている重荷について学んできました。例えば、「人生の旅」を辛くする病気や疲れといった肉体的な苦労、そして、心配、恐れや悲しみのような重荷について話しました。しかし、今日はそれよりも重大な重荷について聖書を開いて一緒に学びたいと思います。この重荷の重さは私達が 人生の目的地、天国、に入ることも阻むほどです。これほどの力がある負担とは、一体何でしょうか。

最初に、

1.マタイによる福音書9章1〜8節(新約聖書  p.15)を読みましょう。

この中風で悩む男の人の話を読んで、驚くところがありませんか。 病気の男の人とその人を運んであげた人たちは何を望んでイエスのもとに来たと思いますか。男の人を直してもらいたかったでしょう。6節によると、イエスはこの願いに答えられ、病気を癒されました。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。(6節)けれども、なぜイエスは最初に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(2節)と病人に言われたのでしょうか。人々の病気による悩みもよくご存じだったイエスは、病気より重大な問題があるということを教えられたのでしょうか。イエスは一番重い荷、つまり罪、から人を解放したいと思われたのです。

2.どうして罪はそれほど悪いことでしょうか。

罪は霊的な重荷だと言われますが、抽象的な苦しみではありません。罪は内的と外的な影響に加えて、永遠に渡る影響も与えます。

霊的な重荷には最低3つのものがあります。まず1.犯した罪の結果、自分自身や他の人を取り巻く環境にもたらす迷惑や悩みです。次に2.「罪を犯してしまった」という責めと後悔の念 です。罪は霊的なものなのに、罪の重荷には肉体的にも精神的にも苦しみをもたらすのです。また、さっき言ったように、罪の結果の苦しみは、決して個人の生活に留まらずに、社会や世界中にも広がっています。1番目と2番目のような苦難は、罪の人生にはっきりと辛い影響を現わします。嘘、偽り、家庭暴力、子供の虐待、などです。マルコによる福音書7章22節(新約聖書 p.75)にこうあります。 「姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」これは、大変な不幸ですね。そして、罪に伴う責め、恥と恐れも余り良い旅の道連れではないでしょう。

しかし、3番目の苦労は罪の本当の怖さを表します。3.罪の罰を担う重荷です。

2.ローマ6章23節を読みましょう。(新約聖書   p.282)

「罪が支払う報酬は死です 。」罪は神の前で決して小さいものではありません。それどころか、罪は恐ろしいものです。人にとって死ほど深刻な問題はないでしょう。もともとは、死も他の悩みも神がお造りになった世界にありませんでした。創世記によると、それは罪のせいで、悪と同時に、この世に入ってきたものなのです。

3.創世記1〜3章を見ましょう。創世記1章31節(旧約聖書   p.2)

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

けれども創世記2章16〜17節をご覧下さい(旧約聖書   p.3)。神はエデンの園に住まわせて人に何を言われましたか。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」神は蛇の誘惑に陥ることの危険、死のこと、をアダムとエバに告げられました。(参考に、創世記3節3節も読んで下さい。旧約聖書p.3)

しかし、3章7〜12節(旧約聖書p.4)を読むと、人が神に対する最初の罪を犯して、それに伴って「罪の意識」、それは「恥」、「恐れ」と「責め」、が人の生活に入ってきたことが分かります。更に、3章を読み続けると、苦労も生活に入ってきたことが分かります。例えば、3章16節 (旧約聖書p.4)は女の産みの苦しみ、3章17節 (旧約聖書p.5)土が呪われるものになったこと、そして3章19節(旧約聖書p.5)労働の悩みを明にします。「お前は顔に汗を流してパンを得る」。更に、ついに死が人の生活に入ってきてしまいました。3章22、23節(旧約聖書   p.5)

4.ローマ6章23節に書いてある通りに、罪が支払う報酬は死です 。全ての被造物と同じに、この私たちの体もいつか死ぬことでしょう。これも罪の報酬ということですが、永遠の死ということもあります。裁きの日の後は、永遠に神と共に生きることと、永遠に神から離れてしまうことがあるのです。しかし、ローマ6章23節(新約聖書p.282)読み続けましょう。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。罪も深い問題ですが、イエスによる永遠の命は素晴らしい賜物です。では、この賜物はどのように得るでしょうか。私達はどのように罪、サタンと死から解放されるのでしょうか。

5.ミカ7章18節〜20節 (旧約聖書 p.1458)

「あなたのような神がほかにあろうか咎を除き、罪を赦される神が。 神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ我らの咎と抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことをアブラハムに慈しみを示して下さい その昔、我らの父にお誓いになさったように。」

私達は永遠の命の賜物を、神の愛と恵みと罪の赦しのみによって得るのです。旧約聖書にも新約聖書にも罪の許しについての約束があります。例えば、

6.イザヤ44章22節 を開きましょう。(旧約聖書 p.1134)

「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたをあがなった。」

また、福音を一言にまとめたと言ってもいい聖句を覚えていますか。

7.ヨハネによる福音書3章16節 (新約聖書 p.167)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この「ミニゴスペル」とも言われる聖句の意味を是非学んでください。もし聖書で一節を覚えたかったら、これを丸暗記し て下さい。イエスのみは苦しんでいる人を全人的に助けられる方です。残念ながら、イエスが再び来られるまでは、罪のせいでこの世に入った病気や苦しみは完 全に消えません。けれども、一番深い問題、罪、を解決できる神は他の問題の中にもある人たちをも助けることがお出来になります。

8.イザヤ63章8〜9節 (旧約聖書 p.1165)

「主は言われた 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主になられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし御前に使える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみを持って彼らをあがない 昔から常に 彼らを負い、彼らを担って下さった。」

9.イザヤ46章4節 (旧約聖書 p.1138)

「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。」

3.要約

教会は疲れた旅人のために用意された神の宿屋です。ですから、できれば、神の前に集うことができるために聖別された日曜日に一緒に礼拝に参加しましょう。そ れから、一人でいるときも、祈ったり聖書を読んだりすることを通してイエスのもとに行きましょう。例えば、毎朝、次のように祈りましょう。

10.イザヤ33章2節    (旧約聖書 p.1112)

「主よ、我らを憐れんで下さい。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり 苦難のとき、我らの救いとなってください。」

このように罪の許しを願いましょう。他の重荷も十字架の前に置いて、リュックサックの中身を軽くしていただきましょう。イエスは重い荷を担う人を絶えず、呼んでくださり、十字架のもとに来た人を憐れみを持って迎えて下さいます。そして毎日新たに「休ませて上げよう」と言ってくださいます。

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  • 3月 20日 10:00 am
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    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ13章1~9),礼拝後交わり、読書会担当者木村長政先生
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