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説教集 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教集

説教「イエス様は道しるべの光」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカ2章25-40節

主日礼拝説教 2018年12月30日降誕後主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様誕生後の謎に迫る

本日の福音書の箇所は、皆さんもよくご存知のシメオンのキリスト賛美があるところです。皆さんがよくご存知というのは、この賛美は礼拝の中のヌンク・ディミティスと呼ばれるところで一緒に唱えられるからです。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも賛美しているところです。「ヌンク・ディミティス」というのは、この賛美の中にある言葉「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。

このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えたものです。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。

本日の福音書の個所の少し前にあるルカ2章21節をみると、イエス様が誕生後8日目にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。続いて22節から24節までをみると、律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間を守らなければならず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4ー8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのは、この規定を守るためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様はヨセフとマリアともにヘロデ大王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。そこで、清めの期間の約3か月間は神殿には行けないことになっているので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

ところが、それでも時間的にうまくつじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後で、王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年ないし5年になる。しかしながら、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年としては紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、異常な星の輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そこで、紀元前6、7年をイエス様の誕生年とすると、三人のエジプト滞在は2ー3年に及んでしまいます。シメオンが腕に抱きあげたイエス様は赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。

マタイ2章によると、親子三人はヘロデ王の死後、エジプトから戻るけれどもユダヤ地方の領主アルケラオを恐れてナザレのあるガリラヤ地方に向かったとあります(21ー23節)。そういうわけで、イエス様の誕生は紀元前7年から4年の間のいつか、エジプトから帰る途中でエルサレムの神殿で清めの儀式を済ませてナザレに戻ったとみるのが妥当なのではないかと思われます。

 こういうふうに、イエス様誕生後の出来事には謎の部分があり、ジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。しかし、これはやむを得ないことです。というのは、大人の時のイエス様の言行録は、使徒たちが目撃者になって証言し、それが記録され伝えられていきました。それに比べると、大人になる前の出来事は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲の者たちに語ったことと、もっと長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それで、細部に不明な点が出てくるのは止むを得ないのです。しかし、大きく全体的に見れば、書かれた出来事が互いに矛盾してどれかが無効になるような、そんなひどい矛盾はないと思います。

 

2.シメオンのキリスト賛美 - 自己民族の観点?普遍的な観点?

 イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て、清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が、神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人もユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人を「照らす啓示の光」とはわかりそうでわかりにくい言葉ではないかと思います。ギリシャ語の言葉の意味を考えながら素直に訳すと、異邦人にとってイエス様は神の意志を明らかにする光になる、ということです。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に送られて以後はユダヤ民族以外にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光です」と賛美したのです。

本日の説教では、このシメオンのキリスト賛美の解き明かしをしていきますが、最初に全体的なことを述べて、最後にイエス様が私たちの光であると言う時、それはどんな光なのかを見て行こうと思います。

 シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありませんでした。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」ような者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に把握していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から明らかにされてしまい、それで彼に躓いてしまいます。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」ようになります。

しかしながら、イエス様はただ単に反対され、躓きになっただけではありません。多くの人たちを立ち上がらせることにもなりました。イエス様の十字架の死は、ただ単に反対者から迫害を受けてそうなってしまったということではありませんでした。神の計画がそういう形をとって実現したということだったのです。それでは、神の計画とは何かというと、それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子のイエス様に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架というのは迫害されて殺されて終わってしまったということではなく、人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がイエス様を犠牲の生け贄にしたというのが真相だったのです。

このようにして神はひとり子を犠牲にして人間の罪の償いをして下さったのですが、それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を蘇らせて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦され、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになったのです。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も多く出たのです。

そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れずに反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると話し始めたのです。

ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、イスラエルの民が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的にも起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後も、イスラエルの民の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時代のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解は、バビロンからの帰還が実現して500年以上たった時代でも、例えばシメオンがイザヤ書で預言された「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたこと、そして「エルサレムの救い」を待っている人たちがいたことに示されています。

 そこで、ユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。さらに32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

日本語訳の「それにもまして」ですが、原語のヘブライ語を見ると(נקל)、ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという意味です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることに注意しなければなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。

 

3.イエス様は道しるべの光

 次に、イエス様が私たちの光になるというのはどういうことかについてみていきます。イエス様が光になって私たちを照らすと聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくのではないかと思います。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるということを正しく理解できるために忘れてはいけないことがあります。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」でした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。

自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば不倫、妬み、憎しみ、他人の見下しや嘲り、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、分け隔てのない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに束縛されないように神に助けを求めないこと等々、こうしたものが聖書の御言葉を読む時、聞く時に思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは神が直接働きかけたからです。それは、本当は名誉なことです。

しかしながら、誰も、そのような自分で見たくも気づきたくもないことを明るみに出されるのは嫌でしょう。余計な光だ、と思って、反感を抱くでしょう。また人によっては反感ではなくて、自分が嫌になってしまい深い悲しみに陥ってしまうでしょう。 

しかし、イエス様の光は本当は人間を絶望や無力感に追い込むためにあるのではありません。光は一旦真実を明らかにしたら、今度はすかさず絶望や無力感の暗闇から脱する道を示す道しるべになるのです。ヨハネ8章12節でイエス様自身言われているとおりです。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)このようにイエス様という光は真実を明らかにするという機能と道しるべになるという機能の二つの機能を兼ね備えた光です。片方が抜けたらもうイエス様の光ではありません。

イエス様の光が絶望や無力感の暗闇から脱する道を示す道しるべであると言う時、その光を目指して行って、本当に暗闇から脱せられるのか?それが本当にそうなのだとわかるために、その光がどんな光なのかをわかるようにしましょう。本日の使徒書の日課ヘブライ2章の御言葉が鍵になると思います。(少し解説的に訳します。)

「イエス様を救い主と信じて神の子となっても人間は血と肉を纏っています。人間としてこの世に送られたイエス様も同じように血と肉を持ちました。それは、血と肉を持つ状態で十字架の死を遂げてみせたことで、人間に死の力をふるっていた悪魔を抱き合わせで叩き潰すためでした。そうすることで、死の恐怖のために一生涯、罪の奴隷状態にあった者たちを解放するためでした。イエス様が寄り添うと決めたのは天使たちではなく、アブラハムの子孫でした。それでイエス様は全ての点で彼らと同じようにならなければならなかったのです。そうすることで、民の罪を神に対して償うことが出来る憐れみ深い、裏切らない大祭司となったのです。イエス様自身苦しみを受け試練に遭われたので、試練に遭う人たちを助けることが出来るのです。」(14-18節)

イエス様は、人間の罪を神に対して償うために自ら十字架の死を遂げられました。それは、これ以上の償いはないという償いでした。それゆえ、人間を永久に罪に繋ぎ留めたがっていた悪魔は立場を失い、イエス様を救い主と信じる者はイエス様と共にあるので悪魔を超える者となったのです。加えてイエス様は、私たち人間と同じ肉を纏って試練を受けて苦しまれました。天の御国で霊的なだけの方でしたらそんな苦しみはなかったでしょう。しかし、私たちと同じになることで、人間の痛みと苦しみを本当に心と体でわかる神となられました。私たちが安心して信頼して助けを呼び求める方はもう彼をおいて他にはないのです。

さあ、どうでしょうか?これで、暗闇の中にいる私たちはイエス様のことだけを考えれよいのだ、彼こそが助けを呼び求める方なのだ、とわかれば、イエス様は私たちが目指す光になっています。今まさに、ヘブライ2章の御言葉を通して聖霊が働いたことになります。キリスト教の教派によっては、聖霊にもっと別の働きや機能を持たせるところもあります。私たちのルター派では、聖霊はイエス様が真実と道しるべの光であることを御言葉を通して啓示する働きをします。なんとも地味な教派であります。

兄弟姉妹の皆さん、この世ではイエス様が道しるべの光であることを気づかせないようにする力も働いていることに注意しましょう。端的に言って、それは悪魔の仕業です。悪魔はイエス様の十字架と復活の出来事の後は力を失ったにもかかわらず、隙をとらえては人間を絶望させ無力感に陥れようとします。ひどい場合は、神の意志に反する生き方をすることで絶望と無力感から逃れられるなどと欺きます。だまされてはいけません。イエス様の光は、人間の真実を明らかにするが同時に大いなる道しるべの光であることも忘れないようにしましょう。その光を全身全霊で目指すことこそ、真実が明るみに出された時の痛みの癒しになります。そもそもその痛みというものも道しるべの光に向かわせるためにあるのです。そのことを忘れないようにしましょう。 

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

クリスマス・イブ礼拝 説教「『クリスマス福音』の真実」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2013年12月24日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。これからこの説教の中で、この、イエス様の誕生について記してあるルカ福音書2章の個所を「クリスマス福音」と呼ぶことにします。

ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族だったら、クリスマス・イブの晩はクリスマスの御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、「クリスマス福音」が朗読されるのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家もそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかを明らかにすると思います。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いであり、そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神の子であり、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にはお祝いするわけを思い返すために聖書を読み聞かせます。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。また、神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何か贈り物をする。さらに、神がひとり子を贈って下さったのは、人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからなので、それで私たちもハガキを出して「良いクリスマスと新年を迎えて下さいね」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。

最近というよりはずっと前からですが、クリスマスのお祝いの栄誉を称えることがどんどん脇に追いやられて、お楽しみの方が肥大化する傾向があるのはどこでも見られる現象です。そちらの方がお祝いの目的になっている人の方が多いでしょう。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も打ち消すことは出来ないのです。

 

2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が彼らの前に現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて神を一斉に賛美し、その声が空に響き渡る。賛美の言葉は詩のように簡潔ですが、大体の意味はこうです。「天上では神は永遠の栄光に満ちておられる。地上でも神の御心に適う人たちの心に平和が訪れる。」賛美し終えると天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけるためにベツレヘムに向かう。そして、一つの馬屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

以上の話を聞いた人は、闇を光に変えた神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフ、ああ、なんとロマンチックな話だろうと思うでしょう。本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

 

3.ところが、この「クリスマス福音」をよく注意して読むと、そんな淡い思いを押しつぶしてしまうようなことがあるのに気づきます。その当時の政治状況がこの出来事に重くのしかかっているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が上から下に対して牛耳っていて、普通の人はなかなかそれに影響を及ぼせない、民主主義が普及しても難しいことだらけなのだから、ましては民主主義のない昔だったら影響を及ぼせる可能性など全くない、そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

そのことに気づくために、なぜヨセフとマリアは自分たちが住んでいるナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのか?と聞いてみるとよいでしょう。答えは聖書の個所から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に出身地で登録せよ、と勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはと言うと、かつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘムの出なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。

やっとベツレヘムに到着した二人を待っていたのは不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た他の旅行者も大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬屋なら空いているよ、屋根があるから夜空の星の下よりはましだろう、と。それでイエス様は馬屋でお生まれになったのです。赤ちゃんは布に包まれて、藁を敷いた飼い葉桶に寝かせられました。

子供向けの絵本の聖書などを見ると、この場面の挿絵は大抵、健やかに眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で三人を見つめているというものです。羊飼いたちも馬屋の近くに来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。なんとロマンチックな出来事なのでしょう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬屋とか家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。最初の頃は興味本位で、その後は子供が行ったきり出てこないので連れ戻すために仕方なく。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用を足すことをしないので、全ては足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。しかし、天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして人間の救い主になる方はこういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

イエス様の誕生の出来事はロマンチックなおとぎ話ではないのです。マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったのです。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を左右するということの一つの表われだったのです。

 

4.しかしながら、聖書をよく読む人はもっと広い、もっと深い視点を持っています。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にはそれらの者に影響力を行使する方がおられる、その方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っている、という視点です。その究極の影響力の行使者は、これはまさに天地創造の神、天の父なる神です。既に神は旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て起こる、と約束していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、これらの約束を実現する条件が整ったと見なしてひとり子を送られたのでしょう。あるいは、その当時存在していたいろんな要素を組み合わせて約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。どちらにしても、この世の影響力を行使する者たちが自分たちこそはこの世の主人で人々の人生や運命を牛耳っていると得意がっている時に、実は彼らの上におられる神が彼らを牛耳っているのです。

人間の目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力の行使者に引きずり回されたにしか見えないでしょう。しかしながら、彼らは引きずり回されたのではなく神の計画の中で動いていたのです。神の計画の中で動いたというのは、神の守りと導きを確実に受けていたということです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めな状況というのは実は神の祝福を受けたものだったのです。そのようにして二人には神がついておられ、まさに神と共にある者として、影響力を行使する者たちの上に立つ立場にあったのです。

私たちもマリアとヨセフと同じように神がついて神と共にある者になることが出来ます。それは、マリアを通して人としてお生まれになったイエス様を救い主と信じることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、十字架の死を引き受けることで人間の罪を全て神に対して償って下さったからです。さらに死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人は神の愛する子となり、神の守りと導きを受けることになります。神と共にある者になるので、影響力を行使する者たちの上に立つ立場になります。このことは、ローマの皇帝のような目に見える具体的な者だけではありません。使徒パウロも教えたように、影響力の行使者には目には見えない霊的なものも含まれます。それらは、人間が罪の償いがなされていない状態にとどまることを望み、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者は、彼がして下さった罪の償いを受け取っているので、見えない影響力の行使者はもう何もなしえません。

そのように神の愛する子となり神と共にある人は、目に見える影響力の行使者と目に見えない行使者の双方の上に立つ者となります。その時、人間的な目では惨めな状態にあっても心が騒ぐこともおびえることもありません。それこそ人間の理解を超えた平和に満たされます。その時、私たちは世界で一番最初のクリスマスの時に神を賛美した天使たちの言った通りになるのです。

「天上では神は永遠の栄光に満ちておられる。地上でも神の御心に適う人たちの心に平和が訪れる。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

説教「神がそうなると言われたことは必ずそうなる」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章26ー38節

主日礼拝説教 2018年12月16日待降節第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.今年の待降節ももう第三主日を迎えました。待降節の期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝して、降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節は、ややもすると、過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。待降節には未来に結びつく意味があるというのは、イエス様が御自分で約束されたように再び降臨する、つまり再臨するということがあるからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は本当は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心も活性化させるよい期間なのです。待降節やクリスマスを過ごして「今年もこれで終わった、めでたし、めでたし

ですますのではなく、主の最初の降臨からまた1年遠ざかったということは、逆に言うと再臨にまた1年近づいたのだと思い起こして、毎年過ごすたびに身も心も主の再臨に備えるようにしていくのです。イエス様が再臨する日とは、同時にこの世の終わりの日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる日、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。ただ、その日がいつであるかは、父なるみ神以外は誰も知ることができない、とイエス様は教えました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とも教えました。主の再臨を待ち望む心をしっかり持って身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということです。

 それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのか?「待ち望む」などと言うと、なんだか座して待っているだけのような受け身のイメージがわきますが、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものであるとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものも、実は、取り組むために神が与えたものという認識があります。神由来ならばこそ、世話したり守るべきものがあれば忠実に誠実に世話し守り、改善が必要なものがあれば改善し、また解決が必要な問題はしっかり解決にあたる。それがキリスト信仰者というものです。そうした世話、改善、解決をする際に、いつも判断の基準にあるのが、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかということ。加えて、隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているか、ということです。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら心の中では主の再臨を待ち望むのです。ただ座して待っているだけのおめでたい存在ではありません。

さて、主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておくべき大事なことが二つあります。一つは、先週の福音書の箇所で洗礼者ヨハネが人々に父なるみ神に立ち返れと教えていたことに関係します。その箇所が私たちに教えているのは、キリスト信仰者といえども、自分には神への不従順と罪が宿っているという事実から目を背けずに、たえず神のもとに立ち返る生き方をしなさい、ということでした。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。

もう一つ大事なことは、本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となる、と告げていることに関係します。この箇所が教えていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じ受け入れなさい、ということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていてまともに受け入れられないものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさい、ということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置きやるというのは抵抗があるものです。ましてや、そうすることでいらぬ困難や試練を招いてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに自分の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理を本日の福音書の箇所をもとにみていきましょう。

 

2.神から遣わされた天使ガブリエルがマリアのもとにやってきて、神が計画していることを告げます。ガブリエルという名の天使は旧約聖書のダニエル書にも登場し(8章と9章)、神に敵対する者が跋扈する時代が来る、でもそれはやがて終焉を迎える、ということをダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまた、マリアのもとに来る6か月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。 

ガブリエルがマリアに告げたことは、マリアがまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊の働きで男の子を身ごもる、ということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続く、ということも告げました。そして、その子の名前は、「主が救って下さる」ということを意味する「イエス」と名づけよ、と命じました。

ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くという思想は、本日の旧約の日課サムエル記下7章のところで、預言者ナタンがダビデ王に伝えた神の言葉の中に見られます。歴史的には、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいます。捕囚が終わってイスラエルの民がユダの地に帰還した後は、もうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書に永遠に続くダビデの王国という神の約束があるので、ユダヤ人の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。

しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建国される国家ではなく、天の御国のことだったのです。今の世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、唯一揺るぎないものとして立ち現われる神の国のことだったのです(ヘブライ12章26ー28節)。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことです。そこで王として君臨するのは、あの、死から復活した後に天に上げられて、今父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。イエス様は、人間としてみてどこの家系に属するかをみれば、ダビデの子孫であるヨセフを育ての父親として持ちましたので、ダビデの家系に属する者です。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。天使ガブリエルの預言はよく見ると一方で、マリアから生まれる子供は「神の子」であるということがあります。他方で、ダビデに約束された永遠の王座はダビデの末裔に与えられるということがあります。この二つは見事に合致して預言の成就をみることが出来たのです。

マリアが処女のまま妊娠するということがどのようにして起きたのか、それは私たちの理解と想像を超えることです。天使ガブリエルは、聖霊がマリアの上に降り、神の力が彼女を覆う、と言いますが(35節)、それだけでは身ごもるに至った生物学的な過程は全くわかりません。マタイ1章20節で天使はヨセフに、マリアの中で受胎したものは聖霊に由来する、とだけ述べます。このように聖書の記述には、処女受胎の科学的説明に資する手がかりは何もないので、それがどのようにして起きたかは知ることも理解することもできません。しかし、聖書の観点というのは、「どのようにして起きたか」ではなくて、「なぜ起きたか」ということについて焦点をあてるものです。「なぜ起きたか」は聖書をもとにして理解することができます。聖書の中に記されている神の人間救済計画がカギになります。

創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通り(ローマ6章23節)、人間は罪と不従順がもたらす死に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。

人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には自分に宿る罪を除去することは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしました。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪と死の力から解放する身代金となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18ー19節)。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命が存在することを示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。人間は、神がひとり子を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け入れることで、この救いに与ることができます。つまり、救われるのです。「罪の赦しの救い」を受け入れることとは、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして人間は、この世の人生の段階で、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きられるようになり、この世を去った後は自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになります。

それでは、罪の赦しの救いを実現するために、なぜ、聖霊による受胎が必要だったのか?なぜ、神と同質である神のひとり子がこのようにしてまで人間として生まれてこなければならなかったのか?それは、罪の赦しの救いを実現するためには、誰かが犠牲になって罪の償いをしなければならなかったからです。それを神自らが引き受けたのでした。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。人間の罪の罰を全て受ける以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。「フィリピの信徒への手紙」2章6ー8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子をも惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして、私たちが信仰を持って生きられるよう日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。

 

3.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初はそれを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)がそれです。ただ、新共同訳のこの訳文は少々味気ない訳です。ギリシャ語原文の趣旨を活かした訳は本説教題に掲げたように、「神がそうなると言われたことは(ρημα)、必ずそうなる」ということです。(もちろん、「神にとって不可能なことは何もない」と訳すことも可能ですが、すぐ後の1章45節との関係をみれば、説教題の訳が良いでしょう。)それに対するマリアの答えは、(これはなかなか良い訳でして)「わたしは主のはしためです。お言葉(ρημα)通り、この身に成りますように」でした(37節)。これは、神の意思を受け入れるということです。この受け入れは、天地創造の神の子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることを決めました。神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは、最高な栄誉である反面、人間の目からすれば、最悪な恥となることもあるという一例になったのです。イエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレの町に戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に、「この子は神の子です、天使がそう告げたんです」と弁明したところで、人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも、何も言わずにいた方が賢明、ということになったのではないでしょうか。いずれにしても、社会的に大変微妙な、辛い立場に置かれたわけです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的におめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神は共におられるのです。神がそうなると言われたことは、必ずそうなる、と信じて、それに従う時、人間的には辛い状況が生じても、実は、そういう状況そのものが、神が共におられることを示しているのです。マリアは、それを受け入れました。この受け入れは、順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいる、という生き方をすることを意味しました。「たとえ神様が一緒にいて下さっても逆境になるのは嫌

とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」などという生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても、神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。

本説教の初めにキリスト信仰者というのは、世話したり守るべきものがあれば忠実に誠実にそうする、改善が必要なものは改善し、解決が必要な問題はしっかり解決にあたる者である、これら全てのことをする際の判断基準として、神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかという唯一神への愛、そして隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかという隣人愛の二つの基準がある、と申し上げました。こういうキリスト信仰者の生き方は、ある場合には、利他的な隣人愛のゆえに評価されたり賞賛されたりするでしょう。しかし、いつもほめられっぱなしではないと思います。隣人愛の基礎にある、唯一神への愛のために、偏狭なやつだと言われたり、忌み嫌われたり、ひどい場合は憎悪の対象になることもあるでしょう。キリスト信仰者の信仰人生とは実は、この相反する反応にたえず遭遇するものではないかと思います。もちろん、これらは人間が示す反応なので、いちいち振り回される必要は全くありません。それでも、もし、耳に入ってくるのが評価や賞賛など聞き心地のよいものだけになってしまったら、その時は、唯一神への愛は大丈夫かどうか、立ち止まって考えてみるべきと思います。

最後に、神が常に共におられるという生き方をする者がそのために困難や試練に直面した時、試練をまさに神由来のものとしてしっかり受け止めることが大事だとルターが教えています。その教えを引用して本説教の締めにしたいと思います。

「信仰は、試練や困難を全て軽微なものに、はては甘美なものにさえする。そのことは殉教者の生き方に見られる。信仰がなければ、たとえ全世界の安楽を手中に収めたところで、全ては重荷になり、苦々しい気持ちを掻き立てるだけになる。そのことは、無数の金持ちたちの惨めな人生が示している。

こんなことを言う者がいる。『今の自分の困難な状況は自分の愚かさや悪魔のせいで陥ったのではなくて、神がそのようになさったからだ、と納得させてくれる者がいればいいのだが。納得出来れば、この状況を受け入れてやってもいいのだが。』その者に対して我々はこう答える。『なんという愚かな考えだ。信仰の欠如以外の何ものでもない。キリスト自身がおっしゃったではないか、父なるみ神の意思が働かなければ鳥さえも空から落ちることはない、私たちの髪の毛も一本残らず数えられている、と。』

 もし君が、罪と何の関係もなくて困難な状況に陥ったとしよう。もちろん、同じ困難な状況は罪や愚かさが原因で起こる場合もあるが、ここでは、罪とは無関係にそういう状況に陥ったとしよう。そのような状況に陥るというのは実は、神の御心に適うことなのである。神にとって、罪以外のものならばなんでも御心に適うのである。君が何か困難な問題に取り組んでいるとしよう。その問題が罪と無関係ならば、君が取り組むことになったのは、神がそれをお許しになったからである。君はあとは、正しく考え正しく行動することに注意して、その問題に取り組みなさい。取り組む際にどうしても気が進まなかったり、なぜ自分がこんなことを、などと思う時、そう思うこと自体がまさに神の御心に適うことに取り組んでいることの表れなのである。まさにその時、神は、君の信仰が揺らぐかどうか、信仰にしっかり踏みとどまるかどうか、それを見るために、悪魔が君を試すのを許可しているのである。神は、君が信仰にとどまって戦い、成長する機会を与えて下さっているのである。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教:木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書3章1~6節

待降節第2主日(紫)   2018年12月9日(日)

ルカ福音書 3章1~6節

今日は、クリスマスを迎える待降節の礼拝です。

聖書はルカ福音書3章1~3節です。

まず、2節の後半を見ますと「神の言葉が荒野でザカリヤの子、ヨハネに降った。」とあります。

  この祭司ザカリヤと、その子ヨハネの誕生については、ルカは、1章5節から-25節までと、そして57節からー80節にえんえんと、長く、ていねいに、福音書のはじめから、しっかりとしるしているのです。これだけ長く、ていねいに書いていることは、それだけの深い意味を込めているから書いていることでしょう。しかし福音書の主役は、あくまで、救い主である、神の御子の誕生と、その御業の活動にあります。

  

  神の御子が、この世に人の姿をもって生まれ、この世の十字架の死をもって終えられるまで壮大な神の御業を助け、その歩みを整えるために、この祭司ザカリヤの息子、ヨハネはこの世に誕生した。神様は彼を用いていかれたのであります。

  このため、荒野にいたヨハネに神の言葉が臨んだのです。

  マタイ福音書には3章4節で次のように書いています。

  「ヨハネはらくだの毛皮を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物としていた。

  荒野というところがすべて象徴しています。荒野には草も木も生えていない、ごつごつとした石と岩ばかりの不毛の地です。

 

  きれいな花も咲かない、枝にたわわに実る実もない、第一、大地をうるおす水が全くない所です。

 

  現代に生きる私たちは、食べ物もある、住まいや衣服も手に入れられる、物質の面では、満たされているかも知れません。しかし、心の面ではどうでしょうか。

  人と人との関係が必ずしもうまくゆかない。疑いと憎しみ、失望と不安な世の中、まさに荒野のような人間どうしの、どうしようもない状況の只中に、神の言葉は臨んだのであります。

 

  ルカが3章1節で長々と、しかし、しっかりと歴史の事実をしるしています。ユダヤの民、イスラエル全土の神の民は、時のローマ皇帝の厳しい支配の下で、荒野のような、どうしようもない苦難の中にある只中の時代に、神の言葉は臨んだのであります。

  「祭司の子、ヨハネよ、立て!救い主 神の子は人の世に来られた。主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は、みな低くされる。曲がった道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」と。預言者イザヤが叫んだように、ヨハネは、救い主に先立って、

神様からの大役をおおせつかって、立て!主からの役目を受けて、その御業をなしていけ、と、言われている。

 

   3節です。「そこで、ヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

 

  そうして、7節です。そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。

  「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」

  8節。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

  この後きびしい言葉が続いています。

 

  ヨルダン川で洗礼を授けた、バプテスマのヨハネが、神からの使命を受けて叫んだのは、「悔い改め。」でありました。

  マルコによる福音書は、クリスマスの出来事には一切ふれていません。

  いきなり、「神の子、イエス・キリストの福音の初め。」とあって、この福音書の目的をしるします。

  そして、預言者イザヤの言葉をもってきて、洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

  更に1章14節ー15節を見ます。イエスはガリラヤで神の福音を宣べ伝えて言いました。

  「時は満ち、神の道は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と叫んだのです。

  このヨハネも、イエスも、「悔い改めよ」と叫んでいる。

  悔い改める、と言うことは、どういうことでしょうか。

  この当時、ヨハネのもとに洗礼を授けてもらおうとしてやってきた群衆に対して、「自分たちの父はアブラハムだ」等という考えをすてよ。

 つまり、律法を守ること、「アブラハムこそが信仰の父」と思っている、そのようなことで お前たちの罪は赦されると思ってもみるな、と言うことです。

  罪の中にある人間が、どんなに努力しても自分の罪を自分で消すことはできないのです。

  自分以外の外から新しく変えられなければ、どうすることもできない。

  「悔い改め」とは、恵みに頼りたのむことです。

  いっさいのものを主に献げて、主にゆだねてしまうことであります。

  悔い改めは、自分中心ではなくて、神様を、いつも中心にしていく生涯です。神様が真ん中に立たれるならば、私たちは新しく変えられるのです。

  預言者エゼキエルはイスラエルの民に向かって、主の言葉を伝えました。

  旧約聖書 エゼキエル書 36章26節です。

  「わたしは、新しい心を、あなた方に与える。新しい霊をあなたの内に授ける。あなた方の肉から、石の心を除いて、肉の心を与えます。」

  ここには、主なる神様が、人間の石のような、かたくなな心を取り除いて、新しい霊の、肉の心を

授けて下さる。」というのであります。

  実に悔い改めなければならないのは、石の心、冷たい心、がん固な重い心を除いてしまうことです。

  さて、そこで、わたし達がクリスマスを迎えるにあたって、パプテスマのヨハネが荒野で叫んだ

「悔い改めよ」という言葉を、どう受けとめて、外からの神の恵みによって、新しい霊を与えて下さる

ように祈っていかねばならないということです。

 

  この夏から私はずーっと、詩篇の言葉にゆり動かされています。その詩篇は103篇です。22節までありますが、とてもすばらしい1-5節を見てみたいのです。

  詩篇103篇1~5節「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなる すべてのものよ、その聖なる御名を ほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを、心にとめよ。主は あなたの すべての不義をゆるし、あなたの すべての病をいやし、あなたのいのちを 墓から あがない いだし、いつくしみと、あわれみとを あなたに こうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもって、あなたを飽き足らせられる。こうして あなたは若返って、わしのように、新たになる。」

 

  この詩篇103篇の全面に、作者の信仰があふれています。「悔い改める」ということが どういうことかを その真髄をうたい上げているように思います。

  この詩篇の作者は、自分で、自分の魂に向かって、呼びかけているんです。

  わがたましいよ、主をほめよ。と、自分の一切を、神に向けている、信仰という出来事です。どこまでも、どこまでも、わたしと神様とに徹していく時、神様からのいつくしみと あわれみが 満ちあふれる、と 歌っているんです。

 

  人間は、神様をほめたたえるように、そういう場所に、初めから置かれたものなのです。

 

  神様が 世界をつくり、その中に、人間をおかれました。神様は、創造のみわざが全部完了した時、それをご覧になって、満足なさいました。すべては良かった。

  ですから 人間は、そのはじめに、まことに幸せに造られた。本当に喜びの存在として造られましたから、ごく自然に 造り主である主を、喜びたたえたい気持ちで 幸福にみちあふれていました。

  中世の教父と言われる アウグスチヌスは 「告白」という 有名な書の中で 次のように書いています。

  「人間は、あなたの造り給うたものの中で 取るに足らぬものであるが、あなたを讃えようとする。実は、あなたがうながし給うので、はじめて、人間はあなたを讃えて喜ぶのである。」

 

  人間は造られたものの中で、まことに小さいものでありますが しかし、すべての造られたものを動員し、すべての被造物を代表して、神をほめたたえるべく 置かれているものであります。と 言っているんです。そこに、人間の 一切の被造物に勝る位置があるわけです。

  しかし、人間は、その賛美を失ってしまった。いや! 賛美は持っている、けれども、その方向を全く取りちがえてしまった。

  本来、神をほめたたえるべく造られたものである。そのゆえに、その造り主のすばらしい御業を

ほめたたえるべきであるのに、神をほめたたえないで、自らをほめたたえる方向に、まちがえてしまいました。これが人間の罪の方向なんです。

 

  神によって置かれた位置からずれた姿です。

  

  神の御名をほめたたえるはずであるのに、自分の名があがめられることを求め、競い合って、己の名の誉れを求め合うのであります。

  即ち、人間は、神に与えられたあるべき場からはずれ、己が名を賛美する方向に、方向ちがいをしてしまったのであります。

  そうして、エデンの園は楽園ではなくなり、人間の前から消え去ってしまったのであります。

  喜びと賛美は消え失せ、人間は互いに自分の名誉を求め、ぶつかり合っています。

  それなのに この詩篇の作者は「わがたましいよ、主をほめよ。」と、いう。どうして、そう言い得るのでしょうか。

  ここに、何か、大きな出来事がなければならない。

  罪ある人間自身ではどうにもできない。

  この作者自身に、どのような出来事があって、この深い信仰を持つことができたのか、1節から22節までをじっくり読むと、作者の姿が随所に出ています。

  13節には、父がその子を憐れむように、主は、主を恐れる人を、憐れんでくださる。

  17節には、主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にある。と、あります。

  私たちは、この詩篇を「私の歌」として読もうとする時、そこに、どうしても、イエス・キリストの十字架を立てて、それを通して読まざるを得ないのであります。

  その時、たしかに、この歌を、私の歌として、賛美の歌として、読んでゆくことができるでしょう。

  そこには、クリスマスの出来事が必要でありました。

  神が人の姿をもって、人間の世に生まれて下さった。

  神の子としての姿をもって、イエス・キリストは人間の罪を負って十字架に死んで、神の愛を与えて下さったのであります。

  こうして私たちは、罪ゆるされた神の愛を受けて、主をほめたたえたいのであります。この作者のように「わがたましいよ、主をほめたたえよ。」と、よろこびの賛美を上げてクリスマスを迎えましょう。

                                            アーメン ハレルヤ

説教「切り株から萌え出る若枝のように」吉村博明 宣教師、エレミア33章14-16節、ルカ19章28ー40節

主日礼拝説教2018年12月2日 待降節第1主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ルカ福音書には「ホサナ」がない

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を見守り、皆様も神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みと生活の上に神が豊かに祝福を与えて下さるように。

本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに「入城」する場面です。毎年お話ししていることですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると朗読はいったん止まります。そこでパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆一同一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、教会の会衆が当時の群衆になり代わって歓呼の言葉を歌で歌うということです。同じ歌を私たちも先ほど歌いました。この歌は、実にフィンランドやスウェーデンでは教会讃美歌集の一番目の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい年を元気よく始める雰囲気に満たされます。時差があるので、あと7時間位したら(スウェーデンは8時間あと)かの地でもこの歌が響き渡るでしょう。
右にある写真をクリックすると、フィンランドのエスポー教会の礼拝で歌われた「ダビデの子、ホサナ」を聴くことができます(ユーチューブ)。

ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、今日は北欧の教会のように聖書朗読の途中で歌いませんでした。朗読の後でした。どうしてかと言うと、今年の日本のルター派教会の待降節第1主日に定められた福音書はこのルカ19章でして、そこではマルコ、マタイ、ヨハネとは異なり、群衆の歓呼の中に「ホサナ」の言葉がありません。それで、この歌で聖句の朗読にかえるのはちょっとよくないと思い、今回は聖句を一通り読んでいただいた後で歌うことにした次第です。それでは、マルコ、マタイ、ヨハネ福音書の群衆の歓呼に「ホサナ」があるのに、どうしてルカ福音書にはないのでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

これも毎年お話ししていることですが、手短に振り返ります。まず、「ホサナ」というのはアラム語の言葉で(הישע-נא、ギリシャ語ωσαννα)、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語は旧約聖書の言葉ですが、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になりました。そういうわけで、この言葉はもともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。

どうしてルカ福音書にはこの、王を迎える歓呼の言葉が抜け落ちたのでしょうか?これは4つの福音書がどのようにして出来たかというとても大きな問題に関わるので、ここでは立ち入らないで、「ホサナ」がルカにないことをどう考えたらよいかについて簡単に述べておきます。この福音書と使徒言行録の記者とされるルカは、イエス様のことをユダヤ民族という一民族の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それなので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界の「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、今申しましたようにユダヤ民族が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉でした。それでルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する際、イエス様は神から祝福を受けて神の名において到来する王であるということが読者に伝われば、それで十分。あえてイスラエルの民族性を出さなくても良しとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったでしょうが、彼らは直接耳で聞いたこと、あるいは手にした史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

 

2.王として迎え入れられたイエス様

 さて、エルサレムに入城したイエス様は群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この王は群衆に取り囲まれてはいるが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?

実はこれはパロディーでもなんでもないのです。毎年お話ししていることですが、大事なことなので簡単に振り返ってみましょう。

イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるように命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的のため用いられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言がありました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」とありますが、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者(צדיק)、神から力を得て勝利する者(נושע)、へりくだった、みすぼらしい者(עני)

です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です。「神から力を得て勝利する者」というのは、今引用した個所にあるように、神から力を得て世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった、みすぼらしい者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、子ロバに乗ってとことこやってくるというのです。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が全世界を神の意志に従わせる、そのような世界をもたらすという預言は、旧約聖書の有名なイザヤ書11章1-10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが存在せず、全てにおいて神の守りと正義が行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。聖書の観点では、これは今の世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造される時に到来する世です。その新しい世に相応しく完全な正義を実現する「エッサイの若枝」。それは何者なのか?エッサイはダビデの父親の名前ですので、ダビデ王の家系に属する者を指します。つまり、イエス様のことです。やがて、今の天と地にかわって神の意志が隅々まで行き渡る新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完璧な安全と完全な正義を実現するのがイエス様ということです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の意志や神の国つまり将来到来する新しい世について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。確かにこれらの預言は成就したとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、神の意志が隅々まで行き渡る新しい世はまだ来なかったのではないか?従って、預言は完結しなかったのではないか?

3.一民族のではなく全世界の王として

 実は、これらの預言はイエス様が再臨つまり次に来られる時に実現するもので、外れたということではないのです。イエス様が最初に来られた時、預言の一部は実現したが、それは預言全体の実現が開始されたということで、イエス様の再臨をもって全てが完結するというものなのです。イエス様は最初に来られた時、無数の奇跡の業を行いましたが、これも害悪や危害がない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味がありました。

 しかしながら、イエス様を歓呼で迎えた弟子たちや群衆は、神の大事業が全世界・全人類に及ぶものとは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様とはあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる自分らの民族の王でしかありませんでした。そういうふうに、旧約聖書が真に意図していたことと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでした。しかし、それはいたしかたのないことでした。一方でバビロン捕囚からユダヤ民族が辿った苦難の歴史があり、他方で旧約聖書にメシアと呼ばれる神に聖別された王についての預言があり、そうなるとメシアに民族解放の期待を結びつけてしまうのは容易なことでした。メシアというのは本当は、所属する民族に関係なく人間を罪と死の支配から解放してくれる、まさに全ての人間にとっての王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。

イエス様は全ての人間を罪と死の支配から解放してくれる王であるという時、それはどのようにして起こったでしょうか?イエス様は神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架の上で自分の命を捧げて、人間の罪を神に対して償って下さいました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死なれたイエス様を救い主とわかって洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦して下さいます。神が罪を赦すというのはどういうことかと言うと、わが子イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前をイエスの犠牲に免じて罪に定めないことにする、罪はさもなかったことのようにして不問にする、だからお前はこれからは赦された者として相応しく生きなさい、ということです。神からこのように罪の赦しを受けることで人間は、それまで断ち切れていた神との結びつきを回復し、その結びつきの中でこの世を生きることになります。イエス様の十字架の業のおかげで、罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は本当に無力になったのです。

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を人間に開かれました。こうして神から罪の赦しを得て神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に帰ることができるようになりました。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた力を打ち砕きました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

4.旧約聖書の読み方

 このように、イエス様は一民族の王なんかではなく、全ての人間の王、全世界の王、文字通り救世主なのです。そのことがはっきりするのは、十字架と復活の出来事の後でした。先ほどのゼカリア書9章やイザヤ書11章の理解の仕方からも伺えますが、旧約聖書を読む時、十字架と復活を通して読むか、通さないで読むかによって大きく意味が変わってきます。通さないで読むと、預言は一民族の王を言っていることになります。イエス様も当時そのように理解されてしまったのです。

同じことが本日の旧約聖書の日課エレミア書33章についてもよく当てはまります。15節に「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」とあります。「彼は公平と正義をもってこの国を治める」と言うと、ユダヤ民族の国を正しく統治する王様です。神がダビデのために生え出でさせる正義の若枝というのは、かつて滅亡したダビデ王朝の王国を再興させる、若枝のような勢いのある王様です。これはどう見ても、ユダヤ民族の王国が理想的な王様の下で再興されるという預言です。しかし、そのようなダビデ王朝の王国はバビロン捕囚の後は実現しませんでした。そうすると預言は実現しなかったことになります。

ところが、15節の預言はヘブライ語の原文を見ると、このようなユダヤ民族の理想的な王の到来を意味する内容にはとどまらないのです。この節は辞書に出ている単語の意味を見ても、もっと大きな内容を含んでいます。新共同訳で「この国を」と訳されている言葉(בארץ)は「地上に、全地に」という意味も持っています。ユダヤ民族の国に限定されません。「公平」(משפט)と訳されている言葉も、辞書の筆頭の意味は「調停して確立された正義」です。人間の罪のゆえに神と人間の間に戦争状態があったのが、イエス様の犠牲の上に両者に平和がもたらされたことを思い出しましょう。「正義」(צדקה)と訳されている言葉ですが、これはまさに「義」、神に義とされること、神の前に出されても大丈夫と見てもらえることです。イエス様の十字架の業のおかげで罪ある人間がそのような義を持てるようになったことを思い出しましょう。以上を踏まえると15節の訳はこうなります。「彼は、この地上で神と人間の不和状態を調停し、義を実現する。」これはもう一民族の王ではありません。まさに全ての人間の王、全世界の王、救世主です。

それでは、どうしてこの聖句はそのように訳されなかったのでしょうか?それは、訳す人が歴史に沿った訳を選んだからです。歴史に沿った訳とは、エレミアの時代というのは国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡する時代で、当時ダビデの家系から将来全世界の人間を罪と死から解放するメシアが出るなどとは誰も考えていないだろう、当時の人たちとしては国を再興してくれる王を待望しただろう、そういうふうに当時の人たちの観点に立って訳したのです。これは実に難しい選択です。歴史に沿った訳をしないと、預言が宣べられた歴史状況がわからなくなってしまいます。歴史状況を踏まえないで理解しようとすると、どんな身勝手な解釈も可能になります。それでも、十字架と復活の出来事がある以上は、天地創造の神の意図は全ての人間の罪と死からの救いであるということは動かせません。神は全ての人間に及ぶご自分の意図をご自分が選んだユダヤ民族の歴史を通して知らせていたのです。そういうわけで旧約聖書を繙く時は、歴史に沿う読み方をしても、十字架と復活に象徴される神の愛があることを心に留めて読むことが大切です。

5.切り株から萌え出る若枝のように

 終わりに、イエス様が若枝にたとえられることがいかに私たちに生きる希望を与えるかについてお話したいと思います。若枝の預言は先に見たようにイザヤ11章と本日の旧約聖書の日課エレミア33章にありました。同じ預言はエレミア23章にもあります。

イザヤ11章で若枝とか芽が出てくるのは、エッサイの切り株とか根とか呼ばれるものです。これはどういうことかと言うと、イザヤ書6章に、ユダヤ民族が王から国民までこぞって神の意志に反する生き方をしたことに対する罰が宣べられます。外国に攻められて国は廃墟となり、その様は大木が切り倒されて切り株しか残らないような無残な状態になると預言されます。歴史上それは最終的にバビロン捕囚の時に起きてしまいました。ところが、イザヤ6章の一番終わりを見ると、残された切り株は「神聖な種」になると言われています。イザヤ11章やエレミア書に言われる若枝とは、この廃墟の切り株から生え出てくるのです。歴史の只中に生きていた人たちは、将来の国の復興を預言していると受け取ったでしょう。ところが本当は、神は全ての人間を罪と死の力から救い出して、その上で完璧な安全と正義のもとに招き入れてくれるメシアをこの無残な廃墟の中から起こして下さったのでした。希望の潰えたところに真の希望を打ち据えたのです。

焼け落ちた森の中、切り倒された大木もその切り株も全て水気も生気も失ったままうち捨てられている。そこの一つの切り株の上に小さな茎が小さな緑色の葉をつけて足を据えるようにして立っている。水気と生気があり、これから大きく成長することが誰の目にも明らかである。彼が大いなる者になりますように、そうすれば私たちも蘇るのだから。果たして彼はそのような者になった。ただ、それは人々が思い描いていたのとは違う仕方ではあったが。彼は、私たち人間に神との結びつきを取り戻すために自らを十字架の死に引き渡し、そして神の力で死から復活させられたのだ。彼を救い主と信じる信仰に生きる者は、この切り株の上に萌え出た若枝を心に持つのである。

それだけではない。心にこの若枝を持つ者は、今度はこの若枝と同じように育ち始めるのだ。かつて神の意志に反する生き方をして罰を受けたイスラエルの民のようにもう切り倒されることはない。なぜなら我々は、このひとり子の業のおかげで罪と死の力から解放されて神の目に義とされているからだ。しかしながら、神から罰は受けなくとも、今度はその代わりにこの世から反発を受ける。例えば、なぜ先祖伝来の霊に拠り頼まないで、よそ者に拠り頼むのか、と。しかし、自分の造り主はよそ者ではないのだ。また、なぜ神の目に正しく生きようなどとするのか?なぜ長いものに巻かれないのか?なぜ空気を読まないのか?なぜ忖度しないのか?そうすれば、その日必要な分以上のパンをたっぷり保証されるのに。正しく生きるためにその日の分以上はいらないなどとは、欲なしのお人好しもここまでくると救いようがない、と。しかし、本当に救いようがないのはどちらだろうか?

神に守られているので決して倒れることのない木とは言えども、大きくなればなるほど、確実に雨風により多くより激しく晒されます。しかし、大きくなればなるほど、完璧な安全、完全な正義に届く日は確実に近くなります。エッサイの切り株と根の上に萌え出たものは必ずその日を迎えられる。そう天地創造の神は約束されているのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

説教:マルッティ・ポウッカ牧師(SLEY)

説教2018.11.25.
 「わたしの言葉は決して滅びない」
 マルコ13:24−31
 初めに古い目覚まし時計について話させていただきたいと思います。
 私たちのフィンランドの家は81歳(築81年)ですが、その家の机の上においてある目覚まし時計はそれよりもっと古いのです。その大きな時計の後ろに面白いことが書いてあります。「これは一番よい目覚まし時計です。」そして、故障(こしょう)した時のために、電話番号も書いてあります。その電話番号は「75」だけです。そのころ、電話はきっと貴重品(きちょうひん)だったでしょう。今、もしこの時計が止まって、電話番号 「75」をまわしても、返事はないと思います。この約束は、もう信頼できません。

 また、その目覚まし時計はたいてい朝七時に大きいな音で
 「ピルル」と鳴りました。まるで人の声のようでした。私は子どもっぽいかもしれませんでしたが、その大きな声が怖くなって、いつもその音がする少し前に起きました。六時五十分ごろでした。

 時計屋さんの約束は限りなく信頼できませんが、聖書は信頼できるみ言葉ですので、それを読みましょう。今日の聖書の箇所には、三つの大切な教えがあると思います。
1.イエスが来てくださる
 24「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
 
27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 私たちはキリストの再臨を待っています。
 世の終わりにキリストは栄光の中に出現し、全ての死人を復活させるのです。その時、義人の体はキリストの栄光の体のように変えられるのです。
 「その日は、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13:32)。
 )。「死者の復活もこれと同じです蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(第一コリント15:42−44)。
イエスはまた来てくださいます。イエスを信じるものにとって、これは信頼できるよい約束ですが、イエスを信じないものにとって恐ろしいことです。イエスのほかに救い主がないからです。

2.人間は将来のことを少ししか考えられませんが
 28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。

 天気予報はできますが、皆さんのご存知のようにそれにも時々間違いがあるでしょう。そして、世界の経済の問題はまだまだ難しいでしょう。人間の知恵には限界(げんかい)があります。 けれども、周りの状況がどうであっても、現在も未来も、私はキリスト者として、まだ恵みの時、または宣教の時をすごしています。

 3.目を覚ましていなさい
 30.はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
31.天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

イエスの約束というのは、信頼に足る(たる)ものです。イエスはまだ来てくださいます。それは何日の何時ですが、とにかく あれ。。。
キリスト者には希望があります。
> 時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。
> 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。
> 「被造物だけでなく、『霊』の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23−24)。
> 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。
>
>
最初に話した時計屋さんはもうその目覚まし時計を直せませんが、イエスはいつまでも、私たちのための救い主です。そのことを毎日毎日覚えましょう。イエスの言葉は決して滅びないからです。
> 祈りましょう。
>
>
あなたの御子主イエスはまた来てくださいます。私たちはそれを神の御約束として信じて待ち望んでいます。
>よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。ペテロのように私たち一人一人に任務(にんむ)を教えてください。あなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、子どもと隣人をあなたに与えられた力によって大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

説教:マルッティ・ポウッカ牧師(SLEY)

説教 2018.11.18。

「良い手本」

マルコ12;41−44

 

今年の二月、私達はイスラエルに行ってきました。とてもいい旅行でした.一週間の間にイスラエルをあちらこちらへ回って、イエスが住んでいた町と歩いていた道を見ました。これから聖書の話ももっと理解出来ました。

 

ある所でとっても古いだまが見つかったということを聞きました.イエスの時代のだまだったので、今日の聖書の有名な話に関係があるだまでしたか。それはよく分かりませんが、

こまかい可能性があると思います。聖書に書いてある話は、本当に、本当に歴史的なはなしだったからです。

 

今日の聖書の話を読むと三つのことについて話したいと思います。

 

初めに神様は造り主でいらっしゃいます

 

また、神は霊です。

 

神は全能の聖なる主であって、天の栄光の中に住み、また同時に私たちに近くその愛の中に宿られています。

 

 

神はその御言によって、見える世界と見えない世界の、ありとあらゆる存在物を造られた御方です。天使はその見えない世界のものです。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)。

「わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業」(イザヤ64:8(7))。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)。私たちが神を父と呼ぶのは、神が万物を造り、万物を保たれるからですが、特に神がイエス・キリストにおいて、私たちをその子とされるからです。

「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にある全ての家族がその名を与えられています」(エフェソ3:14-15)。

神様は、この世の造り主です。また、私たちが神を父と呼びます。私達が持っているものは体も財産なども、全部神様に頂いた賜物です.感謝します。

次に良い手本のおしえ

今日の聖書の箇所を読みましょう。

41.イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

その時も金持ちがやっぱりいました。

42. ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

皆は金持ちではありませんでした。

43。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエス様は、貧しいやもめは良い手本ということを教えて下さいました。貧しいやもめは、感謝の気持ちを造り主に対して表しましたが、神様に信頼する気持ちがあったと思います.神様に頂いた者を、少し返しました。私達にとっても、良い教えです。

どうして感謝の気持ちをあらわすのか。

イエスの御業は感謝の一番の元です。

イエスの御業

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。

イエスの生涯の一日については、マルコ1:21-34を読んで下さい。

またイエスがナインの寡婦の息子を甦らせた事については、ルカ7:2-17を読んで下さい。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)。イエスは良い業ばかりして下さいました。特に、イエスは私達のために苦しました。

 

贖罪(贖い)と宥めの教えです。

父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17:4)。

イエスの御業によって、私達は喜びを持って、永遠の命の希望も持っています。それに従って、 奉仕への贖いが生まれます。

.奉仕への贖い

神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。

まとめて、貧しいやもめの手本に従って、奉仕への贖いを持って、神様に信頼して奉仕しましょう。     アーメン

フィンランド賛美歌:447 キリスト 世の光

 聖餐式

子供祝福式

 

 

 

説教「愛する力はどこから湧くか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書12章28ー34節

主日礼拝説教2018年11月11日 聖霊降臨後第25主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

本日の福音書の箇所の直前にですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました。決め手になった御言葉は出エジプト記3章6節でした。神がモーセに自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗ったところです。モーセから見たらアブラハムもイサクもヤコブも何百年も前に死んでいます。これがどうして復活が起こることの根拠になるのでしょうか?

イエス様は神のことを「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。それは神というのは生きている者に属するもの、生きている者が持てるものであり、死んだ者は持てないという意味です(「死んだ者」、「生きている者」の属格形νεκρων、ζωντωνを所有、所属の意味に解すればよいわけです)。アブラハムは死んだはずなのに、神は自分のことをアブラハムの神、つまりアブラハムに属する神、アブラハムが持てる神であると言われた。これは、まさに死からの復活が起こるので、アブラハムは復活の後、永遠の命を持って生きることになり、それで神は生きるアブラハムの神となるわけです。そういうわけで出エジプト記3章6節は復活を前提にしている御言葉で、イエス様はサドカイ派に、お前たちは一体どこに目をつけて聖書を読んでいるのだ、とあきれているのです。

この復活はあるのかどうかという論争は他にも論点があって、それもイエス様はサドカイ派をギャフンとさせますが、詳しくはマルコ12章18ー27節をご覧ください。

さて、この論争の一部始終をみていたある律法学者が、このイエス様こそ神の御言葉を正確に理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者というのはユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中にあるモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書みたいに文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派という別のグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。

これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8ー13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても同じだと思います。

 

2.最も重要な掟

  イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになるというのです。

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から去っても、復活の日に目覚めさせられて輝かしい復活の体を着せられて自分の造り主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。その結果、今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな総合的な人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。

それでは、どのようにすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?

 

3.神を全身全霊で愛すること

  イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男と女の熱烈恋愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまいました。しかし、神はこれをなんとかして回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、万が一この世から死んでもその時は神の御許に御手をもって引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。

このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

 

4.隣人を自分を愛するが如く愛すること

  次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神なんか他にもいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神はたくさんある神々のうちの一つだ、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43ー48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の中の誰かが危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配下から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けられてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。

こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これから離れてしまったり失ってしまったりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。

 

5.神の前に出されてもイエス様のおかげで大丈夫でいられる

  最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものはつまるところ、守れて自分は大丈夫と思うためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永久に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。

ここで次のことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を全部埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分です。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを正直に話して赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫になったのだから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に向かう同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

説教:木村長政 名誉牧師

 

 

第24回  コリント信徒への手紙  7章17節           2018114日(日)

 

 今回から7章に入ります。読んでお分かりのように、これまでのパウロの内容や語調とは、がら

りと変わっています。表題には「結婚について」とあります。

 聖書の中に、このような生活の指導のようなことまで、パウロは、なぜ書いているのでしょう。 

  聖書は、生活指導のための本ではありません。

  聖書は、救いの本である、ということです。

  ですから、重点は、救いを完うするために、というところに書かれているものです。そのことを目

ざすとなれば、人間の生活の仕方にもふれないわけにはいかないでしょう。

 大事なことは、あくまでも、「救いと信仰生活」が基本になっている、ということを知っていなければならないでしょう。

 パウロは、たぐいまれな伝道者でありますから、彼独特の考えで書きつらぬいています。

 さて、71節を見ますと、「そちらから書いてよこした事について言えば」とあります。

 どうも、この手紙を書く前に、パウロの手元に質問状のようなものが、きていたようであります。

 それがどんなものであったか、くわしくは分かりませんが、どうやら内容については、パウロの

この返事から分かります。しかも、その内容は、6章までにふれてきた、コリント教会内の不品行の問題であったことがわかります。

 パウロはこの問題について悩みました。

 ということは、これは決して、小さな問題では、なかったからでしょう。

 そこで、パウロは、まず始めに、その答えを表しています。男子は、婦人にふれないがよい、と言って、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい、と言っているのです。

 パウロが言いたいことは、これで明らかなように、結婚生活とはどういうものか、という事を語っているのではありません。不品行な生活をしないためには、どうしたらいいか、ということであります。

 なぜなら、創世記にありますように、神は、男が一人いることはよくない、と言って、女をつくろう、そうして女をつくった。こうして、男と女との生活は神がお創りになった。そこには子供もできるでありましょう。男と女とが共同生活をするために与えられた喜び、又、悲しみがあるはずであります。

 パウロはここでは、不品行な生活をしないためにどうしたらいいか、ということを言っているのです。

不品行ということで様々な争い、にくしみ、悪行があったことでしょう。

 しかし、パウロがいつも考えていることは、人間の、神に対する責任、ということでありました。

 この生活が、神を喜ばせることであるのか、神の栄光を傷つけることになるのか、ということでありました。

 パウロ自身は、7節に見られるように独身であったらしいから、何のためらいもなく、男は女にふれないがよい、と言ったのでしょう。しかし、彼自身も、それが答えになっていないことを知っていましたので、それに続いて夫婦生活のことについて書くわけであります。

 しかし、ここに書いてある夫婦の生活は、普通に言われる事とは大分ちがうのであります。

 パウロは、不品行の問題から出発しました。従って、夫と妻とが互いにその分を果たすことについて、語らざるを得ませんでした。不品行の問題はそれだけではないかも知れませんが、このことが基本であることは誰にでも明らかなことであります。

 パウロはまず、それを言うのであります。

 夫婦であるということは、各々がその分を果たすことである、といったような分かり切った事を言わねばならなかったのでありましょう。

 しかし、それと同時にパウロは、それが必ずしも分かり切ったことではないと考えたのでしょう。そこに、こういう問題が起こると思ったのでありましょう。

 それはパウロに言わせれば、ただの常識の話ではありませんでした。

 問題は、男と女とが、自分の体をどう扱うかということにある、と言うのです。

 ここまで来ると、話は常識ではすまない。

 自分の体と言うが、それはほんとうに自分の体なのか、ということになります。第一に、夫婦の約束をしたものにとって、自分の体というものは何か、まことに自分ひとりのからだである、と言うことができるのか、ということになります。自分の体は自分のものであって、自分のものではないことの約束ではなかったか、とパウロは言うのです。

 それが明らかなら不品行は起こり得ない、とパウロは言いたかったのではないかと思います。

 不品行の問題には、当然、神がはいってくるはずであります。神がはいってきて、初めて不品行と言えるのではないでしょうか。神をぬきにした生活には、不品行ということさえないのかも知れません。

 パウロは、男と女とが、自分のからだを自由にすることはできないはずである、と言っています。

 それなら誰が自由にするのでしょう。相手でありましょうか。そうかも知れません。しかし、本当は神であるはずであるにちがいありません。従って、パウロはここに夫婦生活の一つの取り決めをいたしました。

 5節にそのことを書いています。「互いに相手を拒んではいけません。ただ納得し合ったうえで、専ら祈りに時をすごすためにしばらく別れまた一緒になるというなら、話は別です。」

 新約聖書は約二千年昔に書かれたものです。だから、昔の考えがはいってくることは止むをえません。例えばここで「祈りのためならしばらく別れても、」とあります。当時のユダヤ教の習慣ではなかったかと思われます。しかし、ここで大切なことは、祈りの生活を重んじなさい、ということであります。夫婦生活は、自由に行われて差支えないことでありましょう。しかし、夫婦生活の中で、祈りの生活が大切である、ということです。

 もっと正しく言うなら、夫婦生活の中に限らず人間生活の中において、祈りを重んじなさいということでありましょう。

 5節後半で、パウロはきびしいことを露骨に告げています。「あなた方が、自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」

 パウロは人間の弱さを知っておりました。男と女の関係、夫婦の生活においても、ねじれたり、わがままだったり、色々な欲に流されたりします。パウロはそれらの中で家庭が祈りを重んじていくように、どんなに願ったことでありましょう。

 7節で、今日のみことばをまとめているように思います。

 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのです、という。パウロは独身であったらしい。ペテロは妻があったらしい。同じ使徒として神様から伝道の使命を受けていても、パウロとペテロは神から異なった賜物を与えられたのであります。

 パウロは、皆がわたしのようになって欲しいと言うのが本音であったでしょうが、しかし、誰でもがパウロのような賜物を与えられてはいない。あくまで、その人、その人に、神御自身が、その人にとって最も良い賜物を与えて下さるのですから、感謝してそれをしっかりと受けとめ、活かして、神様のよろこばれる栄光を発揮していくべきでしょう。

 これが今日のメッセージであります。アーメン・ハレルヤ

説教「救いと大いなる安息の地を目指して」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章46ー52節、エレミア31章7ー9節、ヘブライ4章1ー13節

主日礼拝説教2018年10月28日 聖霊降臨後第23主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中、エリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡の出来事についてです。ここで注目すべきことは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたことです。この言葉は一体何を意味しているのでしょうか?癒す前にこの言葉が言われたことに注意します。もし癒された後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら、筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてその褒美に目を見えるようにしてあげた、ということになるからです。ところがイエス様は、目が見えるようになる前にそう言ったのです。一体どういうことでしょうか?そこで、イエス様は治っていない段階で「もう治った」と言って、確実に治ることを預言っぽく先回りして言ってみせた、と考えることができるかもしれません。つまり、本当は後に言うべき言葉を預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになり、もし治らなければ立派な信仰がないということになってしまいます。イエス様は、病気が治る治らないで信仰の優劣が決まると言われているのでしょうか?本説教の最初の部分では、イエス様が言われる「救い」ということについて少し考えを深めていこうと思います。

その次の部分では、「救い」について、本日の旧約の日課エレミヤ書31章とヘブライ4章の聖句が二つの大事な視点を明らかにしていますので、それを見ていこうと思います。一つ目の視点は、今の世の次に来る世の人生というのは、とてつもなく大きな安息の地での人生であるという、ヘブライ4章の視点です。もう一つの視点は、今のこの世の人生はその大いなる安息の地を目指す歩むであるという、エレミヤ31章の視点です。

 

2.救いとは何か?

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、これと同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。それはマルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。事後的に言ったので、信仰のおかげで治ったと言っているように聞こえます。でも、どうして事後的になったかと言うと、この女性の場合は初めイエス様に内緒に服に触って、それから癒しが起きました。イエス様はそれに気づいてこの言葉を発したので事後的になったのです。バルティマイの時は、イエス様は初めにこの懇願する人を見てこの言葉を発して、その後で癒しが起きたので、事前的になりました。

ルカ7章にも同じ言葉が言われる出来事があります。それは、罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行ったところです。その時イエス様は女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないことがわかります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるとよいと思います。以上の5か所で「救った」という動詞はみな現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌になる人が出るかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れて大丈夫です。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題となっているイエス様の言葉をみてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある

ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うからです。普通だったら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるなどと言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと「救われる」ことは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあることはある、と言っているのです。それでは救いとは一体何なのでしょうか?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんて有り得るのでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあることになります。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

聖書の立場では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた人間の内に神の意志に反する罪が入り込んで、それで造り主との結びつきが失われてしまった状態のことをいいます。それで、この罪の問題をどうにか解決できて神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきをうまく回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時でも、順境の時だろうが逆境の時だろうが、絶えず神から助けと良い導きを得られて歩むことが出来るようになるということです。万が一この世から去らねばならない時が来ても、その時は神が御手をもって御許に引き上げて下さり、神のもとに永遠に戻ることができるようになるということです。

そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間に内在する罪の問題を解決しなければならないのですが、それはどうやってできるのでしょうか?人間が自分で罪を除去することは出来るでしょうか?イエス様は、マルコ7章の律法学者との論争で、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の性向である、それで、どんな宗教的な清めの儀式をしても罪の汚れは除去できないと教えます。それならば、十戒をはじめとする律法の掟をしっかり守ることで人間は神の目に相応しいと見なされて結びつきを回復できるでしょうか?イエス様は十戒の第5の掟「汝殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしても破ったのも同然と教えました。また第6の掟「汝姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら破ったのも同然と教えました。つまり、十戒の掟は外面的な行為だけでなく、内面の心の有り様まで問うのだと教えます。そこまで言われると神の目に相応しい人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロがローマ7章で教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がれるためにあるのではない、内面までも問うことで自分はどれだけ神の意志から離れてしまった存在か映し出す鏡のようなものなのです。

そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することが出来ません。天の父なるみ神は、これは救いようがない、もう万事休すだ、と思ったでしょうか?そうは思いませんでした。神の意図は人間が自分との結びつきを回復してほしいということでした。それで神は問題の解決のためにひとり子のイエス様をこの世に送り、本来だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運ばせて、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。神が取った解決策はまさに、ひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すということだったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれました。そこで人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主とわかって洗礼を受けると、このイエス様の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになります。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復できることになり、今のこの世の人生と次に来る世の人生を合わせた大きな人生を神との結びつきの中で生きることができるようになります。これが救いです。  

この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。人間はイエス様を救い主とわかって洗礼を受けるとこの救いを受け取ることが出来、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、受け取った救いは失われることはありません。これは、受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

ところで、バルティマイの癒しの奇跡の時はまだ十字架と復活という救いの出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は本当に救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、十字架と復活が起きる前ですと、それはただの口先の言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言っている、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音声だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行きなさいと命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまいました。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを持ちました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そして十戒の掟からすればまだ罪を内に持っているのに、イエス様の十字架の身代わりの犠牲のおかげで、神の目からは大丈夫とみてもらえる。本当に罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。だからその後は大丈夫と見られていることに恥じない生き方をしなければと注意するようになる。注意することは緊張感をもたらしますが、同時に罪の赦しの恵みの中にいられる安心感もあります。ここから先はもう神に対して感謝以外何もなくなります。この感謝の気持ちが、神を全身全霊で愛し、神がそうしなさいと言っている、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していきます。罪を赦された女性はその例です。

 

3.大いなる安息の地を目指して

 以上、救いというのは、聖書の立場では、神から罪の問題を解決してもらって神との結びつきを回復でき、その結びつきを持ってこの世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きられるようになることだと申し上げました。その救いについて、本日の旧約の日課エレミヤ書31章と使徒書の日課ヘブライ4章は大事な視点を教えてくれています。

ヘブライ4章では、次の世の人生のことを「神の休息の場」(η καταπαυσις αυτου)と言っています。ヘブライ4章4節で創世記の出来事が振り返られていますが、神は天地創造の業を行って7日目に全てのなすべき業から離れて休まれました。天と地の創造という壮大な事業の後に入れる休息ですので、これもまた壮大な休息です。ヘブライ4章は、私たち人間もこの壮大な神の休息の場に入ることができるのだと言っています。すごいことです。4章10節で言われるように、その休息の場に入れる者は神もそうだったように全てのなすべき業から離れて休むことになります。それはどんな休息かというと、黙示録19章で結婚式の祝宴に例えられています。これはこの世の労苦が全て労われることを象徴しています。さらに黙示録21章4節で神は全ての涙を拭われると言われますが、これはこの世で被った全ての不正義や不正が最終的に完全に償われることを象徴します。同じ節ではまた、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われます。最初のものは過ぎ去ったというのは、今ある天と地が新たに創造される天と地に取って代わられて、今の天と地のもとであった全ての神の意志に反することが消え去って、全てのことが新しくされて、全てが神の意志に沿うものになっていることを意味します。それは死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。

そのような壮大な神の休息の場に向かって、そこに向かう道に置かれた者は神に守られながら歩んでいくことが、エレミヤ書31章で言われます。そこに向かう道は、9節で言われるように「泣きながら(בבכי)、神に助けを求めながら(בתחנונימ)」進まなければならないこともあるくらい、苦難困難の時もあるかもしれない。しかし、同じ9節で言われるように、神が父親としていてくれる位に神に守られるというのが大前提としてある、だからその道は本当は真っ直ぐに延びる平らな道で誰も歩くのが難しいことはない。目の見えない人、足の不自由な人、妊婦やまさに出産しようしている人といった、普通なら長旅は無理と見なされる人たちも全く大丈夫だ、と言うのです。壮大な休息の場に向かう道を進むというのは、それくらい神に守られて歩むことなのです。

これと同じことが、先月の説教で解き明かししましたイザヤ書35章でも言われていました。そこでお教えしたことは、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持ってこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進む。その道は順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られる道である。万が一この世から去らねばならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道である。そこで天使たちの歓呼の声をもって迎えられる。

先月の説教でも申し上げたのですが、エレミヤ書31章やイザヤ書35章をこのように今の世から次の世への歩みについて言っているなどと言うと異論が出るかもしれません。というのは、これらの個所は一見すると、紀元前6世紀のバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が祖国帰還できるようになることの預言に見えるからです。民の祖国帰還は歴史上の出来事として起こりました。しかし、祖国に帰還した後も民の状態は預言された理想の状態からは程遠いということが次第に明らかになってきます。イザヤ書の終わりの方56章から後を見ると神がまさにそのことを明らかにします。そうすると、民の間でも、祖国帰還を言っているように見えた預言は実は天の神の国への帰還を意味していたのだ、民の理想の状態についての預言も、異民族から解放されて幸せ一杯のユダヤ民族のことを言っているのではなく、罪の問題を解決された人間が神の国に迎え入れられることを意味するのだ、と理解されるようになります。

そうすると、じゃあのバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できたことは何だったのか?それは預言とは無関係なことだったのか?いいえ、そういうことではありません。歴史上起きたことは、将来起きる全人類的な祖国帰還の何かミニチュア模型のようなものなのです。神は将来、全人類的な祖国帰還を起こすが、その意志と力を持っていることを小手調べとして歴史の中で示してみせたのです。将来起こる預言の本当のこと、これが本当に起こるのだとわからせるために小手調べのようなことをした例は、イエス様にもあります。死んでしまったラザロとヤイロの娘を生き返らせた時がそうです。イエス様はその者たちは死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。その時イエス様は、死というのは復活の日までの眠りに過ぎず、その眠りから起こす力を自分は持っているのだ、ということを、復活の日も最後の審判もまだ来ていない段階で前もって奇跡を通して示されたのです。

この世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きるというのは、神との結びつきを持って生きることそのものですが、そこではイエス様を救い主と信じる信仰があってこそ神との結びつきが持てることを忘れてはいけません。イエス様を救い主と信じる信仰は特に、二つの人生の間を移行する時に決定的に重要です。ヘブライ4章12ー13節で、神の言葉がどれだけ鋭く見抜いて裁く力があるかが言われています。最後の審判の時に全ての人は神の前で何も隠せない、丸裸同然で、神に対して申し開きをしなければならない。お前はどうしてあの時あのようにしたのか、あのようなことを言ったのか、考えたのか、と聞かれて、記憶にありません、が通用しないのです。これは恐ろしいことです。しかし、ここでイエス様を救い主と信じる者は心配無用であるということを思い出しましょう。私たちが至らない者だから、神はひとり子イエス様を身代わりの犠牲にしたことを思い出しましょう。ヘブライ4章13節の後の個所はまさに、そのことを思い出しなさいと私たちの心の目をイエス様に向けさせる個所です。本日の日課は本当はそこまであるべきだったと思います。

ヘブライ4章14ー 16節はイエス様を救い主と信じる信仰がある限り神の御前に立たされても大丈夫であると教えます。イエス様のことをあまり聞きなれない「大祭司」という言葉で呼んでいますが、これは神殿で務めを果たしていた大祭司が人々の罪と自分の罪を神の前で償うためにいろんな儀式を行って、特に動物を犠牲の生贄に供えることをしていた。それに対してこの新種の大祭司は自分自身を犠牲の生贄に供することで人間の罪の償いを果たして下さった。しかも、供されたのは神聖な神のひとり子だったのでこれ以上神聖な犠牲はなく、それで神の目から見てこの犠牲で十分となり、罪の償いのためにこれ以上供するものは何もなくなってしまった。さらに私たちにとって大きな慰めになるのは、この自分を犠牲に供した大祭司は神のひとり子で神と同じ存在でありながら私たち人間と同じようにこの地上に生きて同じような試練を受けた。だから、私たちの辛さや苦しみもちゃんとわかってくださっている。だから、罪がもとで私たちの心に神への恐れが生じたとき、また困難や苦難の中で誰もわかってくれない助けてくれないという気分に陥った時、この大祭司のもとに跪きなさい、すがりつきなさい、そうすれば必ず神から助けと導きを得られる、そう教えています。最後にこの個所を引用して、本説教の締めにしたく思います。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちは公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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  • 3月 20日 10:00 am
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    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ13章1~9),礼拝後交わり、読書会担当者木村長政先生
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