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聖書の学び | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

聖書の学び

「復活の日の再会の希望」、月刊「るーてる」5月号掲載:吉村博明 宣教師のバイブル・エッセイ

復活の日の再会の希望

 聖句
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
(第一ペトロ4章6節)

 新共同訳のこの御言葉は、福音を告げ知らされずに死んだ者も皆、永遠の命に与るという誤解を招きかねない。ギリシャ語原文を見ると、死者にも福音が告げ知らされたのは二つの目的のためだとはっきり書いてある。一つは、「肉体を有する人間と同じように裁きを受けるため」という目的、もう一つは、「神と同じように霊的な者として生きるため」という目的だ。新共同訳では最初の目的が抜け落ちてしまっている。次に、「裁きを受ける」の意味をどう捉えるかが重要だ。「(有罪無罪を決める)審判を受ける」と解すれば、死者に福音が告げ知らされたのは「人間と同じように審判を受け、(無罪とされた者が)神と同じように生きるため」ということになる。
 また、「有罪判決を受ける」と解すれば、「死者のある者は人間と同じように有罪判決を受け、別の者は神と同じように生きるため」ということになる。この二つの意味を合わせてみれば、死者にも福音が告げ知らされたのは、「人間と同じように審判を受け、その結果、ある者は有罪判決を受け、別の者は霊的な者として生きるため」ということになる。

イエス様は十字架の死から復活までの間、死者が安置されている陰府に下ってそこで福音を告げ知らせた。その結果、そこでも死と罪に対する勝利が響き渡り真理として打ち立てられることとなった。死者も審判の結果次第で永遠の命に与れるようになるために福音が告げ知らされた。これは、生きている者の場合と全く同じである。つまり、福音の告げ知らせについても審判や判決についても、死んだ者は生きている者と同じ立場に置かれることになったのだ。従って、「この世で福音を告げ知らされずに死んだ者は全員、炎の海に投げ込まれる」と言うのも、「全員が天国に行ける」と言うのも同じくらい真理に反する。

ここで大きな問題が立ちはだかる。死んだ人というのはルターの言うように復活の日・最後の審判の日まで安らかな眠りについている者である。その眠っている人がどうやって福音を告げ知らされてイエス様を救い主として受け入れるか否かの態度決定ができるかということだ。福音を告げ知らせたというのは、告げ知らせる側が相手に態度決定を期待するからそうするわけだ。態度決定が生じないとわかっていれば、告げ知らせなどしないだろう。しかし、眠っている者がどうやって態度決定できるのか?ここから先は、全知全能の神の判断に委ねるしかない。生きている者が行う態度決定に相当する何かを神は眠っている者の中に見抜かれるのであろう。それは人間の理解を超えることなので我々は手を口に当てるしかない。神は最後の審判の日に生きている者と死んだ者全てについて記された書物を開き、イエス様との関係がどのようなものであるか一人一人について見ていかれる。

キリスト信仰者も信仰者でなかった者もこの世を去ると、福音が響き渡って真理として打ち立てられたところに行って眠りにつくのであり、全てを見抜かれる神は最後の審判で最終判断を下す。果たして、信仰者でなかった方との復活の日の再会は叶うのか?しかし、そう心配する信仰者本人はどうなのか?神はこの私にはどのような判断を下されるのか?この、まさに足元が崩れそうになる瞬間こそ、キリスト信仰者の特権を思い出すべき時である。それは、この世の生の段階でイエス様を唯一の救い主と信じて告白すれば、復活の日に新しい体と永遠の命を与えられるという希望を持って生きられる特権である。そして、その希望の内にこの世を去ることができるという特権である。この希望は、主の十字架と復活に根拠を持つ、揺るがない希望である。

もしあなたが復活の日に誰かと再会する希望を持つならば、この世で福音を告げ知らされてイエス様を救い主と信じた以上は、最後までその信仰に留まるしかない。再会を願ったその人が天の祝宴の席に着けて、肝心のあなたが着けなかったら、元も子もないではないか?

聖書研究会:木村長政 名誉牧師

今日の聖書研究会は黙示録19章を学びました。19,20章は神様のみ業が成就する様子が描かれている箇所であると先生が述べられました。10節にある「イエスの証は預言の霊なのだ」について吉村先生とH姉から含蓄ある解説をいただきました。

 

吉村宣教師の聖書研究会「ヘブライ人への手紙」3章

「ヘブライ人への手紙」の学びは、宣教師の夏期一時帰国があったため、今日再開となりました。3章は、旧約の偉大な預言者モーセとそれを遥かに上回って偉大なイエス・キリストの対比で始まります。ギリシャ語原文に依拠しながら見ていくと、一方の偉大さは被造物の中に留まり、他方の偉大さは被造物の上に立つ偉大さ、創造者の側に立つ偉大さが、訳よりももっとはっきりすることが指摘されました。

7節から後は、出エジプト記の荒野の40年の出来事が反面教師として述べられています。これは、興味深いことです。なぜなら、旧約の伝統、ユダヤ教の伝統では出エジプトの出来事は、大方は神がイスラエルの民を解放した偉大な出来事として位置づけられるのに、ここでは不信仰が何をもたらすかと言う教訓として扱われているからです。宣教師の解説の後でも、出エジプトの出来事がキリスト信仰者の生き方にとってどんな意味を持つかということが参加者の間で話し合われました。

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吉村宣教師による聖書研究会

 前回始まった「ヘブライ人への手紙」の学びは、今日は2章についてでした。1章では、イエス様は天使を超える存在であることが強調され、まさに天の父なるみ神と同列な方であるイエス様が読者の目の前に現れました。

 2章はとても対照的です。そのイエス様が肉と血をまとって人間となられ、十字架の上で死を被ることで、死をもたらす悪魔を一緒に滅ぼし、人間を死の奴隷状態から解放する道を開きました。

 しかし、それだけではなかったのです。この天の父なるみ神と同列の方は、血と肉をまとったがために、人間と同じように試練を受け、人間と同じように苦しむことを知ったのです。それだからこそ、試練を受けている人たちのことがわかり、助けることができるのです。これが、私たちの救い主なのです。この、天の父なるみ神と同列の方が、私たちと同様に試練に遭われた、というテーマは、4章でまた繰り返されます。

 本日は、話し合いや質問の時間がとても活発で、イエス・キリストがユダヤ教やイスラム教でどう扱われているかとか、ヘブライ語とギリシャ語の旧約聖書の成り立ちや違いについて、また当時の地中海世界のユダヤ教徒の言語的帰属等についていろいろ話が及びました。

聖書のヘブライ人への手紙2章

吉村宣教師の聖書研究会(ヘブライ人への手紙)

 毎月の第4主日は吉村宣教師が担当する聖書研究会があります(今月は第五主日)。今回からは、「ヘブライ人への手紙」を一緒に学びます。

 初回の今日は、同手紙の概説の話を聞き、第一章について学びました。この、旧約聖書をふんだんに使いこなしながら、キリスト教徒を親身に、時には厳しく時には励ましをもって導こうとする著者は、どんな背景を持つ者か、どのような状況にある教会の信徒に書いているのか等が概説の主眼でした。

 第一章を通して、キリスト信仰者は、天使の実在を信じても、それを崇拝してはならないこと、崇拝の対象はあくまで父、御子、聖霊の三位一体の神であることを確認しました。

ヘブライ人への手紙

「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」ヘブライ人への手紙1章14節

聖書を開きましょう「絶えず祈りなさい」、パイヴィ先生

絶えず祈りなさい、パイヴィ先生の聖書研究 (PDFファイル)

聖書を開きましょう「助けて下さる主、旅人の歌、その3」 パイヴィ先生

1.導入

来月の総会で、スオミ・キリスト教会の新しいテーマ聖句を決定することになりますが、 その前にもう一度、去年選ばれた御言葉を学びましょう。その聖句は聖書のどちらに書いてあったでしょうか。
詩編121編1節〜2節です(旧約聖書 p.968)。
では、初めに、テーマ聖句をご一緒に思い出しましょう。
1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
  わたしの助けはどこから来るのか。

2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

テーマの元と成っている詩編121編は「旅人の歌」とも呼ばれています。今日は、詩編の2節に注目しましょう。2節は短いですが、それには二つの大切な約束が含まれています。最初に、「わたしの助けが来る」という約束です。そして、続けて、わたしの助けは天地を造られた主のもとから来るということも明らかに記されています。世界をお造りになった方は全能で全てのことを支配されているお方ですから、その方に助けていただければ、心配はないでしょう。これほど素晴らしい約束があれば、みんなは煩う事を止められるでしょう。けれども、現実は違います。今回、聖書を開いて、二つの質問を考えたいと思います。一番目は、なぜ人は天地を創られた主から助けを求めないのか、二番目に、私たちを助けたい主はどんな神様か、ということです。

 

2.なぜ人は神様から助けを求めていませんか

みんなが父なる神様から助けを期待しているわけではないのです。まだ聖書を知らない人もかなりいると思いますが、聖書を知る者の中でも、天地の造り主を信じていない人は少なくではないでしょう。
1.ガラテヤの信徒への手紙 / 4章 8節〜9節を読みましょう(新約聖書 p.347)。
8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

この箇所によると、人々は神でないものを神として拝んでいるということです。神様を知らない人だったら、そのようなことは当たり前でしょう。けれども、キリスト者になった私たちにも、そのような危険があるのではないでしょうか。私たちはキリスト者になっても、まだ罪人なので、もともと神でない神々を拝みがちです。では、罪に堕ちた人間は、例えば、どんなものを神として捉えるでしょうか。4つの面から考えてみましょう。

一番目に、罪の一つは、人間は神様の変わりに、自分の力と知恵に頼ることです。
2. エゼキエル書 / 28章 1節〜2節(旧約聖書 p.1340)
主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。
3.ハバクク書 / 1章 11節(旧約聖書 p.1464)
彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。(イザヤ書 / 26章 12節を参考に読んで下さい。旧約聖書 p.1099、「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。」)

二番目に、人は金銀や財産などを偶像礼拝としてしやすい者だということです。
4.箴言 / 11章 4節 (旧約聖書 p.1004)
怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。
5.エゼキエル書 / 7章 19節〜20節(旧約聖書 p.1304)
19 彼らは銀を外に投げ捨て/金は汚れたものとなる。主の怒りの日には、銀も金も/彼らを救うことができないからだ。銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず/腹を満たすこともできない。かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。
20 彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い/憎むべき忌まわしい偶像を造った。それゆえ、わたしはそれを汚れたものとし

三番目に、将来のことを心配している人には占いをする誘惑があります。人は、例えば、トランプとか夢とか星占いなどで自分の未来はどんなものかと知りたがるのです。ある人は占い師の店に行って、お金を支払って占いをしてもらおうとします。占いの他に、直接に死者に伺いを立てる人、それから、霊媒を通して死者に伺いを立てる人もあるでしょう。けれども、聖書はそのようなことについてどのように教えているか調べてみましょう。
6.申命記 / 18章 11節  (旧約聖書 p.309)
呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
7.ゼカリヤ書 / 10章 2節  (旧約聖書 p.1490)
テラフィムは空虚なことを語り
占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。
その慰めは空しい。
それゆえ、人々は羊のようにさまよい
羊飼いがいないので苦しむ。
(英語の聖書 「People consult idols and fortunetellers, but the answers they get are lies and nonsense. Some interpret dreams, but only mislead you; the comfort they give is useless. So the people wander about like lost sheep. They are in trouble because they have no leader.」)
8.イザヤ書 / 44章 24節〜25節 (旧約聖書 p.1134)
24 あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。
25 むなしいしるしを告げる者を混乱させ/占い師を狂わせ/知者を退けてその知識を愚かなものとする。
死者に伺いを立てることは滅多にないことかもしれませんが、それは死者の霊魂を拝むこととか死者に祈ることとはあまり違いないことです。神様の代わりに、自分の力と知恵に頼ることも、金銀や財産に頼ることも、死者に頼ることも、占いをすることも偶像礼拝です。その上に、

四番目に、人は自分の手で偶像を造り、それを拝もうとします。 9.ハバクク書 / 2章 18節〜19節 (旧約聖書 p.1467)
18 彫刻師の刻んだ彫像や鋳像/また、偽りを教える者が何の役に立つのか。口の利けない偶像を造り/造った者がそれに依り頼んでも/何の役に立つのか。
19 災いだ、木に向かって「目を覚ませ」と言い/物言わぬ石に向かって「起きよ」と言う者は。それが託宣を下しうるのか。見よ、これは金と銀をかぶせたもので/その中に命の息は全くない。
神様は全てのことを支配され、神々の上に権威を持っておられます。十戒の中で、1番目の戒めは何でしたでしょうか。
10.出エジプト記 / 20章 3節〜5節 (旧約聖書 p.126)
3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。
偶像礼拝をする人たちはこの戒めを守りません。天地を創造された全能の神様を唯一の神様として尊敬しません。けれども、聖書は私たちに偶像を作らないように、また偶像礼拝をしてはいけないと戒めていますよ。そしてその代わりに、 生きておられる神様が私たちを助けて下さることに信頼するようにと教えています。

 

3.私たちを助けたい主はどんな神様ですか

私たちを助けて下さる神様は、詩編121編の2節にも書いてある通りに、どんな主なのでしょうか。先ほどお話した通りに、主は創造の主です。(エレミヤ書 / 51章 15〜19節を参考に読んで下さい。)

万物の創造者である万軍の主は小さな人間のことをどのようにしてくださいます。 11.イザヤ書 / 46章 3〜9節  (旧約聖書 p.1137)
3  わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。 
4  同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
5  お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。
6  袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む。
7  彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない。
8  背く者よ、反省せよ/思い起こし、力を出せ。
9  思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。

けれども、偶像礼拝をしてしまった罪人の私たちに対する主のみ心はどんなものでしょうか。主は私たちを罪から救おうとして下さるのです。
12.ヨエル書 / 3章 5節 (旧約聖書 p.1425)
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
それがどんなに素晴らしいものであっても、霊的なことや宗教的な儀式は、私たちを死と罪と悪魔の力から救うことは出来ません。神の御子、主イエスだけが救い主です。私たちはイエス・キリストによって神様の子供になれます。
13.エフェソの信徒への手紙 / 1章 5節 (新約聖書 p.352)
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
最後に、イザヤ書54章10節を読ませて頂きます。(旧約聖書 p.1151)。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。

まとめましょう。

心配や恐れのある時、目を上げて、わたしは主の住まいがある天を仰ぎましょう。私たちの助けはそこから来ます。私たちの助けは天地を造られた主、私たちの救い主のもとから来ますから。

クリスマスツリーの物語と聖書の学び、パイヴィ先生

クリスマスツリーの物語とパイヴィ先生の聖書研究会(PDFファイル)

「悩んでいる人」、旅人の歌 その2、聖書を開きましょう、パイヴィ先生

「悩んでいる人」と言うタイトルで詩編121を皮切りに新旧の聖書のみ言葉を学びました。

 

「悩んでいる人」

旅人の歌 その2

1 導入 〜 安全な歩みの約束

先月、私たちはスオミ・キリスト教会の今年のテーマを学び始めました。そのテーマの元となった聖書の箇所を覚えていらっしゃいますか。はい、詩編121編1節と2節です。はじめに、テーマを思い出しましょう。

詩編 / 121編(旧約聖書 p.968)

【都に上る歌。】1目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

前回は、人生の目的地について考えるために、詩編121編一節の最初の文に注目しました。今日は、前回に続いて、その1節の二つ目の文を勉強して、人生の歩みに必要な助けを求めることについて一緒に学んで頂きたいのです。 最近、旅行に行かれましたか?旅行に出発することは楽しいでしょう。計画を立てたり、荷物を用意したりして、旅に出る前の段階から、旅行を楽しむことができます。そして、誰もが、旅で良い時間を過ごし、無事に家に帰りつくことを、つまり安全な旅行を望んでいます。詩編121編は天国を目指す私達に次のことを教えています。私たちは、神様の助けと見守りによって、日々の生活を安全に歩むことができるということです。 1.詩編121編3節〜8節を読みましょう(旧約聖書 p.968)。

3どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

この箇所は、主に信頼し、主に頼る人は、神様の見守りのうちに、安心して平穏な生活ができると言っています。神様は私たちの全てを完全にご存じであり、愛してくださる方です。神様は、私たちの「足がよろめかないよう」、私たちを守るようにと天使達に命令されます(詩編91編10節〜12節。)けれども、皆さんは、これまでの人生を振り返った時に、楽で安心な生活というものはあり得ない、と思われるのではないでしょうか。 疲れたり病気をしたり大切なものを失ったりすることがあります。いじめられたり、ごまかされたり、苦難と不正に遭ったりする人も少なくないでしょう。苦難や挫折 (ざせつ)を経験しない、全くの平穏な人生を送る人はいません。現実には、子供の時から苦しい思いを経験してきた人も確かにいます。詩編129編の著作者も、そのような経験をしていると思います。

2. 詩編 / 129編 1節〜3節 (旧約聖書 p.972)

【都に上る歌。】

1.イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが 2.わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。 3.耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った。」

人生には厄介な面があり、それゆえ、人生は楽しい旅であると言い切ることはできません。

2.神様、どうしてですか 〜 悩んでいる人の疑問

人はなぜ、苦しまなければならないでしょう?なぜ私が、そして、なぜ私の大切な人たちが苦しまなければならないのでしょうか?神様が守ってくださるという話は嘘でしょうか?詩編121編を、どのように理解したらいいでしょうか?皆さんもこのような疑問を持ったことがあるかもしれません。 神様が全能で愛に満ちているとすれば、なぜその神様が創った世界に、苦しみがあるのでしょうか。小さな存在である人間の理性では、これを完全に理解することはできません。賢い哲学者たちでさえも、時代を超えて存在する悩みと苦しみに答えを見つけることはないでしょう。それゆえ、私たちは、聖書を読み、み言葉により頼むことしかできません。 なぜでしょうか。神様の思いは私たちの思いをはるかに超えた所にあるからです。 3.イザヤ書 / 55章 8節〜9節 (旧約聖書 p.1153)

8.わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる 9.天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

聖書には、苦しみについての書があります。それは何という書ですか?ご存じの方は、いらっしゃいますか?はい、ヨブ記です。神様を信じ、正しい方であったのに、ヨブに襲(おそ)いかかった災難は、想像もできないほどのものでした。ヨブは財産と健康を失なったばかりか、十人の子供を失い、妻と親戚の者の支えをなくしました。そして、人間の尊厳までをも失い、その上、世間のあざけりを受けました。そのようなヨブの言葉を読みましょう。

4. ヨブ記1章20節〜22節 (旧約聖書 p.776)

20.ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 21.「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 22.このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

今読んだ箇所に二点、興味深いことがあります。一点目に、ヨブは全てのことを、すなわち幸福なことも不幸なことも、主からいただいたこととして捉えたということです。まさに、主が与え、主が奪うのです。悪いことや恐ろしいこと、それは決して神様の許可なしには起こりえません。

5.イザヤ45章7節(旧約聖書 p.1135)

光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。

二点目に、ヨブはそのような厳しい試練の中にあっても、罪を犯さなかったということです。ヨブが友達に言った、次の言葉を聞いて下さい。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった(ヨブ記 / 2章 10節、旧約聖書 p.777)。ヨブは、不信仰への誘惑に遭いましたが、それに負けませんでした。試練はかならずしも罪を生み出すわけではありません。しかし、試練は、罪を犯す危険性をはらむ誘惑へと代わる可能性があります。

誘惑と試練をそれぞれ簡単に定義します。1.誘惑とは悪いこと、危ないこと、禁じていることへおびきだすこと、つまり罪を犯すことへの誘いです。そして、2.試練とは、信頼を厳しく試されることです。ですから、試練は誘惑へと代わる可能性があります。長いあいだ辛くて難しいことが相次ぐと、人は、神様の助けや愛に迷いをおぼえ、信仰までもなくしてしまう危険があるでしょう。

マイリス・ヤナツイネンは「主はとられる 大震災を経て〜ヨブ記を読む」という本で二つの誘惑について書いています。一つは、罪は大変美しく、魅力的に見えてしまうこと、もう一つは、かけがえのないものを失ったために神から離れそうになること、です。そして、ヤナツイネンは次のように書き続けます。人は、健康、愛する人、名誉や仕事などを失ったとき、絶望し、信仰をなくして、みことばと聖餐を放棄し、神を呪い、自殺しようとしてしまう危険があることを。それがヨブの状態でした。(p.26)

苦しみと悩みには色々ありますが、その中でも、人間にとって一番深刻なものは、罪についての苦難です。自分の罪の恐ろしさを理解すればするほど人は悲しみを覚えます。では、試練と誘惑にあいつづける弱い人間はどうしたらいいでしょうか。

3.わたしの助けはどこから来るのか

ヨブや詩編の著作者たちに、私たちは共感を覚えます。私たちも「わたしの助けはどこから来るのか」という問いかけを続けているからです。それに対して、聖書は次のように答えています。

6.ヤコブの手紙 / 5章 13節 (新約聖書 p.426)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。

私たちも試練に遭って、苦しんでいる時には、祈りましょう。 神様の前に立ち、心を開きましょう。大きい声を出して嘆いても構いません。聖書によると、人は弱い存在です。それゆえ、誘惑のわなに陥ってしまうのです。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。というみ言葉はマルコによる福音書 14章 38節に書いてあります(新約聖書 p.92)。私たちは、何か悪いことをしてしまいそうになる気持ちを抑えるために、神様に助けを求めましょう 。

7.哀歌3章55節〜56節 (旧約聖書 p.1291)

深い穴の底から/主よ、わたしは御名を呼びます。 耳を閉ざさず、この声を聞き/わたしを助け、救い出してください。

使徒パウロも、そのような時、何度なく神様に救われました。そして、罪を犯してしまった場合でも、その許しを得るために、神様のみ許に行きましょう。

8.詩編 / 130編 1節〜7節(旧約聖書 p.973)

1【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

罪を悔い改める人すべて、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されています。大胆に、聖なる神様に近づくことができるのです。天国に至るまで、神様に支えて下さいます。

9.コリントの信徒への手紙一 / 1章 8節 (新約聖書 p.299)

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

主は、御自分を頼る人を助けて下さる、と約束してくだざいました。

4.最後に、

人は苦難にある時には特に、混乱が早く終わって欲しいと望みます。そして、 平和と平安がある国に入りたいと強く思います。フィランド語にTaivasikävä というきれいな言葉があります。天国に行く事を待ち望むということを意味します。使徒パウロは、自分に襲いかかった様々な苦難について次のように記述していますが、彼にもそんな気持ちがあったのでしょう。  

10.コリントの信徒への手紙二 / 5章 1〜10節 (新約聖書 p.330)

1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって(苦しみもだえています)。

悩んでいても、キリスト者は信仰によって生きていると使徒パウロは語ります。神様から助けを求める私たちは、神様が助けの手を差し、伸べてくださる事に信頼をおくことができます。そして、イエス・キリストと共に天国への道を歩みつづければ、必ず、無事に、その目的地に着きます。神様は、はっきりと、天国の永遠の命へと私たちを励まして力づけて下さいます。

もし、ご自分がたてた計画に突然の変更を余儀なくされることがあっても、私たちは神様のご計画に絶対な信頼をよせることができます。理解できない人生の山も谷も、神様の隠された導きです。だから、私たちは全てのこと、幸いなことも苦しいことも神様を信頼し、すべてを神様に委ねましょう。聖書には、イエス­・キリストの助けと救いによる頼むならば、不幸なことのように思える試練も、最後には私たちにとっての幸せへと変わるという約束が 書いてあります。

11.ペトロの手紙一 / 1章 3節〜7節 (新約聖書 p.428)

3.わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 4.また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 5.あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 6.それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 7.あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

イエス・キリストの恵みによって、試練と死さえも、神様の国に入る扉なのです。今日の聖書の学びを星野富弘さんの言葉で終えたいと思います。

「いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった

いのちより
大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった」

聖書を開きましょう「二つの国の市民、旅人の歌 その1」 、パイヴィ先生

1 導入 

これからの秋の聖書の学びで、スオミ・キリスト教会の今年のテーマを一緒に勉強しましょう。週報にもホームページにも載せたテーマをもう覚えてくださった方がおられるでしょうか?テーマは詩編121編1節と2節に書いてあります。そのテーマの御言葉を3つに分けて、学んでいきたいと思います。今日は、初めに、大一節に注目して、人の目的地について考えましょう。次に、人生の歩みに必要な助けを求める事について、そして最後に助けて下さる主について学んでいきましょう。では、まず、聖書を開いて、テーマの元になっている

1.詩編121編を1節から終わりまで読みましょう。(旧約聖書 p.968)

イスラエル【都に上る歌。】

1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

都に上る歌。詩編の始まりに書いてある通りに、詩編121編は都に上る旅の歌です。このような旅人の歌は旧約聖書の詩編、つまり讃美歌、の中で120編から始まり、134編まで続きます。それはエルサレムに向かっている人たちの安全な旅を表しています。エルサレムは神殿がある聖なる都です。昔のユダ人は、どんな時にエルサレムの神殿に行ったでしょうか?巡礼者は大きなお祭りの度にエルサレムへ上って行きました。イエスも子供のころ両親と一緒に神殿に行ったことを覚えておられるでしょう。

2.ルカによる福音書 2章 42節 (新約聖書 p.104)

イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

またイエスは人々によく知られるようになってからも、例えば、仮庵祭のときエルサレムを訪れました。

3.ヨハネによる福音書 7章 2節と10節 (新約聖書 p.177)

ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた...しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

仮庵祭の他に、ユダヤ人にはどんな祭りがあるでしょうか?

例えば、過越祭、除酵祭、また七週祭と贖罪日という祭りがあります。そのようなとき、昔のユダヤ人は罪を赦してもらうために神殿で祈ったり犠牲をささげたりするために都に上りました。

(ユダヤ人の祭りについて参考に読んで下さい。
 仮庵祭
1 過越祭と除酵祭2   七週祭3   贖罪日4

 

では、聖書はさきほどお話した巡礼者の旅についてどのように教えているでしょうか?

4.詩編 84編 5〜6節から、調べましょう。(旧約聖書 p.921)

5 いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら 6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。8 彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

6節に目に注目しましょう。そして、それを英語とフィンランド語と比べましょう。

Blessed are those whose strength is in you, whose hearts are set on pilgrimage.

Onnellisia ne, jotka saavat voimansa sinusta, ne, jotka kaipaavat pyhälle matkalle. (Ps.84:5)

日本語に訳すと、どちらもの意味も「あなたによって勇気を得る者は幸いです。聖なる旅(巡礼)を待ち望む者はいかに幸いでしょう。」つまり、聖書は神様の神殿に行こうとする人を幸いな者としてほめているでしょう。どうしてでしょうか?答えは7節と8節に書いてあります。では、詩編の121編で歌われている旅はクリスチャンにとってどんな意味でしょうか?

 

2 人生の目的(旅人の目的地)

5.詩編121編1節の最初の文をもう一度読んでみましょう。(旧約聖書 p.968)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

この一節は、「目を上げて」という言葉で始まります。エルサレムはその周辺と比べると

少し高いところですので、そちらに行くとき上って行かなければなりません。それが分かると、私たちは 旅に出た人のことが想像できるでしょう。旅に出た人は遠くにある都がまだ見えなかったのです。けれども、目的地を目指して目を上げていたでしょう。私たち

もそれと同じように、神様が約束された希望ととこしえの幸いに目を注ぐのです。

6.コリントの信徒への手紙二 4章 18節 (新約聖書 p.330)

わたしたちは見えるものではな、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

私たちは毎日の忙しさの中で、目指している目的地を忘れ易いものです。では、どうして永遠の目的地はそれほど大切ですか?その理由の一つは、フィンランドのある子ども讃美歌にもこのように書かれています。「ぼくは神の苗床の苗。天国のために作られた」。人は神の国のために造られたものです。また、次の箇所に人生の優先順位について書いてあります。

7.マタイによる福音書 6章 33節 (新約聖書 p.11)を開きましょう。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる

人生は大事な贈り物ですので、それを上手に使うことは重要なことです。けれども、何を一番大切にするかは、今読んだ通りです。生活で神の国を重んじるならば、人はそれ以上のことを心配しなくていいのです。約束通り、神様は自分の子どもたちに必要なものを備えて下さいますから。

要約すると、人生には意味があり、目的もあるということです。永遠もありますから、死は私たちの終わりではありません。そして、私たちは二本の道のどちらかを選びます。

8.マタイによる福音書 7章 13〜14節 (新約聖書 p.12)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

あなたはどちらの道を歩んでいますか?何を目指して人生を過ごしていますか?永遠をどこで過ごしたいですか?正しい道を選んで、天国を目指して生きていきましょう。

 

3 シオンの山 〜 神の国

詩編121編に戻りましょう。1節によるの、目を上げて、旅に出た人は何を見ましたか?「わたしは山々を仰ぐ。」旅人には周りと前の方にある山しか見えなかったのでしょう。では、あなたにとって山はどういう意味がありますか?富士山をどう思いますか?それをどのように感じますか?富士山はきれいな形のとてもいいイメージのものであるし、神聖な山としてもとらえているのでしょうか。日本の山々に比べるとイスラエルの山は違います。一つの違いは山の高さです。一番高い山でも1200メートルぐらいしかありません。聖書では、イスラエルの山に対してどんな意味があるのでしょうか?例えば、

9. ミカ書4章2節を読みましょう。(旧約聖書 p.1452)

多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

この箇所に書いてある主の山は何ですか?その山の他の名前は「シオンの山」です。シオンとはどんな意味かご存じですか?最初に、旧約聖書の王ソロモンはエルサレムに始めての神殿を建てたとき、それをシオンの山に建てました。さて、聖書はシオンという名前をある時はエルサレムの神殿の周辺という意味で、またある時エルサレムの都について使いますが、シオンはイスラエルの国全体という意味もあります。更に、シオンとシオンの山に関しては、聖書はこうも語っています。シオンは祝福ととこしえの命の場所という意味で5、シオンの山は主の名が置かれた場所という意味です6。そして、主が住まわれる場所です7。しかし、天国にあるシオンの山もあります。クリスチャンはそこに向かって地上の生活をしています。

旧約聖書はイスラエル人がエジプトから出て行ったときの旅について語ります。そのとき、神様がシオンの山で現れて、人々は恐れて身震いしました。

10.ヘブライ人への手紙 12章 18〜21節 (新約聖書 p.418)

18〜19 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。

けれども、次の節は、罪を赦していただいて、天国に到着した人のことについて述べています。その時は、シオンの山を近づいてももう恐れる事も身震い事もありません。天使たちと一緒にお祝いすることだけです。

11.ヘブライ人への手紙 12章 を続けましょう。22節(新約聖書 p.418)

しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、

 

4 最後に 〜 二つの国の市民

クリスチャンには二つの国、国籍があります。生まれた国の国籍と洗礼を通して頂いた神の国の国籍です。クリスチャンは二つの国の市民です。今この地上に住んでいるところですが、天国を目指しています。目的先を知っているので、苦難の日にも希望を持って生きています。クリスチャンにとって、一番良いときはこの世においてはまだ実験しません。けれども、約束された神の国の幸せはかならずやって来ます。イエスによって一人ひとりのために天国の住まいが用意されているのです。あなたも私もイエスを信じていつの日かそこに入りましょう。

フィンランドにこんな諺があります。クリスチャンの足は地を踏みますが、心は天国に上ります!今日の聖書の学びを

12.ルカによる福音書 12章 34節で終えましょう。(新約聖書 p.132)

あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 


 

1 ヨハネによる福音書/ 72節 (新約聖書 p.177)ときにユダヤ人の仮庵祭が近づいていた...しかし兄弟たちが祭りに上って行ったときイエス御自身も人目を避け隠れるよにして上って行かれた

2 マルコによる福音書/ 141節 (新約聖書 p.90)さて過越祭と除酵祭の二日前になった祭司長たちや律法学者たちはなんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そと考えていた

3出エジプト記/ 3422旧約聖書 p.152あなたは小麦の収穫の初穂の時に七週祭を祝いなさい年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい

レビ記/ 259旧約聖書 p.202その年の第七の月の十日の贖罪日に雄羊の角笛を鳴り響かせる

4出エジプト記/ 3422旧約聖書 p.152あなたは小麦の収穫の初穂の時に七週祭を祝いなさい年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい

レビ記/ 259旧約聖書 p.202その年の第七の月の十日の贖罪日に雄羊の角笛を鳴り響かせる

 5 詩編/ 1333節 (旧約聖書 p.975)

ヘルモンにおく露のよに/シオンの山々に滴り落ちるシオン主は布告(ふこく)された/祝福ととこしえの命を

6イザヤ書/ 187節 (旧約聖書 p.1088)

そのとき貢ぎ物が万軍の主にもたらされる背高く肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍の主の名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる

7 イザヤ書 8章 18節 (旧約聖書 p.1073)

見よわたしと主がわたしにゆだねられた子らはシオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である

この箇所によると、 シオンの山は主の住まわれる場所です。

 

  • 来週の礼拝:2019年9月15日  聖霊降臨後第14主日 2019年9月18日
      聖書  コヘレト  8章10─17節(旧1043頁)        第一テモテ 2章 1─ 7節(新 385頁)        ルカ   16章 1─ 13節(新 140頁)     讃美歌  116、117,164、118     担当   司式   吉村博明 宣教師       説教   吉村博明 宣教師       奏楽   堀越教子 姉       当番   小林信一 兄...
  • 説教「心の耳を澄ましてごらん。天上の歓声が聞こえてくるから。」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書15章1-10節 2019年9月15日
    私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様 1.はじめに 本日の福音書の個所は、イエス様の二つのたとえの教え、「見失った一匹の子羊」と「無くした一枚の銀貨」の話です。子羊のたとえでは、100匹の羊のうち1匹がはぐれてしまって、持ち主が探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達...
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  • 9月 24日 11:00 am
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