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説教集 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教集

説教:木村長政 名誉牧師

 

 

第24回  コリント信徒への手紙  7章17節           2018114日(日)

 

 今回から7章に入ります。読んでお分かりのように、これまでのパウロの内容や語調とは、がら

りと変わっています。表題には「結婚について」とあります。

 聖書の中に、このような生活の指導のようなことまで、パウロは、なぜ書いているのでしょう。 

  聖書は、生活指導のための本ではありません。

  聖書は、救いの本である、ということです。

  ですから、重点は、救いを完うするために、というところに書かれているものです。そのことを目

ざすとなれば、人間の生活の仕方にもふれないわけにはいかないでしょう。

 大事なことは、あくまでも、「救いと信仰生活」が基本になっている、ということを知っていなければならないでしょう。

 パウロは、たぐいまれな伝道者でありますから、彼独特の考えで書きつらぬいています。

 さて、71節を見ますと、「そちらから書いてよこした事について言えば」とあります。

 どうも、この手紙を書く前に、パウロの手元に質問状のようなものが、きていたようであります。

 それがどんなものであったか、くわしくは分かりませんが、どうやら内容については、パウロの

この返事から分かります。しかも、その内容は、6章までにふれてきた、コリント教会内の不品行の問題であったことがわかります。

 パウロはこの問題について悩みました。

 ということは、これは決して、小さな問題では、なかったからでしょう。

 そこで、パウロは、まず始めに、その答えを表しています。男子は、婦人にふれないがよい、と言って、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい、と言っているのです。

 パウロが言いたいことは、これで明らかなように、結婚生活とはどういうものか、という事を語っているのではありません。不品行な生活をしないためには、どうしたらいいか、ということであります。

 なぜなら、創世記にありますように、神は、男が一人いることはよくない、と言って、女をつくろう、そうして女をつくった。こうして、男と女との生活は神がお創りになった。そこには子供もできるでありましょう。男と女とが共同生活をするために与えられた喜び、又、悲しみがあるはずであります。

 パウロはここでは、不品行な生活をしないためにどうしたらいいか、ということを言っているのです。

不品行ということで様々な争い、にくしみ、悪行があったことでしょう。

 しかし、パウロがいつも考えていることは、人間の、神に対する責任、ということでありました。

 この生活が、神を喜ばせることであるのか、神の栄光を傷つけることになるのか、ということでありました。

 パウロ自身は、7節に見られるように独身であったらしいから、何のためらいもなく、男は女にふれないがよい、と言ったのでしょう。しかし、彼自身も、それが答えになっていないことを知っていましたので、それに続いて夫婦生活のことについて書くわけであります。

 しかし、ここに書いてある夫婦の生活は、普通に言われる事とは大分ちがうのであります。

 パウロは、不品行の問題から出発しました。従って、夫と妻とが互いにその分を果たすことについて、語らざるを得ませんでした。不品行の問題はそれだけではないかも知れませんが、このことが基本であることは誰にでも明らかなことであります。

 パウロはまず、それを言うのであります。

 夫婦であるということは、各々がその分を果たすことである、といったような分かり切った事を言わねばならなかったのでありましょう。

 しかし、それと同時にパウロは、それが必ずしも分かり切ったことではないと考えたのでしょう。そこに、こういう問題が起こると思ったのでありましょう。

 それはパウロに言わせれば、ただの常識の話ではありませんでした。

 問題は、男と女とが、自分の体をどう扱うかということにある、と言うのです。

 ここまで来ると、話は常識ではすまない。

 自分の体と言うが、それはほんとうに自分の体なのか、ということになります。第一に、夫婦の約束をしたものにとって、自分の体というものは何か、まことに自分ひとりのからだである、と言うことができるのか、ということになります。自分の体は自分のものであって、自分のものではないことの約束ではなかったか、とパウロは言うのです。

 それが明らかなら不品行は起こり得ない、とパウロは言いたかったのではないかと思います。

 不品行の問題には、当然、神がはいってくるはずであります。神がはいってきて、初めて不品行と言えるのではないでしょうか。神をぬきにした生活には、不品行ということさえないのかも知れません。

 パウロは、男と女とが、自分のからだを自由にすることはできないはずである、と言っています。

 それなら誰が自由にするのでしょう。相手でありましょうか。そうかも知れません。しかし、本当は神であるはずであるにちがいありません。従って、パウロはここに夫婦生活の一つの取り決めをいたしました。

 5節にそのことを書いています。「互いに相手を拒んではいけません。ただ納得し合ったうえで、専ら祈りに時をすごすためにしばらく別れまた一緒になるというなら、話は別です。」

 新約聖書は約二千年昔に書かれたものです。だから、昔の考えがはいってくることは止むをえません。例えばここで「祈りのためならしばらく別れても、」とあります。当時のユダヤ教の習慣ではなかったかと思われます。しかし、ここで大切なことは、祈りの生活を重んじなさい、ということであります。夫婦生活は、自由に行われて差支えないことでありましょう。しかし、夫婦生活の中で、祈りの生活が大切である、ということです。

 もっと正しく言うなら、夫婦生活の中に限らず人間生活の中において、祈りを重んじなさいということでありましょう。

 5節後半で、パウロはきびしいことを露骨に告げています。「あなた方が、自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」

 パウロは人間の弱さを知っておりました。男と女の関係、夫婦の生活においても、ねじれたり、わがままだったり、色々な欲に流されたりします。パウロはそれらの中で家庭が祈りを重んじていくように、どんなに願ったことでありましょう。

 7節で、今日のみことばをまとめているように思います。

 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのです、という。パウロは独身であったらしい。ペテロは妻があったらしい。同じ使徒として神様から伝道の使命を受けていても、パウロとペテロは神から異なった賜物を与えられたのであります。

 パウロは、皆がわたしのようになって欲しいと言うのが本音であったでしょうが、しかし、誰でもがパウロのような賜物を与えられてはいない。あくまで、その人、その人に、神御自身が、その人にとって最も良い賜物を与えて下さるのですから、感謝してそれをしっかりと受けとめ、活かして、神様のよろこばれる栄光を発揮していくべきでしょう。

 これが今日のメッセージであります。アーメン・ハレルヤ

説教「救いと大いなる安息の地を目指して」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章46ー52節、エレミア31章7ー9節、ヘブライ4章1ー13節

主日礼拝説教2018年10月28日 聖霊降臨後第23主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中、エリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡の出来事についてです。ここで注目すべきことは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたことです。この言葉は一体何を意味しているのでしょうか?癒す前にこの言葉が言われたことに注意します。もし癒された後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら、筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてその褒美に目を見えるようにしてあげた、ということになるからです。ところがイエス様は、目が見えるようになる前にそう言ったのです。一体どういうことでしょうか?そこで、イエス様は治っていない段階で「もう治った」と言って、確実に治ることを預言っぽく先回りして言ってみせた、と考えることができるかもしれません。つまり、本当は後に言うべき言葉を預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになり、もし治らなければ立派な信仰がないということになってしまいます。イエス様は、病気が治る治らないで信仰の優劣が決まると言われているのでしょうか?本説教の最初の部分では、イエス様が言われる「救い」ということについて少し考えを深めていこうと思います。

その次の部分では、「救い」について、本日の旧約の日課エレミヤ書31章とヘブライ4章の聖句が二つの大事な視点を明らかにしていますので、それを見ていこうと思います。一つ目の視点は、今の世の次に来る世の人生というのは、とてつもなく大きな安息の地での人生であるという、ヘブライ4章の視点です。もう一つの視点は、今のこの世の人生はその大いなる安息の地を目指す歩むであるという、エレミヤ31章の視点です。

 

2.救いとは何か?

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、これと同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。それはマルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。事後的に言ったので、信仰のおかげで治ったと言っているように聞こえます。でも、どうして事後的になったかと言うと、この女性の場合は初めイエス様に内緒に服に触って、それから癒しが起きました。イエス様はそれに気づいてこの言葉を発したので事後的になったのです。バルティマイの時は、イエス様は初めにこの懇願する人を見てこの言葉を発して、その後で癒しが起きたので、事前的になりました。

ルカ7章にも同じ言葉が言われる出来事があります。それは、罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行ったところです。その時イエス様は女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないことがわかります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるとよいと思います。以上の5か所で「救った」という動詞はみな現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌になる人が出るかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れて大丈夫です。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題となっているイエス様の言葉をみてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある

ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うからです。普通だったら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるなどと言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと「救われる」ことは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあることはある、と言っているのです。それでは救いとは一体何なのでしょうか?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんて有り得るのでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあることになります。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

聖書の立場では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた人間の内に神の意志に反する罪が入り込んで、それで造り主との結びつきが失われてしまった状態のことをいいます。それで、この罪の問題をどうにか解決できて神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきをうまく回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時でも、順境の時だろうが逆境の時だろうが、絶えず神から助けと良い導きを得られて歩むことが出来るようになるということです。万が一この世から去らねばならない時が来ても、その時は神が御手をもって御許に引き上げて下さり、神のもとに永遠に戻ることができるようになるということです。

そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間に内在する罪の問題を解決しなければならないのですが、それはどうやってできるのでしょうか?人間が自分で罪を除去することは出来るでしょうか?イエス様は、マルコ7章の律法学者との論争で、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の性向である、それで、どんな宗教的な清めの儀式をしても罪の汚れは除去できないと教えます。それならば、十戒をはじめとする律法の掟をしっかり守ることで人間は神の目に相応しいと見なされて結びつきを回復できるでしょうか?イエス様は十戒の第5の掟「汝殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしても破ったのも同然と教えました。また第6の掟「汝姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら破ったのも同然と教えました。つまり、十戒の掟は外面的な行為だけでなく、内面の心の有り様まで問うのだと教えます。そこまで言われると神の目に相応しい人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロがローマ7章で教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がれるためにあるのではない、内面までも問うことで自分はどれだけ神の意志から離れてしまった存在か映し出す鏡のようなものなのです。

そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することが出来ません。天の父なるみ神は、これは救いようがない、もう万事休すだ、と思ったでしょうか?そうは思いませんでした。神の意図は人間が自分との結びつきを回復してほしいということでした。それで神は問題の解決のためにひとり子のイエス様をこの世に送り、本来だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運ばせて、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。神が取った解決策はまさに、ひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すということだったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれました。そこで人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主とわかって洗礼を受けると、このイエス様の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになります。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復できることになり、今のこの世の人生と次に来る世の人生を合わせた大きな人生を神との結びつきの中で生きることができるようになります。これが救いです。  

この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。人間はイエス様を救い主とわかって洗礼を受けるとこの救いを受け取ることが出来、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、受け取った救いは失われることはありません。これは、受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

ところで、バルティマイの癒しの奇跡の時はまだ十字架と復活という救いの出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は本当に救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、十字架と復活が起きる前ですと、それはただの口先の言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言っている、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音声だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行きなさいと命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまいました。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを持ちました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そして十戒の掟からすればまだ罪を内に持っているのに、イエス様の十字架の身代わりの犠牲のおかげで、神の目からは大丈夫とみてもらえる。本当に罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。だからその後は大丈夫と見られていることに恥じない生き方をしなければと注意するようになる。注意することは緊張感をもたらしますが、同時に罪の赦しの恵みの中にいられる安心感もあります。ここから先はもう神に対して感謝以外何もなくなります。この感謝の気持ちが、神を全身全霊で愛し、神がそうしなさいと言っている、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していきます。罪を赦された女性はその例です。

 

3.大いなる安息の地を目指して

 以上、救いというのは、聖書の立場では、神から罪の問題を解決してもらって神との結びつきを回復でき、その結びつきを持ってこの世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きられるようになることだと申し上げました。その救いについて、本日の旧約の日課エレミヤ書31章と使徒書の日課ヘブライ4章は大事な視点を教えてくれています。

ヘブライ4章では、次の世の人生のことを「神の休息の場」(η καταπαυσις αυτου)と言っています。ヘブライ4章4節で創世記の出来事が振り返られていますが、神は天地創造の業を行って7日目に全てのなすべき業から離れて休まれました。天と地の創造という壮大な事業の後に入れる休息ですので、これもまた壮大な休息です。ヘブライ4章は、私たち人間もこの壮大な神の休息の場に入ることができるのだと言っています。すごいことです。4章10節で言われるように、その休息の場に入れる者は神もそうだったように全てのなすべき業から離れて休むことになります。それはどんな休息かというと、黙示録19章で結婚式の祝宴に例えられています。これはこの世の労苦が全て労われることを象徴しています。さらに黙示録21章4節で神は全ての涙を拭われると言われますが、これはこの世で被った全ての不正義や不正が最終的に完全に償われることを象徴します。同じ節ではまた、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われます。最初のものは過ぎ去ったというのは、今ある天と地が新たに創造される天と地に取って代わられて、今の天と地のもとであった全ての神の意志に反することが消え去って、全てのことが新しくされて、全てが神の意志に沿うものになっていることを意味します。それは死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。

そのような壮大な神の休息の場に向かって、そこに向かう道に置かれた者は神に守られながら歩んでいくことが、エレミヤ書31章で言われます。そこに向かう道は、9節で言われるように「泣きながら(בבכי)、神に助けを求めながら(בתחנונימ)」進まなければならないこともあるくらい、苦難困難の時もあるかもしれない。しかし、同じ9節で言われるように、神が父親としていてくれる位に神に守られるというのが大前提としてある、だからその道は本当は真っ直ぐに延びる平らな道で誰も歩くのが難しいことはない。目の見えない人、足の不自由な人、妊婦やまさに出産しようしている人といった、普通なら長旅は無理と見なされる人たちも全く大丈夫だ、と言うのです。壮大な休息の場に向かう道を進むというのは、それくらい神に守られて歩むことなのです。

これと同じことが、先月の説教で解き明かししましたイザヤ書35章でも言われていました。そこでお教えしたことは、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持ってこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進む。その道は順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られる道である。万が一この世から去らねばならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道である。そこで天使たちの歓呼の声をもって迎えられる。

先月の説教でも申し上げたのですが、エレミヤ書31章やイザヤ書35章をこのように今の世から次の世への歩みについて言っているなどと言うと異論が出るかもしれません。というのは、これらの個所は一見すると、紀元前6世紀のバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が祖国帰還できるようになることの預言に見えるからです。民の祖国帰還は歴史上の出来事として起こりました。しかし、祖国に帰還した後も民の状態は預言された理想の状態からは程遠いということが次第に明らかになってきます。イザヤ書の終わりの方56章から後を見ると神がまさにそのことを明らかにします。そうすると、民の間でも、祖国帰還を言っているように見えた預言は実は天の神の国への帰還を意味していたのだ、民の理想の状態についての預言も、異民族から解放されて幸せ一杯のユダヤ民族のことを言っているのではなく、罪の問題を解決された人間が神の国に迎え入れられることを意味するのだ、と理解されるようになります。

そうすると、じゃあのバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できたことは何だったのか?それは預言とは無関係なことだったのか?いいえ、そういうことではありません。歴史上起きたことは、将来起きる全人類的な祖国帰還の何かミニチュア模型のようなものなのです。神は将来、全人類的な祖国帰還を起こすが、その意志と力を持っていることを小手調べとして歴史の中で示してみせたのです。将来起こる預言の本当のこと、これが本当に起こるのだとわからせるために小手調べのようなことをした例は、イエス様にもあります。死んでしまったラザロとヤイロの娘を生き返らせた時がそうです。イエス様はその者たちは死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。その時イエス様は、死というのは復活の日までの眠りに過ぎず、その眠りから起こす力を自分は持っているのだ、ということを、復活の日も最後の審判もまだ来ていない段階で前もって奇跡を通して示されたのです。

この世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きるというのは、神との結びつきを持って生きることそのものですが、そこではイエス様を救い主と信じる信仰があってこそ神との結びつきが持てることを忘れてはいけません。イエス様を救い主と信じる信仰は特に、二つの人生の間を移行する時に決定的に重要です。ヘブライ4章12ー13節で、神の言葉がどれだけ鋭く見抜いて裁く力があるかが言われています。最後の審判の時に全ての人は神の前で何も隠せない、丸裸同然で、神に対して申し開きをしなければならない。お前はどうしてあの時あのようにしたのか、あのようなことを言ったのか、考えたのか、と聞かれて、記憶にありません、が通用しないのです。これは恐ろしいことです。しかし、ここでイエス様を救い主と信じる者は心配無用であるということを思い出しましょう。私たちが至らない者だから、神はひとり子イエス様を身代わりの犠牲にしたことを思い出しましょう。ヘブライ4章13節の後の個所はまさに、そのことを思い出しなさいと私たちの心の目をイエス様に向けさせる個所です。本日の日課は本当はそこまであるべきだったと思います。

ヘブライ4章14ー 16節はイエス様を救い主と信じる信仰がある限り神の御前に立たされても大丈夫であると教えます。イエス様のことをあまり聞きなれない「大祭司」という言葉で呼んでいますが、これは神殿で務めを果たしていた大祭司が人々の罪と自分の罪を神の前で償うためにいろんな儀式を行って、特に動物を犠牲の生贄に供えることをしていた。それに対してこの新種の大祭司は自分自身を犠牲の生贄に供することで人間の罪の償いを果たして下さった。しかも、供されたのは神聖な神のひとり子だったのでこれ以上神聖な犠牲はなく、それで神の目から見てこの犠牲で十分となり、罪の償いのためにこれ以上供するものは何もなくなってしまった。さらに私たちにとって大きな慰めになるのは、この自分を犠牲に供した大祭司は神のひとり子で神と同じ存在でありながら私たち人間と同じようにこの地上に生きて同じような試練を受けた。だから、私たちの辛さや苦しみもちゃんとわかってくださっている。だから、罪がもとで私たちの心に神への恐れが生じたとき、また困難や苦難の中で誰もわかってくれない助けてくれないという気分に陥った時、この大祭司のもとに跪きなさい、すがりつきなさい、そうすれば必ず神から助けと導きを得られる、そう教えています。最後にこの個所を引用して、本説教の締めにしたく思います。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちは公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「救われるために何をしなければならないか?」トゥマス・ルッカロイネン兄(ヘルシンキ大学神学部学生)、通訳:吉村博明 宣教師

下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聴くことができます。説教の後は、フィンランドのヤンググループ”ミッション ポシブル”がゴスペルソングを日本語で歌います。

 

説教「神の創造の秩序と結婚」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章1ー16節

主日礼拝説教2018年10月14日 聖霊降臨後第二十一主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 本日の福音書と旧約聖書の日課は、男女の関係について人間の造り主である神はどうあるべきと考えておられるか、ということを教えています。福音書の個所で、ファリサイ派の人たちがイエス様を試そうとして質問してきました。夫が妻を離縁することは許されるか、という質問でした。ファリサイ派というのは当時のユダヤ教社会の宗教エリートで律法の規定をとても重んじて自分たちこそ天地創造の神の意志をしっかり守って生きていると思っていました。イエス様は彼らの律法の理解が神の意図するものと違っていることをいつも指摘するので、ファリサイ派はイエス様を排斥しようと企むようになっていました。

ファリサイ派がイエス様を試すために質問したというのは、旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて家から追い出してもよいという規定があることによります。モーセの律法の規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃に、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は行為で犯していなくとも心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。さらに離縁状も相手が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか、離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒を勝手に厳しく解釈して人々に不安を与えているのではないか、今それを公衆の面前で明らかにしてやろう、そういう魂胆なのです。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対して、イエス様は質問者の魂胆はお見通しでしたが、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のもとから送られた神のひとり子として父である神の御心を明らかにします。モーセが離縁状の規定を定めて離婚を認めたのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮してそうしたのだ、と。私たちの新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か意地っ張りとか、妥協しないというような、そんなに悪い意味には捉えられないのではないでしょうか。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どんな状態かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下そうとして、民の心を一層「かたくなにせよ」、それで神の御心を見たり聞いたりできないようにせよ、と言うところがあります。それと同じことで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになって、神に背を向けて、神の御心を知ろうともわかろうともしない状態です。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心だとわかるのかというと、それは神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれたギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言われます。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した男と女、つまり父と母から離れて父と母のように一緒になることで、その一緒というのは神の目からすれば融合と言っていいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の御心ならば、一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間の心にあるからだ、とイエス様は明かします。心のかたくなさがあるため、創造の秩序に現われる神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、自分の好みや都合でもう一緒にいたくない程度で書くものではないと言うのです。離縁状は認可されてはいるが、その発動は神の創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時できるというものです。創造の秩序を損なうこととして、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も考えてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、今度はそれが神の創造の秩序を損なうことになるので、離婚はしてはいけないということなのです。

そのようなイエス様の方針は、弟子たちから見ても厳しすぎるようでした。マタイ19章を見ると、イエス様とファリサイ派のやり取りを聞いていた弟子たちが、夫婦の結びつきはそこまでして維持しなければならないのなら、結婚しない方がましです、などと言います(マタイ19章10節)。イエス様の弟子のくせに何を情けないことを言うか、と思わせますが、やはり弟子とは言え、離婚の可能性は開かれていたほうがいいと思うくらい、当時も夫婦の関係はいろいろ大変だったことをうかがわせます。イエス様が離縁状の条件をとことん狭めたことからも伺えるように、実際には重大な理由なくしても離縁状を書いて離婚することは結構あったのかもしれません。それも、人間の心がかなくなであることの現れです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れること、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の御心をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?キリスト信仰が主眼とするところを思い出しましょう。それは、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償うために十字架にかけられて死なれた、彼の身代わりの犠牲のゆえに神から罪の赦しを得て生きられる道が人間に開かれたということです。

人間はこの良い知らせを聞いて、イエス様は救い主とわかって洗礼を受けると、罪の赦しを頂いた者としてそれに恥じない生き方としようという心になります。もう神に背を向けて生きるのはやめよう、神の御心を知って、それに沿うように生きようと志向します。夫婦も、自分は神から罪の赦しという大きな赦しを頂いていることがわかれば、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、赦しを願うこと、赦しを与えることがどれだけ大切なことかはイエス様の十字架を思い出せばわかるはずです。自分の受けた大きな赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせはどうやってするのかと言うと、それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞いたり、また自分で聖書を繙いて自省することです。そして神に祈り、自分の非力さや未熟さを直してくれるようにお願いすることです。

 

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

 本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことが言われます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」ここで、日本語で「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は何を意味するか見てみますと、十戒の第6の掟は「姦淫」、本日のマルコの個所では「姦通の罪」という言葉が使われますが、双方とも同じことを指しています。旧約聖書のヘブライ語の言葉נאף、新約聖書のギリシャ語μοιχευω, μοιχαομαιがもとにありますが、これらの言葉のドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳はとても単純明快で「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉で訳されています(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の訳はadulteryで、ドイツ語等に比べたら一目で意味がわかりませんが、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語で姦淫とか姦通と言っているものは、最近の日本で新聞・週刊誌の報道で聞かない日はないと言えるくらいよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのはどうして驚きかと言うと、正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのではと思われるからです。しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、神の創造の秩序から見てそうなるからです。神の創造の秩序とは何か、もう少し詳しく見てみましょう。それは、本日の旧約聖書の日課である創世記2章18節から24節までの個所で述べられていることです。イエス様はファリサイ派とのやり取りの中でこの個所の最後の24節を引用していますが、この個所全体を念頭に置いて話されたのは間違いないでしょう。

創世記2章18節から24節は、人間の女性が造られた経緯が記されています。2章の初めに男性が土から造られたことが記されています。最初人間はこの男性が一人だけでした。神は、彼が独りでいるのは良くない、彼に「合致するような助け」(עזר כנגדו)を造ろう、と言って、まず土からいろんな動物を造って彼の前に出します。男性が動物たちにどんな名前をつけるか、それを神が見るというのは、男性が動物たちの中からそのような助けを見つけるかどうか見るということです。男性は動物たちに名前を付けましたが、「合致するような助け」は見出すことはできませんでした。それなら、と神は今度は、男性の骨や肉を材料にして、動物たちとは違うものを造ります。男性のあばら骨一本から女性を造ったような書き方ですが、初めはそうだったかもしれないが最終的にはいろんな骨や肉も材料になったようです。新共同訳で男性が女性のことを「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っていますが、ヘブライ語はもっとはっきりしていて、女性の骨は「わたしの骨からである」(עצמ מעצמי)、女性の肉は「わたしの肉からである」(בשר מבשרי)、と言っています。女性を見た男性は、これこそ自分に「合致する助け」と見なしました。

あと新共同訳に男性の言葉の下にカッコがあって「イシュ」、女性には「イシャー」とカタカナで書かれていますが、これは何かと言うと、「イ(-)シュ」(איש)は男性を意味する単語で、「イ(ッ)シャー」(אשה)はそれの女性形の形です。ドイツ語の名詞には男性、女性、中性と性別がありますが、それと同じことです。男性「イ(-)シュ」が自分の一部を材料にして造られたものを自分に「合致する助け」と見なし、これに「イ(-)シュ」を女性形にした形「イ(ッ)シャー」という名前を付けたということです。

さて、女性が男性の「助け人」として造られたとか、男性の骨や肉を材料にして造られたなどと聞くと、聖書は女性を男性の付属物にしていると怒られてしまうかもしれません。しかし、女性が男性を助けられるためには、男性も女性を助けなければできません。例えば、仕事をする女性が家事育児全部任されて男性が仕事だけ専念してよいということになったら女性は潰れてしまい、助けるどころではなくなります。最初は男性の助けのために女性を造ると言いますが、いったん造られたらお互い助け合う関係になるのではないでしょうか?(ヘブライ語の言葉כנגדוにそんな相互性を含めてもいいような気さえするのですが、専門家はどう思うでしょうか?)それから、男性の骨と肉を材料にしているということも、もし男性が女性を低くみたら、それは材料がその程度だったと自分で認めることになってしまうので、男性は女性に対してあまり大きな顔をしない方がいいということになります。

そこで、男性と女性が自分たちがそれぞれ生まれ出てきた男性と女性、つまり父と母のもとを出て一緒になることを一体になる、一つの肉になると言います。同じ肉と骨がもとにあるので分離したものがまた一つになることが結婚ということになります。それで、離婚は一つに融合していたものを二つに分かれてしまうことと言ってよいでしょう。姦淫とは二つのものが融合してできたものを二つ以外のものが入り込んで融合が壊れてしまうことと言ってよいでしょう。そうすると、離婚したらもう融合もなくなっているのだから再婚は姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は、人間の目では別々になって解消したとしても、神の目からすれば、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は消せないということのようです。だから、別れても新しい相手と一緒になると、神の記録にある一つになったものに対して外のものが入り込んでくる、つまり姦淫と同じことになるというのです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にしたくないという気持ちになるかもしれません。あるいは、自分の信じたい神はそんな偏狭ではない、もっと気前がいい方だ、という考えになってしまうかもしれません。でも、それは創造主の神に対して心をかたくなにすることになってしまうのです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは実は神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様は何をしたでしょうか?そういう厳しいことを言って、さらには心の中で描いただけでも同罪だと言ったのです、そこまで厳しいことを沢山言って、その通りに出来ない人たちに後ろめたい気持ちを与えたり不愉快にさせて、自分は偉そうにして出来ない人たちに軽蔑の眼差しだったでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持っている神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間があまりにも無防備になっている、この状態をなくして人間が神から優しく守られて生きられるようにしよう、それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと罰を人間の代わりに受けられたのです。

イエス様を救い主と信じるところには、神の罪の赦しがあります。何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂く者として生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神から守られて生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて何が神の意志に沿うことか考えるようになります。そのようにして神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しの救いに沿うものに変えられていくと思います。

 

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

 最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で結婚について教えていますが、読むと未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。加えて、結婚しても罪を犯すことにはならないとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて最後の審判や死者の復活が起きる日がもうすぐやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ24章44節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。贈られる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは痛みを伴います。その時こそ、キリスト信仰には「復活の再会の希望」があることを思い起こす時です。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

「いずみの会」合同修養会早朝礼拝説教「永遠の命の約束」吉村博明 宣教師 2018年10月8日(国民宿舎「サンレイク草木」中庭にて)

 説教題「永遠の命の約束」

 聖書の箇所 第一ペトロ1章22-25節

「あなたがたは、真理を受け入れて、
 魂を清め、偽りのない兄弟愛を
 抱くようになったのですから、
 清い心で深く愛し合いなさい。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、
 朽ちない種から、すなわち、
 神の変わることのない生きた言葉によって
 新たに生まれたのです。

 こう言われているからです。
 「人はみな、草のようで、
 その華やかさはすべて、
 草の花のようだ。

 草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に
 変わることがない。」

 これこそ、あなたがたに福音として
 告げ知らされた言葉なのです。」
(新共同訳)

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.この聖句は、日本人をおやっと思わせてちょっと立ち止まらせる、そんな聖句ではないでしょうか?「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ、草は枯れ、花は散る」などとは、中学の国語の授業で暗記させられた平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」を彷彿させ、皆さん共感を覚えるのではないでしょうか?特に日本の場合は桜の花がこの、美しいもの華やかなものはいつまでも続かないという思いを強めるのに一役買っていると思われます。加えて、散りゆく桜を見て美しさ華やかさは儚いものだと思っているうちに、いつしか逆に儚いもの散ること自体が美しいのだと言い換えられて強調されるようになる、そういうことが戦争中の日本にはあったのではないでしょうか?(最初の特攻隊の部隊の名前に本居宣長の「山桜」短歌の言葉が使われたり、ある特攻兵器は「桜花」と名付けられたり、軍歌の「同期の桜」などに表れていると思います。)

そういう日本人が共感を覚えるようなことを言った後で、この聖句は突然、共感者の夢を覚ますようなことを言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」ギリシャ語の原文を直訳すると、「主の言葉は永遠にとどまる、残る」(μενει εις τον αιωνα)です。つまり、草や花そして人間のように枯れたり散ったりせず、ずっとずっと永遠に残る、です。この聖句はイザヤ書40章8節の引用でもあります。ヘブライ語の原文を直訳すると、「永遠に続く」とか「永遠に効力を持つ」(יקומ לעולמ)です。人間が持てる華やかさも、またそれを持つ人間自身も永遠には続かない、草や花のように枯れたり散ったりして終わってしまう。もっともななことです。ところが、この聖句は、私たちの目と心をそこに止めっぱなしではいけない、と言わんばかりに、「しかし」(δε)と言って、神の言葉は永遠に続く、永遠に残る、永遠に効力を持つ、と言います。そこに目と心を向けよ、と言うのです。この聖句は限りある人間に、特に限りあることに思い入れが強い私たち日本人に何を呼び掛けているのでしょうか?

 

2.まず、「神の言葉は永遠に続く」とはどんなことか考えてみましょう。私がこの世から死んだ後も聖書は読み続けられるでしょう。その意味で、聖書が世代を超えてずっと読み継がれていくということでしょうか?そうではありません。聖書の立場では、この世というものは天地創造の神に造られて始まった、そしてそれには終わりがある、その時新しい天と地が創造されて今のものに取って代わるということがあります。森羅万象の有り様がかわるので、聖書を繙くという今の世の人間の営みはもうありません。なぜなら、聖書の立場では、今の世が新しい世に取って代わる時、死者の復活が起きて、神の御許に招かれる者は栄光の復活の体を着せられて永遠に神の御許に戻るということがあるからです。その時、神が聖書の御言葉を通して約束していたことは、もう繙いて読むことではなくなって、実現したものになって見たり味わったりすることになるのです。

そういうわけで、神の言葉が永遠に続くというのは、それが神の揺るがない約束としてあって、今の世を貫いて新しい世にて実現する日を待っている、まさに天地創造の神が約束したものなのでそれは神の側で忘れられずに実現する日までちゃんとある、ということです。

このように神の言葉はというのは全て、今の世に代わる新しい世の創造、死者の復活、永遠の命についての神の約束です。それだけではありません。第一ペトロの聖句に引用されているのはイザヤ書40章6節から8節までですが、7節をみると、「草は枯れ、花は散る」と言った後で、「なぜなら、神の息吹が吹き付けたからだ」と言っています(「神の息吹」は「神の霊」、「神の風」(רוח יהוה)とも訳すことが可能です)。この部分はペトロの引用では省かれていますが、イザヤ書では、枯れること散ることが神から罰を受けたためであると言われているのです。罪の汚れを内に持つ人間は誰もそのままでは神聖な神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう存在でしかありません。

しかし神は、人間が罪から離れて最後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、自分のもとにいて完全に安全、安心でいられるようにしてあげよう、まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そしてイエス様を十字架の上で人間に代わって罪の償いをさせて死なせ、彼の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。さらにイエス様を死から復活させることで永遠の命の扉を人間のために開いたのです。人間はこの「福音」を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになったのです。順境の時も逆境の時も変わらずに神に守られて励まされて慰められて時には叱咤されて、歩むことになったのです。

第一ペトロの聖句は、永遠に続く神の言葉のことを「福音として告げ知らされた言葉」であると言います。イザヤ書の時代ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ預言されただけでした。預言されたことが実際に起こったおかげで、神は私たちに永遠の命の約束も必ず果たして下さるのだとわかるようになりました。こうしてイエス様の十字架と復活の「福音」と永遠に続く神の言葉は切っても切れない関係になりました。イエス様の福音を宣べ伝えることは、神の永遠の命の約束は本当なのだと宣べ伝えることになるのです。

 

3.さて、この世には枯れない散らない、永遠に続く神の言葉というものがあることがはっきりしました。それは、イエス様の十字架と復活の「福音」に裏打ちされた、神の永遠の命の約束です。この約束が果たされると信じて生きることは、永遠に続くものがあると信じることになります。それだけではありません。第一ペトロの聖句では、「人間」は草のように枯れると言っていますが、ギリシャ語では草のように枯れるのは「肉」(σαρξ、בשר)です。そして、神の言葉を受け入れて聞き従う者は「新しく生まれた者」と言います。つまり、人間の有り様が肉だけではなくなって、霊が加わるのです。それで、永遠に続くものがあると信じるだけでなく、永遠そのものに与ることになるのです。枯れたり散ったりするものばかりのこの世にあって、朽ち果てないものに属して生きることになるのです。

 それでは、永遠に続くものを信じ、永遠そのものに与って生きることは、日本人らしくないでしょうか?また、咲いている時間が短いゆえに美しさが一層際立って見える桜の花を美しいとは感じなくなってしまうでしょうか?

そういうことにはならないと思います。というのは、キリスト信仰者は、桜の花が短く咲いて散ってしまうことにも、永遠を司る神の御心が表れているとわかるからです。花の後は葉桜になって、花ほど美しくないかもしれないが、その新緑はゴールデンウィークの頃までは陽光の中でキラキラ輝きます。その後は緑濃くなって夏を越し、秋には散って、木枯らしの冬を越して、また3月終わりに芽が出てきて見る見るうちに開花します。花が散るというのは、一つの素晴らしい段階が終わって次の素晴らしい段階の始まりです。ひっそりと佇む段階もあるが、その後にまた素晴らしい段階が来る。創造主の神は桜にそのような習性を与えたのです。このように季節に応じた桜の有り様に神の御心を知ることができます。もちろん、樹齢長い桜と言えども、神が与えた寿命を満たせば枯れてしまいます。それでも寿命と季節の有り様を与えた神の御心はそのままで変わりません。

永遠に続くものを信じ、それに与って生きることが日本人らしくないとすれば、何が日本人らしいでしょうか?その日本人らしさの中では、希望や喜びは何でしょうか?

キリスト信仰者の希望や喜びは、永遠に続く神の言葉を信じ、永遠の命に与ることにあります。神は、人間が御心に沿って罪から離れて生きるようにと、御言葉を与えました。さらに御言葉を正確にわかってそれに基づいてこの世を生きて、永遠の命への道を歩めるようにと、イエス様を送られました。そういうふうに言うと、キリスト信仰者は永遠の命ばかり考えてこの世で生きることはどうでもよくなってしまうのか、と思われてしまうかもしれません。いいえ、そんなことはありません。第一ペトロの聖句は永遠に続く神の言葉について述べていますが、同時に愛し合いなさいと勧めていることにも注目しましょう。イエス様の福音に裏打ちされた神の言葉を受け入れ聞き従う者は、神から頂いた恵みの大きさにただただ恐れ入りひれ伏してしまうので、もう些細な事、利己的な思いや下心、他者との比較などは馬鹿馬鹿しくなって、そういうものから心が洗われてしまいます。その清められた状態にふさわしい生き方は愛に生きることだと、ペトロはまだ気づいていない信仰者に思い起こさせているのです。

ところで神の御心は、神の創造の中にある自然の営みにも表れています。その中には、人間にとって冷酷な自然もあります。それに挑むと命を落としてしまうような自然です。瞬間風速60メートルの暴風の中を、神が守ってくれるから大丈夫だ、などと言って車で出かけるのは、神を試すことになります。他方で、人間に喜びと感動を与える美しいものもあります。昨晩、皆さんと一緒に星野富弘さんの半生記を扱ったビデオを見ましたが、その中で彼が、体が自由な若い頃はよく山に登り花なんかあまり目を留めなかったが、体が不自由になって花が身近な自然になって以来、花には「手の込んだ美しさがある」とわかるようになったと言っていました。まさにこのことです。この世で永遠の命への道を歩む私たちは、神の御心が働いている美しいものをもっと見つけようではありませんか。何が神の御心が働く美しいものかは、御言葉に基づいて生きていけばわかるはずです。御心が働いているとわかれば、美しいものから慰めと力づけを得られます。神はそのために美しいものを備えて下さったのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「キリスト信仰にあって他者に仕えるとは?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章30ー37節

主日礼拝説教2018年9月30日 聖霊降臨後第十九主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 先週の福音書の個所はマルコ8章27ー38節でしたが、それはマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを先週の説教でお話ししました。それまでガリラヤ地方とその周辺地域で活動していたイエス様は、ガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があって、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について預言します。9章に入ると「高い山」に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

南下途中のイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことに本日の個所でイエス様は自分が同地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいでしょう。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者のことですが、そのメシア理解についてイエス様が自分自身について考えていたことと人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との結びつきを回復して、人間がその結びつきの中でこの世を生きられるようにする、また人間がこの世から去ることになってもその時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようにする、そういうことを実現する者がメシアでした。まさに人間の救い主です。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の子孫がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書のあちこちにそういう理解ができる預言があったからですが、天地創造の神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかしながら、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の深い本当の意図を理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことです。メシアが神の意図に沿う正しい理解がされるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の人たちはついに自分たちの解放者がやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのです。

 

2.弟子たちのメシア・イメージの混乱

 ところで、ガリラヤ地方に戻ってきたイエス様一行が、まだガリラヤ湖畔の町カペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。先週の福音書の個所で初めてこの預言が語られました。その時は、驚いたペトロがそんなことはあってはならないと否定して、イエス様からはお前は人間の栄光だけを考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然、と叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄だったことを露呈したのです。この二度目の預言の時も、弟子たちはその意味をまだ理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理だったのです。

この時、弟子たちの間でイエス様に従っていくことは一体何なのだろうかという疑問が起きたと考えられます。この方はエルサレムに入城したら神の偉大な業を行って、天から降ってくる天使の軍勢と一緒に占領者と傀儡政権を打ち倒し、民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、まさにそういう方と信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?新たに指導を開始して民族解放運動が新局面に入るということなのか?こんなふうに、弟子たちの抱いてきた民族解放や英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合いますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

 

3.キリスト信仰にあって他者に「仕える」とは?

  さて、カペルナウムの滞在先となった家の中でイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について教えます。これは、人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節までの3節に凝縮されています。まず35節で言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

人間の目から見たら、偉大な人、先頭に立つ人というのは、皆から尊敬されたり畏怖されたりして皆に仕えられる人です。ところが、イエス様に言わせれば、他人に仕えてもらう者ではなく、逆に他人に仕える者の方が神の目から見て偉大で先頭に立つ者である、ということなのです。人間の目から見たら逆ですが、神の目から見たらそうなのだ、というのです。

他人に仕えることで神の目から見て偉大な者、先頭に立つ者になったのは、まさにイエス様でした。イエス様は神のひとり子として本来ならば天の御国にて神の栄光に包まれていればよいお方でした。ところが、人間が神に対する不従順のために罪を持つようになってしまって神との結びつきを失ってしまった、そのために神は人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の乙女マリアを通して生まれるという仕方で送られました。それで、人間の心と体と魂を持てて、私たち人間の悩みや苦しみをわかることができたのです。そして最後は、神からの罪の罰を全部人間の身代わりとなって引き受けて十字架の上で死なれました。人間は、この神のひとり子の身代わりの犠牲が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この犠牲に免じて神から罪の赦しが得られ、そのようにして神との結びつきが回復することとなりました。

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。私たち人間にこの救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に包まれたひとり子でありながら、私たち人間と同じ姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死と苦しみを受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えたのです。まさにこのことが使徒パウロの「フィリピの信徒への手紙」2章の中で述べられています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです」。(6ー11節)

このようにイエス様は、もともとは全ての人に先立つ方だったのに全ての人の後になって全ての人に仕えて、再び先頭に立つ者となられたのです。イエス様は弟子たちに、先頭に立つ者になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は先頭に立つ者にはなれない、と教えました。これはどういうことでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって神から罪の赦しを得られるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しと神との結びつきを回復してくれた犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間がひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいません。そういうわけで、人間を罪の支配状態から贖い出す犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないのです。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことでしょうか?

キリスト信仰にあって他者に「仕える」というのはどんなことかを考える時、使徒言行録6章の出来事が参考になります。エルサレムで最初のキリスト信仰者たちが共同体を形成しつつあった頃でした。12弟子は祈りや神の御言葉を教えるだけでなく、礼拝・集会に来た人たちの食事のことも監督しなければならない状態でした。そこで礼拝や教えに専念することができるように、つまり信仰者の霊的な必要を満たすことに専念できるように、食事のような信仰者の体の必要を満たすことに専念する人たちを別に選出したのです。使徒言行録6章に出てくる「仕える」という言葉は、このように神の御言葉に仕えることと(τη διακονια του λογου4節)、体の必要を満たす仕え(διακονειν τραπεζαις 2節)の双方に関係してきます。

そういうわけで、キリスト信仰にあって「仕える」とは、既にイエス様を救い主と信じている人たちの間では、その信仰にしっかりとどまれるように、イエス様のおかげで回復した神との結びつきを失わないで生きられるように、霊的・肉的に支えることであると言うことができます。そう言うと、クリスチャンは相手が信仰者でなかったら「仕え」ないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。天地創造の神の意志は、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようにすることです。それなので、相手が信仰者でない場合は、その結びつきを回復できるようにすることを念頭に置いて助ける、仕えるということになります。そう言うと今度は、それじゃ、宗教に勧誘するための人助けではないかと言われてしまうかもしれません。確かに、神との結びつきの回復など持ち出さないで、人助けや仕えをすることは可能です。しかし、キリスト信仰の場合は、どうしてもイエス様の十字架のおかげで神との結びつきに道が開いたということがあるので、どうしてもそれが関係せざるを得ないのです。それに、物質的な支援は万能ではなく、霊的な支援にこそ計り知れない力が秘められているということがあると思います。このことは、イエス様の言葉「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から語られる全ての言葉によっても生きる」(マタイ4章4節)、これを思い巡らすと見えてくるのではと思います。自分の造り主との結びつきは決して失われない、という確信があれば、たとえ物質的な支援に限りがあったとしても絶望状態にはならないのではないでしょうか?キリスト信仰の支援というのは、そういう確信にかかわるものです。

 

4.「イエス様の名前に依拠して」

 全ての人に仕えること、これはキリスト信仰の場合、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、霊的に肉的にそう出来るように支えてあげる、ということを述べてまりました。そのことが続く36節と37節のイエス様の行いと教えに結びついています。行いとは、子供を弟子たちの前に立たせて抱いたことです。教えとは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」です。このイエス様の行いと教えは、どうキリスト信仰者の「仕え」と結びつくのでしょうか?それを見ていきましょう。

イエス様は、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞(εναγκαλισαμενος)は、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。どちらでも良いではないかと思われるかもしれませんが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちの前に子供を連れてきて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れること、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れること、これは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。イエス様は、子供を受け入れることがそういうキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、それで神の目からみて先頭に立つ者になる、と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方でしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。英語、ルター訳ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはまだまだわかりにくいです。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではない。また他ならぬ自分が善意を持って慈善をするというような自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなんかでもない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配状態から贖い出して下さった方です。そして死から復活されたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名です。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、まさに受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように神との結びつきを回復してこの世を生きられ永遠の命に至る道を歩めるようにすることです。つまり大人と全く変わらぬ神の御国の一員に受け入れて一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人と同じくらいに、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。

このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢います。また、一度は受け取って歩み始めたが、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人もいます。その意味で、イエス様が弟子たちの前で立たせて抱きしめるのは別に子供でなくてもよかったのですが、やはり弟子たちが「偉大なものは誰か」ということに関心が向いてしまって「仕える」ということを忘れてしまっていた時なら、小さい子供を抱きしめるのを見せるのは効果的だったでしょう。このイエス様の抱きしめが、「仕える」ことを目に見える形で表したのです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様に抱きしめられた者、抱っこしてもらった者ですので、お互いに信仰を支えあうようにしましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るように、道に戻ることが出来るように祈りましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする機会が来ることをよく注意し、もしその機会が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい言葉を与えられるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「内なる古い人と新しい人の戦い」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書8章27ー38節

主日礼拝説教2018年9月23日 聖霊降臨後第十八主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書は、聖書を読まれる方ならおそらく誰でも知っているイエス様の有名な教えです。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
マルコ8章34ー37節

これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、まさに命は地球より重いということを教えているんだな、と。そうすると、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、これとどう結びつくでしょうか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのか?さらに、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?そうすると、最初に言っていること、イエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負え、というのは、殉教の道を進めと言っているように聞こえてきます。一方で、命は地球より重いなどと言っておきながら、他方で、殉教で命を落とすのOKというのは矛盾しているのではないか?

聖書を読むと、一つのまとまった個所の中にある個々の教えはそれぞれ理解や納得できるが、その個所全体でみると矛盾だらけでどう繋がるのか?と思わせることがあります。今日の個所の場合、どうしたらよいでしょうか?せっかくイエス様が教えたことだからどれも大事ということで、全体を見ないで個々バラバラで見ることに徹するのが一つのやり方かもしれません。例えば、命の大切さを教える時、イエス様が命は地球より重いとおっしゃていることだけを見て、自分を捨てて十字架を背負えとか福音のために命を失えと言っているところには目をつぶる。また、イエス様が殉教の覚悟を説いておられると言う時は、命の大切さの教えには目をつぶる。必要に応じてある箇所をクローズアップして、それに合わない個所は脇に置いておく。そういうやり方しかないのか?全体を通して意味が通るということはないのか?果たして本日の福音書の個所は、全体を見ると矛盾があるのかどうか、少しじっくり見てみましょう。

2.「メシア」とは?

本日の福音書の箇所は命についての教えだけではありませんでした。命のことは34節から38節までですが、本日の個所はその前もあって27節から33節はイエス様とは何者かということが述べられています。この両方を合わせて全体を見て、筋が通るかどうか見ようというのですから、大変です。

さて、このマルコ8章27ー38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でその地方の「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させます。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点です。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 それでは本日の箇所の前半、8章27節から33節までを見ていきましょう。まずイエス様は、人々は彼のことを何者と考えているか、という質問をします。人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが弟子たちの答えから明らかになりました。それに対して、ペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで注意しなければならないのは、「メシア」とは何者かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。それならイエス様はなぜメシアである自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?また、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてそんなに怒ったのか?以下そうした疑問に答えていきましょう。

まず初めに「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれて聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束に基づき(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を指すようになります。(それ以外の使い方もあります。イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)

紀元前6世紀にユダヤ民族の王国は滅びますが、その後、ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王メシアが現れるという期待が高まります。これがイエス様の時代に近づくと、メシアとはこの世の終わりに現れてユダヤ民族の解放だけでなく全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらない、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

ヘブライ語のメシアという言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとは、これはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名にくっつけたということです。

 話が脇道に逸れましたが、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちにそのことを誰にも話すなと命じますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前で無数の奇跡の業も行い、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人たちを運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と命じたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるでしょうか?イエス様とは本当は、神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた方です。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人間救済計画の矮小化です。それだけではありません。当時イスラエルの地を占領していたローマ帝国は王国復興を企てる反乱者にはいつも神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたし、福音書に記録されているような出来事は起きなかったでしょう。

 それから、ペトロのメシア理解もおそらく、民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。だから、イエス様が迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、ペトロは王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのでしょう。

それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないでしょうか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同じになってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。

3.神の人間救済計画

 ここで、この神の計画というものについて少しおさらいをしましょう。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られたものであるということが大前提になっています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯し、罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間が神との結びつきを回復してその結びつきの中で生きられるようにしよう、たとえこの世から死ぬことになってもその時は造り主である自分のところに永遠に戻れるようにしてあげようと決めました。これが神の救いの計画です。この救いの計画はいかにして実現されたでしょうか?罪が人間の内に入り込んで、神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪を除去しなければならない。しかし、それは人間の力では不可能なことでした。マルコ7章の初めにイエス様と宗教指導層の間の有名な論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争です。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世で神と結びつきを持って生きることも、神のもとに戻ることもできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、人間が神に対して負っている罪という負債を全部ひとり子に背負わせて、罪の罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせる。まさに、ひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦す、というものでした。その時人間の方が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうすることで人間は神から罪の赦しを受け取ることができるようになりました。神から罪の赦しを得られたということは、神との結びつきが回復したことです。そうして人間は神との結びつきの中でこの世を生きられるようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

人間は洗礼を受けることで、まだ罪を内に持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。この衣にしっかり包まれて自分から手放さない限り、神は私たちをイエス様の清さを持つ者とみて下さり、内にある罪には目を留められません。このようなやり方で結びつきを回復し保って下さる神に驚きと感謝の気持ちが生まれます。罪が内にあるのにもかかわらず、清いものと見て下さることに気恥ずかしさと畏れ多さを感じます。まさにここから、このような神の意志に沿うように生きなくてはという心が生まれます。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するがごとく愛するという心です。今月の使徒書の日課はヤコブ書ですが、神から罪の赦しを受けた者がすべき隣人愛について教えています。先週は、怒りに身を任せるなとか、舌を制して言葉を選べとかありました。本日の個所では、キリスト信仰者の間では立場や地位で人を区別するなということを教えています。金持ちの信仰者を優遇し、貧しい信仰者を軽く扱うことはしてはいけない、皆同じ扱いにしなければならない、ということです。人間誰でも、貧しい人は自分に何の益ももたらさないが、金持ちや地位ある人はひょっとしたら、という気になります。キリスト信仰にあっては、相手が益をもたらすかもたらさないか一切見ないで同じように親切にしなさいということです。金持ちや地位ある信仰者も、自分になされる親切さが貧しい人に対するものと同じであることを不満に思ってはいけない、それは当たり前のことと思わなければならないということです。

ここで注意しなければならないことは、怒りに身を任せないとか、舌を制するとか、皆同じ扱いであることを受け入れるとか、他の隣人愛の例も含めて、それらは頑張って気合を入れて達成して、神様やりました!と、まるで神に認めてもらうために頑張るものではないということです。そうではなくて、自分には神の意志に反することが沢山あって、それは本当はいつの日か神の御前に立たされて咎められる根拠になる、そういうものがあるにもかかわらず、神はイエス様の犠牲に免じて咎めないと言って下さる。イエス様の白い衣を纏っている者として見て下さる。本当の自分とはかけ離れているが、そのかけ離れた方が本当の自分であるとおっしゃってくれている。それなら、これからはそれに合わせるように生きていかなくては。被さられた白い衣にふさわしい生き方をしなくては。キリスト信仰にあっては、隣人愛とはこのように神の罪の赦しを受けた後に生じてくる実のようなものなのです。赦しを受けるために、神に目をかけてもらうためにする業績ではないのです。赦しは既に受けているのです。

気合を入れて達成するぞ、というものではなく、生じてくる実のようなものですので、一つ一つこなしていくような時間をかけて成長するようなことになります。これは、ルターが言うように、キリスト信仰者のこの世の人生というものは、洗礼を通して植え付けられた霊的な新しい人を日々成長させ、肉に結び付く古い人を日々死なせていくプロセスであるということです。怒りに身を任せてしまうこと、舌を制することができないこと、地位や立場で人を選別し、自分もそれを期待すること等などを満載している肉に結び付く古い人、これを神から頂いた罪の赦しとイエス様の白い衣を重しにして、押しつぶしていくプロセスです。一回つぶしてもまた出てきたらまたつぶすという繰り返しです。このプロセスは、信仰者がこの世を去って肉の体を脱ぎ捨てて復活の日に復活の体を着せられる時に終わります。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者はその時完全なキリスト信仰者になるのです。

4.内なる古い人と新しい人の戦い

 以上、神の救いの計画について述べてまいりました。本日の福音書の個所に戻りましょう。イエス様の弟子たちは、彼にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒し、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する、そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、起きたことは実はユダヤ民族を超えて全人類にとって重大なことだったのだ、旧約聖書にあった一民族の解放を言っているように見えた預言は実は全人類の救いを言っていたのだとわかったのです。

以上がマルコ8章27節から33節の内容でした。神の人間救済計画の全容が明らかになりました。誠に壮大な内容です。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみていきましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪の負債を全部請け負って、罪の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことでしょうか?先ほど申しました、キリスト信仰者の人生は、神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくプロセスであるということを思い出しましょう。

「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていく、神の霊に結びついた新しい人を育てていく、そういう生き方を始めることです。捨てるのは古い自分です。それを捨てることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。プロセスですので、この世を去るまでは捨て続けます。「自分を捨てる」と言うと、なにか無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえたり、逆に自分自身を放棄する自暴自棄のように聞こえたりするかもしれません。そのいずれでもありません。そうではなくて、神が与える罪の赦しに包まれて、さらに包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて古い人が衰えて新しい人が育っていく、そのようにして古い人を捨てることです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架とは、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違ってくるでしょう。職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが鈍くなるかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点ではみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(下注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言いました。ここの「命を失ったら」の「失う」と、その前の35節で「命を失う」と二度出てくる「失う」ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う動詞を使っています(35節はαπολλυμι、36節はζημιοω)。36節の動詞(ζημιοω)の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、辞書によっては、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意するものもあるくらいです。「失う」と訳したら、ここのイエス様の教えは、命は地球より重し、になります。「傷がついている、欠陥がある」と訳したら、どうなるでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら、神との結びつきに生きて神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかということに関係することがわかってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」解説的に言い換えるとこうなります。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、神のもとに戻る道を歩んでいない。この世の人生が終わったら全て終わりになる。神のもとに戻る道を歩んでいる者は、この世の人生が終わったら新しい人生が待っている。イエス様を救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえ信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいたからだ。」ここで殉教の可能性が出ますが、そんな極限状況に至らなくても、罪の赦しの福音に立って生きていれば、永遠の命を先取りしているわけだから、その意味で今の命は失っていると言ってもよいでしょう。

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら(傷がついていたら)、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように解説的に言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりに生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手中に収めても何の得があろうか?この世の人生が終わったら全て終わりではないか?死を超えた永遠の命を望んでも、世界中の富を差し出しても永遠の命を買い取ることなどはできないのだ。」

詩篇49篇8ー9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。命は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることもできません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられたのです!神のひとり子イエス・キリストが犠牲の生け贄となって十字架の上で流した血が全世界の総資産をはるかに上回る代価、身代金になったのです。それをもって、人間を罪の支配から解放し、私たちの造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

それですから、兄弟姉妹の皆さん、神はこれだけのことをして下さった方であることを忘れないようにしましょう。そして、私たちがイエス様により頼みながら古い人を日々死なせ新しい人を日々育てていくとき、神は私たちをいつも守り導き助け出してくださることを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(下注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)

説教「イエス様の敷かれた『聖なる道』を進む」吉村博明 宣教師、イザヤ35章4ー10節

主日礼拝説教2018年9月16日 聖霊降臨後第十七主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今年の夏フィンランドに滞在していて、日本のニュースが今までになく多かったことに驚かされました。ニュースというのはどれも自然災害に関するもので、西日本を襲った豪雨洪水や台風、酷暑、それに北海道の地震など、これらは皆様に身近なものだったので、ここで改めて話する必要はないでしょう。滞在先で近所の人たちから、テレビのニュース見たけど君には被災地に親せきや友人はいるのか?と心配の声を何度もかけられました。この場にても被害に遭われた方々、被災された方々に心からお見舞いの気持ちでいることをお伝えしたく思います。

7年前の東日本大震災の時もそうでしたが、こういうことがあると、キリスト教の神と結びつけていろんな疑問が起こります。例えば、なぜ神はこのような災害をくい止めなかったのか?全能の神などと言いながら、本当は力がないのではないか?また、神は我々が悪いことをしたことに罰を下したというのか?それでは、我々はどんな悪いことをしたというのか?こんな被害を被るに相応しい悪をしたというのか?神は憐れみ深い方などと言いながら、本当は血も涙もない存在ではないか?大体そういった疑問です。

ここで、人間に起こる不幸について、特に自然災害がもたらす不幸について、それが果たして神が残酷な心で引き起こすものか、それとも力不足で阻止できないのかどうかについて考えてみましょう。不幸には人間の愚かさがもとで起こるものもありますが、ここでは人間の出来、不出来がもとで起こるのではない自然災害について考えます。

聖書によれば、神は天と地とその間にあるものを含めた一切のもの、まさに万物を造られた創造主です。この万物の中には沢山の法則が働いています。例えば、重力や引力が働いているので私たちはみな地上に足をつけて立っていられるし、月も落ちてきません。光は1秒間に30万キロの速さで進みます。水は0度になると凍り、100度で沸騰します。神が創造した万物にはこういう法則が無数に働いているのです。神はまさにこういう法則が働くように万物を造ったと言ってもよく、これらの法則は万物を万物たらしめる法則なのです。そして大事なことですが、これらの法則は人間が頑張って変えようとしても変えられるものではなく、人間はこれらの法則を超えられないように造られているのです。

そういうわけで、もし海底で二つのプレートがぶつかり潜り合って抑えつけられている方が抑えの限界に達すれば、元に戻ろうとする力が働くのは当然で、いつかは地震を引き起こします。重力その他の自然の法則が働く限り、それは必ず起きるのです。そう考えると、地震というのは、神が何か、ちょっとこの国民に痛い目をあわせてやろうかなどと、その時々の気分で引き起こすものではないことがわかります。神が創造した万物には、万物を万物たらしめている法則が働いていて、法則に見合った条件が全てそろうと地震は起きてしまうのです。条件がそろったにもかかわらず起きない場合は、神が自然法則に影響を及ぼしていることになり、奇跡ということになります。奇跡とは、イエス様が水の上を歩いたことからも明らかなように、自然法則を超えたところに起きます。それで、地震を消滅させたければ、重力その他物理的な法則を変えることができなければなりません。しかし、それは新しい自然法則を作るようなことで、神でもない私たち人間には不可能です。地震に絶対に遭遇したくないという人は、日本列島から出ていかなければなりません。

しかし、ここで生活すると決めた以上は、覚悟を決め、被害を最小限に食い止めるために最大限のことをしなければならない。万が一の時はどのように立ち振る舞うべきか学ばなければならない。地震だけでなく火山噴火や台風も同じです。これはこの列島に住む人なら誰でも共有していることでしょう。とは言え、覚悟を決める、とか、いつも備えていなければならない、というのは落ち着かないものです。あまりいい気はしません。でも、多くの人は日々の営みに心を注いで忘れてしまうかもしれません。あるいは忘れるために営みに集中するかもしれません。ところで日本列島は、温帯モンスーン地帯に位置することによる自然の豊かな恵みがあります。四季の移り変わりに色とりどりの花が伴います。これは、神の創造の中で働く自然法則の別の側面です。それを享受できることは人生を豊かにします。しかし、他方で人生を破壊する自然法則の働きもあります。

人生を豊かにするものと破壊するもの、どっちも確実にあるものです。日本列島で生活する限り、この二つを抱えて生きていかなければならない。豊かにするものだけを見て破壊には心を向けまいとすれば、破壊に遭遇したら全てがお終いになってしまいます。逆に破壊の方に心が向いて豊かにするものが見えなくなったら、生きる意味がなくなります。どのようにこの二つの相反するものを抱えて生きていったら良いのか?最近日本列島を襲った自然災害とこれから起こりうる災害のゆえに、そんなことを考えながら、本日の聖書の個所を読み直してみました。これが最適な抱え方だ、という明確な答えは見つからなかったのですが、こういう方向で考えたらいいのでは、というものは見えてきたと思います。以下それについてお話していきたいと思います。

 

2.イザヤ書全体の中の35章について

本日の聖句の中で旧約聖書の日課イザヤ書35章3‐10節を中心に見ていきます。3節と4節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪を報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。ここで、天地創造の神からの励ましと力づけの言葉が述べられています。さてこの言葉は、人生を破壊するものを恐れる私たちを心を落ち着かせてくれるでしょうか?「敵を打ち、悪を報いる神が来られる」というのが新共同訳の訳ですが、ヘブライ語の原文は「悪に対する報いが来る、被った害に対する償いが来る」意味です。神がやって来て悪を叩き潰すということではなく、神が悪を叩き潰す時がやってくるということです。それがお前たちの救いだ、だからしっかりしろ、と言うわけです。この励ましはどうでしょうか?先ほど申し上げた、人生を豊かにするものと破壊するものを同時に抱えて生きる力を得るには少しかけ離れている感じがします。もう少しイザヤ書35章をみてみましょう。

5節と6節をみると、見えない人の目が開く、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる、口の利けなかった人が喜び歌う、と言っています。これはすぐイエス様が行った奇跡を業を指すとわかります。本日の福音書の個所でイエス様は、耳が聞こえず舌が回らずちゃんと話せない人を癒し、耳が聞こえ話ができるようにしました。目の見えない人が見えるようになる奇跡、歩けなかった人が躍り上がる奇跡は福音書の他の個所に記されています。

6節後半から7節までをみると、乾いた荒れ地が水の潤う大地に変化することが言われています。8節からは、その大地を通る「聖なる道」について言われます。「汚れた者」は入れない道ということですが、誰のことを指すのか?それは、そこを通る人が誰かわかれば、そうでない人のことを言っているのだとわかります。それでは、その道を通る人というのは誰か?9節「解き放たれた人々」、10節「主に贖われた人々」です。ヘブライ語の単語の意味は、両方とも「主に買い戻された人々」です。もちろん「解き放たれた」とか「贖われた」と訳しても同じ意味になります。肝心なことは、主つまり神はその人たちを何から買い戻したのか、何から贖ってくださったのか、何から解き放ってくださったのか、これがわかることです。このことは後に見ていきます。

そうすると道に入れない「汚れた者」とは神に買い戻されていない人を指すとわかります。8節に「愚か者がそこに迷いいることはない」とありますが、ヘブライ語原文を素直に訳すと「愚か者がその道から迷い出ることなない」です(フィンランド語の聖書もそう訳しています)。つまり、神に買い戻されて「聖なる道」を歩く人の中には何か至らない人もいるが、そんな人でも神に買い戻されている以上、その道から外れることはないということです。さらに、その道を通るとき、獅子も獣も襲ってこないというのは、道を通る者は危険から守られているということです。

「聖なる道」を進んだ者たちは、喜びに満ちてシオンに帰り着く、と言われます。シオンとはエルサレムの町を指します。さて、これは一体どういうことか?最初に神は励ましと力づけの言葉を述べ、その根拠に悪に対する報いと被った悪に対する償いの時が来ると言われる。そして、イエス様の行った奇跡の業が述べられ、荒れ地が水の潤う大地に変化し、そこに「聖なる道」が敷かれ、神に買い戻された人たちが危険から守られて、ゴールであるエルサレムに歓呼で迎えられて到着する。なんだか、日本列島にいる私たちにははあまり関係のない話に聞こえます。でも、果たしてそうでしょうか?ここで、このイザヤ書35章の聖句をイザヤ書全体の中でとらえてみます。

イザヤ書はとても重層的な書物です(旧約聖書の書物はみんなそうです)。イザヤ書は大きく分けて三つの部分にわけられ、まず1章から39章までが最初の部分です。ここには、紀元前700年代に活動した預言者イザヤの働きと彼が神から受けた言葉が記されています。イザヤの時代はユダヤ民族にとって一つの激動の時代で、民族は南北二つに分かれていましたが、双方とも天地創造の神の意志に背く生き方をして、その罰としてまず北側のイスラエル王国が大国アッシリアに滅ぼされる。続いて南のユダ王国にもアッシリアは攻撃をしかけますが、イザヤの伝える神の言葉にヒゼキア王が従い、敵の大軍は敗退するという奇跡的な事件が起こります。これが1章から39章までの内容です。本日の35章はここに含まれています。

次に40章から55章が来ます。場面は一変して、イザヤの時代から200年経った後の出来事が出てきます。200年の間に何があったかというと、イザヤの後もユダ王国はしばらく続きますが、やはり神の意志に背く生き方をし、これも罰として大国バビロンによって滅ぼされ、民の主だった者は異国の地に連行されます。「バビロン捕囚」と呼ばれる世界史の教科書にも出てくる事件です。民は半世紀以上バビロンの地で辛苦を味わいますが、そこで神は民の罪の償いは済んだとみなして祖国帰還を約束します。これは、実際にペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしたことで実現します。イザヤ書40章から55章までは、この民の祖国帰還と希望に満ちた将来についての預言が中心になっています。

ところが最後の部分56章から66章になると、祖国帰還した民はまだ約束された理想の状態になっていないことが明らかになります。そして、理想の状態は、今ある天と地が終わりを告げて神がそれに代わって新しい天と地を創造する時に持ち越されるという考えが出てきます。

こうしたイザヤ書全体からみると、35章で言われていることは一見すると、イスラエルの民がバビロン捕囚を終えて解放されて祖国帰還する預言に見えます。神の報いと償いは、バビロン帝国の滅亡と民の祖国帰還と考えられます。民が喜びに満ちてシオン、つまりエルサレムに到着するというのはまさに帰還です。喜びに満ちて祖国帰還する者たちにとって歩む道のりは周りは荒れ地でも水の潤う大地のイメージがわくかもしれません。旅路の安全も、ペルシャ帝国の王が勅令を出して帰還を認めたのだから大丈夫ということかもしれません。しかし、目の見えない人の目が開き、耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになる奇跡の出来事は祖国帰還の時にあったでしょうか?祖国帰還後の民の状態について63章17節は次のように述べています。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」という預言者の嘆きの言葉です。祖国帰還した民は実は道を迷い出てしまった状態にあり、目と耳だけでなく心も閉ざされてしまっていたのです。

 

3.イエス様とイザヤ書35章

ところが、イスラエルの民の祖国帰還から500年経った後、このイザヤ書35章の預言が祖国帰還の時とは異なる、真の実現につながる出来事が起こりました。イエス様の登場です。先にも申しましたように、イエス様は数多くの奇跡の業を行いましたが、35章に述べられている癒しの奇跡も行っています。本日の耳が聞こえず舌が回らず話が出来ない人を癒す時も、35章が土台にあることに気づきます。「エッファタ」というのは何か呪文みたいですが、これは呪文なんかではなく、イエス様の時代にイスラエルの地で話されていたアラム語という言語で、「お前は開かれた状態になれ」という意味の普通の命令文です。アラム語で「イップェター」אפתהと言います。これが、新約聖書がギリシャ語で書かれたため「エッファタ」εφφαθαとギリシャ文字で記されました。いずれにしてもイエス様の肉声に触れられる個所です。このイエス様の「開け」という命令文は、イザヤ書35章5節で耳が聞こえるようになることを「耳が開く」と言っていることに対応しています。

そこで、イエス様はその人を癒す時どうして指を耳に入れて、唾のついた指でその舌に触れたのか?これにはいろんな説明があると思いますが、イザヤ書35章に照らし合わせてみるとつながりが見えてくると思います。耳が聞こえないというのは、耳が閉じている状態と考えられたので、指を入れることでその人に開く状態を感じさせる。その後で「開け」と言って聞こえるようになったので、聞こえることはまさに耳の開いた状態だと感じとれます。唾をつけたことについてですが、イザヤ書35章6節のヘブライ語の原文をみると、「口の利けなかった人が喜び歌う。なぜなら荒れ野に水が湧いで荒れ地に川が流れるから」と、新共同訳にはありませんが「なぜなら」(כי-)と言っています。つまり、荒れ地が水で潤うことが口の利ける原因になっています。舌がまわらなかった人の口をイエス様が唾で潤したのだと考えることができます。どうして水を用いないのかという疑問も起きますが、その時の差し迫った状況を思い浮かべれば、それが潤す手っ取り早い手段だったということがわかります。

このようにイエス様の奇跡の業がイザヤ書35章の預言を実現したことがわかりましたが、それでも実現していないこともはっきりあります。それは、イエス様のシオン、つまりエルサレムの入城に関してです。確かにイエス様は弟子たちを大勢従えて、群衆の歓呼の中でエルサレムに到着しました。しかし、そこで待っていたのは十字架刑の受難でした。イザヤ書35章の終わりには、喜びと歓呼の中に到着した民から「嘆きと悲しみは消え去る」と言われています。それと反対のことが起こるのです。イエス様の出来事はまだ預言の一部分の実現にしかすぎず、全部の実現には至らなかったのでしょうか?

 

4.イエス様が敷かれた「聖なる道」を進む

いいえ、そうではありません。実はイエス様はある意味で35章の預言を全部実現していたのです。どういうことでしょうか?

イエス様が十字架刑にかけられたのは、天地創造の神の計画に含まれていたものでした。神はひとり子であるイエス様をご自分のもとからこの地上に送られ、乙女マリアを通して人間として誕生させました。神の計画とは、創世記に記されている堕罪の出来事があったために神と人間の結びつきが失われてしまったことを回復させることでした。どうして結びつきが失われてしまったかというと、堕罪の時に人間に入り込んだ罪がそれを壊してしまったのです。神聖な神が罪を滅ぼそうとすると、それを持つ人間も滅ぼすことになります。人間には神との結びつきを回復してほしい、その中で生きてほしい、そう願った神は、人間の罪の問題の解決のために罪の罰をひとり子のイエス様に全部負わせ、彼の身代わりに免じて人間を赦すという挙に打って出たのです。それがイエス様の十字架の死だったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命のあることを示され、そこに至る道を整えて下さいました。

そこで人間は、イエス様の犠牲があったので神から罪を赦されるのだ、とわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じれば、神からの赦しはその人にその通りになります。このようにして神の赦しに包まれた人は、神との結びつきを回復してその中で生きることになります。神との結びつきを回復した人とは、まさに神が買い戻してくださった人です。何から買い戻したか?罪の支配からです。何をもって買い戻したか?神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にしてです。神は、ひとり子を犠牲に供してもいいというくらいに、私たちを大事な者と扱って下さったのです。

神との結びつきの中で生きるようになった人は、この神の愛に対して感謝で満たされ、神の意志に沿うように生きようと志向します。神がこの至らぬ自分にこれだけのことをして下さった以上、自分も隣人に対しては同じようにしようと志向します。本日の使徒書の日課ヤコブ1章では、そうした神への感謝から生じる隣人への立ち振る舞いとして、まず自分をまくしたてないで相手のことを聞いてあげること、怒りをすぐに表さず、舌を制御して言葉に気をつけることをあげています。これらを努力するにあたっては、神が自分にどんな恩恵を与えて下さったかをいつも思い出すようにします。

使徒パウロは、復讐は神に任せよ、悪に対しては悪ではなく善をもって応ぜよ、敵が飢えていたら食べさせよ(ローマ12章)と教えています。これは悪をのさばらせて良いということではありません。復讐は神のすることと言っていることから明らかです。神は最後の審判の時にこの世で起きた正義と不正義の貸し借りを清算して、正義を最終的に実現します。イザヤ書35章4節で言われている、悪に報いを、被った害には償いを、というのはまさに最後の審判を指します。

イザヤ書35章の最後の節で神に買い戻された人たちが歓呼と喜びの中でシオンに到着すると、「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われます。使徒ヨハネは黙示録の終わりで、今の天と地に代わる新しい天と地が創造されること、その中で神に買い戻された人たちが復活させられ永遠の命を与えられること、そして神が「彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみ嘆きも労苦もない」(黙示録20章4節)ことが起きると予言しています。ここで、イザヤ書35章の民の到着の出来事というのはこの復活の出来事と新しい天と地の創造を指すことが明らかにされています。それではシオン‐エルサレムとは何なのか?それは、この地上にある町を意味しません。黙示録では「天上のエルサレム」と言っていて、新しい天と地の中に現れる神の国、神に買い戻された人たちが到達する国を意味します。そこに到着することを「帰り着く」と言っています。これは、堕罪の起きる前に人間が神のおられるところに一緒にいた、そこに戻ることを意味します。

そうすると、イザヤ書35章の預言は、イエス様が奇跡の業と十字架と復活の業で全て実現したことがわかります。イエス様が、神に買い戻された人たちが進む道、「聖なる道」を敷かれたのです。その道を進むと、せっかく回復した神との結びつきを失わせてやろうと、いろんな試練や反対する力が起こってきます。しかし、使徒パウロが教えるように「どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8章39節)ので、それらにはそんな力はないのです。神の愛にとどまる限り、神の御許に到達できる安全性は保証されているのです。

こうして、イエス様を救い主と信じて、神との結びつきを回復してこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進みます。その道は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと導きを得られる道です。万が一この世から去らなければならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道です。そこで喜びと歓呼をもって迎えられます。そして、忘れていけないことは、まだこの地上で道を進む時、周囲の素晴らしい自然大地を目にした時は、まさに創造の神の良い業として楽しんでいいということです。そのために神は人生を豊かにするものを造られたのですから。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、神に買い戻されてイエス様の敷かれた「聖なる道」を歩む私たちは、最終目的地までしっかり守られると神から安全を保証されていることを忘れないようにしましょう。そして、道すがら神が造られた人生を豊かにするものを楽しんでよいことも忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教:鷲見達矢 牧師

説教聖霊降臨後第16主日『異邦の女性の信仰』 201899日スオミ教会

マルコによる福音書72430

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように    アーメン

 

 本日の聖書の物語は、シリア・フェニキア生まれの女性の訴える願いをイエスが受け入れられた美しいお話です。

 

 群衆と別れてから、主イエスはティルスの地方に行かれました。ティルスはガリラヤの北西、地中海に面したところです。

そして「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれておりますように積極的なことがあって行ったのではないようです。何をしに主イエスがそのような遠方に出かけたのか不思議に思われます。

 主イエスが外国に行かれたのは、実は、人々に後を追われることから逃れ、隠れるためだったようです。ふつう、評判がよくなると、自信がついて、色々のところに顔を出そうとしたりするのが世の常なのですが、主イエスは反対に、評判が良くなると、御自分の姿を隠しました。

 

誰にも知られたくないと思っておりましたのに、主イエスは人々に気づかれてしまいました。それほどに、主イエスの評判が高く、主イエスに癒してもらいたくて、後を追い求めてきた人が多かったのです。

このような人の中に、「7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女」が、おりました。

 主イエスが今までに、まだ一度も行ったことのなかったティルスやシドンの地方で、この病気の娘の母親がイエスに助けを求めて来たということは、すでにイエスの評判が、この地方にも行き渡っていたことを示しております。

 

[MAR] 7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」とありますが、この「すぐに」は、女の苦悩と切なる願いがこめられております。

 

彼女は、娘から悪霊を出して欲しいと懇願いたします。「足もとにひれ伏した」とありますから、この女は必死の思いでイエスのもとに来たに違いありません。

このように、イエスに癒していただきたいと主イエスに必死にすがりつく人はこれまでも沢山おりました。

 しかし、これまでと違いますのは、この女が「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」であると書かれている点です。彼女はイスラエルの人ではなく、異邦人、よその国の人です。場所も、これまでのようにガリラヤではなく、異邦人の地であるティルスでした。

このティルスの女は、彼女の幼い娘を治して欲しいということのために、ユダヤ人であるイエスの足元にひれ伏しました。異邦人がユダヤ人にひれ伏すということは本来あり得ないことです。カナン人は歴史的にも、ユダヤ人に対して激しい不信感を抱いておりました。そのユダヤ人であるイエスにひれ伏しました。もちろん、幼い娘を治してくれるのであればどのような人でも、という思いがあったからでしょう。

 

主イエスはこれまでに、多くの人を癒し、悪霊を追放してきました。人々は「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」のです。すると、「触れた者は皆いやされた。」656とありますように、癒しを一生懸命求める人は、癒されました。

この母親も、そのような主イエスの評判を聞いて、わらにでもすがる思いで、主イエスのところに来たのに違いありません。

 

 このシリア・フェニキヤの女は、「異邦人が信じた最初の実例」です。この女性はイエスの「足もとにひれ伏し」て、悪霊に取り付かれた娘を癒してくれるようにしきりに願います。

その母親が、主イエスに悪霊を追い出してくださいと頼んだところ、主イエスの返事は私たちが抱いている、主イエスのやさしいイメージとは違って、意外なものでした。

 

 異邦人の女に向かって主イエスが語る言葉は次のような冷たい言葉です。

まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

ここで言われる子供たちとは、ユダヤの人々のことであり、小犬とはユダヤ人以外の人々、つまり異邦人を指しています。これは明らかに拒絶のことばです。また、ここでの比喩では「パン」は救いを意味していることになります。

 

 主イエスのおっしゃる意味は「まずイスラエルの人びとに十分に救いをもたらせるべきで、それを異邦人に与えるべきではない。」ということです。

主イエスは、従って、神の救いはイスラエルの人たちにもたらされるべきであって、異邦人に及ぶことを否定していることを言っているように聞こえます。

 

同じ話が記されているマタイによる福音書での平行箇所15:24をみますと、主イエスはこの女性に対して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という具合に、もっとはっきりとした拒否の言葉が記されております。

このことは一見したところ、民族・人種の違いを根拠にした「差別」のように思われます。ユダヤ人は、自分たちを「選ばれた民」とし、それ以外のすべての国民・民族を「異邦人」と呼んではっきりと区別しました。いわゆる「選民意識」です。

 主イエスの態度は一見しますと、そうした民族差別と似ているように思われます。しかし、実は微妙な違いがあります。

注目すべきことに、ユダヤ人が異邦人を犬とよんだのに対して、イエスは、小犬とよんだ点です。異邦人にくらべられるような、浮浪している野犬ではなく、村の飼い犬を指す小犬と言っております。

そして、小犬、飼い犬が、家の外にではなく、同じ家の中に子供たちと一緒に居るということを、イエスが言っておられる事が大切です。

 

そしてまた、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」と言っている点です。「まず」という言葉は意味深い言葉です。ここで「まず」と言っている以上、「その次には」という言葉が当然予測されるからです。

そこには、旧約聖書の民、イスラエルは「まず」大切にされるべき民族として、特別に位置づけております。そして、その後に続いて、救いがユダヤ人を越えて異邦人へと及んで行くことが暗示されております。

主イエスはその救いをもたらす働きを、「まず」契約の民であるユダヤ人の間で進めていきます。しかし、それは「やがて」、ユダヤ人の枠を超えて、異邦人世界へと及んでいくことが暗示されております。

 

 主イエスの拒否に対して、このとき、この母親は実に機知に富んだ応答をいたします。

主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と申します。聞き方によっては差別の言葉として響く「子供たち」と「小犬」という比喩をそのまま使って、「小犬」は「子供たちの」パンを奪い取るのではなく、子供たちがこぼしたパン屑をもらうに過ぎないのだ、と言うのです。

 

それはこの女性にとって精一杯の嘆願でした。謙虚に、しかしひたむきに主イエスに向かって願います。イエスはその姿に心を動かされていきます。

 女性はイエスの拒否にも屈せず、娘を愛し、癒してもらいたい一心から、きわめて機知に富む答えをいたしました。「イスラエル人が救われるのが、主イエスの第一の目的かもしれないが、少しのおこぼれくらい自分たちに与えて下っても良いでしょう、こぼれた分を食するのは、子供のパンを横取りすることにはなりません」、というわけです。女性は、神の救いがイスラエルという制限を越えて異邦にまで及ぶようにと願っております。

 

実は、主イエスは、異邦人全体に対しては消極的だったようです。それは自分の目の前にいるユダヤ人への働きかけを大切にしたからでしょう。にもかかわらず、主イエスは出会った異邦人の女の叫びにも心を閉ざすことをしませんでした。ここでも、主イエスにとって大切なのは、目の前の一人の人間なのだということです。

 

 この女性は、主イエスが「イスラエルの失われた家の羊」のために「まず」遣わされていることを承認しつつ、それでもなお、その救いが異邦人にも及ぶことを、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」という言葉で言い表しております。ガリラヤにおいて主イエスがなさってきた、ユダヤ人に対する奇蹟が、自分の娘の上にも起こることを望んで、そのように語りました。そこには、謙遜な思いと大胆な期待があります。

 

 主イエスは、この母親の答えの中に信仰を認めました。「それほど言うなら、よろしい。」と言う主イエスの言葉はそのことを示しております。

 主イエスが拒否していた態度は、この女性のひたむきな姿(それを信仰といっても良いでしょう)、その姿によって変えられました。

 

 主イエスは異邦人の女の中に、謙遜な、しかし忍耐強い信仰心を見出しました。

(先週の日課)少し前の箇所、7章1節から15節のところで、主イエスは、律法学者やファリサイ派の偽善を問題にされました。そして、それまでに、実は弟子たちの無理解さも強調されておりましたことを考え合わせますと、この異邦人の女性との対比は印象的です。

主イエスは、神の契約の担い手の、その中心である律法学者やファリサイ派の人の中には、信仰よりも偽善を見出しております。弟子たちも主イエスを正しく理解しておりませんでした。

ところが、この異邦の地で、異邦人の、しかも女性(異邦人は低く見られ、女性はまた更に低く見られておりましたから)、この女性の中に、主イエスは深い信仰を見出しました。

救いへの最短距離にいたはずの人々、それは、ファリサイ派の人であり、弟子たちですが、それらの人々の中に本物の信仰が見られず、最も遠いところにいたはずの異邦人の女性の中に信仰を見ました。

すでに6章のところでパンと魚の供食を5000人に行った奇蹟がありました(マルコ6:30以下)が、しかし、イエスの弟子たちの信仰は不徹底であり、その心はにぶいのです。律法主義者たちはイエスを拒絶いたします。

ここでは、ファリサイ派の「不信仰」と、異邦人の女の「信仰」との対比を鮮やかに浮き彫りにしております。

そして、律法学者やファリサイ派の「思い上がり」とこの女性の「謙遜さ」とが、「不信仰」と「信仰」との分かれ道であったことを示しております。この異邦人の女性の信仰はきわだっております

 

 主イエスは母親である女に言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」。そこで母親が家に帰ると、子供はベッドに寝ており、霊が出て行ってしまっているのを見出しました。母親の願っていたことが起こったのです。

 

ここで、イエスの「それほど言うなら」とは、どの言葉、どのような内容だったのでしょうか。

他でもなく、この婦人のあつかましいほどに熱心な、信仰の言葉です。

そうだとすれば、イエス・キリストはこう言っておられるのではないでしょうか。

「私の言葉をもくつがえす、あなたのその信仰深い言葉を、私は聞かざるを得なかった。安心していきなさい。神はあなたの娘をおいやしになります」

女は、どのようにして癒しが起こるのかを問いませんし、また癒しが確実におこることも求めません。しかし、イエスの言葉が確実であると信じて、家に帰ります。そして、女の確信が実証されるのを見るのです。

30節「[MAR] 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」と記されてあります。

 

キリスト教会にとって、この物語の意味は明らかです。

主イエスは、ユダヤ人はもちろん、それと併せて異邦人に対しても助け手であり救い主であるということ、また、主イエスは家長としてすべてのものに家を開放し、パンを提供するお方だということです。異邦人は、ユダヤ人と共に神の国の食卓に招かれているのです(マルコ2:15176:3044

ユダヤ教的な狭い範囲の救いということが打ちやぶられて、すべての人々に開かれた救いの普遍主義が、イエスによってもたらされました。

異邦人を含む救いでないなら、それは主イエスの福音ではありません。すでに旧約聖書以降、メシア時代には、異邦人も含む、すべての民族が、ヤーウエの救いにあずかることがイザヤ書などにおいて預言されております。(イザヤ書第22節以下、第421節、第603節以下など。)

 

主イエスに出会って救われる人々はどういう人でしょうか。

今日のシリア・フェニキヤの女もそうですが、私たちは、ことごとく苦悩する者、重荷を負う者であることを聞いてきております。追いつめられてのがれ場のない人間であることを知らされます。

 今日の箇所に出てくるシリア・フェニキアの女は、マタイによる福音書第85節以下に出てくる、あの異邦人の百卒長と同様、救いに値しないことをよく自覚しておりました。もし、救いに値すると考えたり、それを強引にせがんだとしましたら、イエスから拒絶されたのではないでしょうか。

イエスは、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない(マタイ6:7と言われます。祈りと願いの力と実績をつむことによって、力づくででも聞いてもらおうと祈り倒すことではありません。

そうではなく、不義な者、救いに全く値しない者を義としてくださる主イエスというお方の真実を衷心から信じることが、決定的に重要なことです。

ですから「女は謙虚であった」という言い方も本当は不適切だとも言えます。

不義な者を義とし、無から有を創造する主に対する信仰が、主に対する唯一の通路です。聖書の神は、その愛と全能のゆえに、無から有を生ぜしめ、救いを創造し、死人をよみがえらせ、新天新地を創造する神であります。マルコは、この信仰を強調いたします。

 

女はイエスからいったんは拒絶されましたが、あきらめませんでした。執拗にイエスに喰いさがります。しかし、先ほども申しましたが、あきらめない態度がすばらしい、と言うことではありません。彼女の絶望状態が、そして主に一切の望みを置く信頼が、このあきらめない態度を生んだとみるべきです。

 

神様が聞いていないかに見えるのは、私たちが求めないからです。あるいはせいぜい自分の欲のために求めること、それは自我が壊れていないところでの求めですから、益々悪魔のとりこになります。マタイによる福音書77節などにありますように「[MAT] 7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」の言葉どおり、私たちは、心からひたむきに神様に求めるべきです。

主イエスは別な箇所、マルコによる福音書923節で、「[MAR] 9:23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」」と言われました。神の恵みはあふれております。

聖書が示します神様は、なによりも人の痛みや叫びに心を動かされる神様です。私たちは、苦悩する時、悲嘆に暮れるとき、重荷を負いきれないと感じる時など、特に、主イエスに委ねたいのです。

今日の29節の言葉「それほど言うなら、よろしい」、と神様に言わせるほどに、異邦人の女に習って、私たちはひたむきに、真実なる主イエスに、真心を持って求める信仰を持ちたいものです。

 

どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン

説教:木村長政 名誉牧師

22回 コリント信徒への手紙 61214節 201892

 

パウロが書きました、コリントの信徒への手紙を読んできました。まず前回の611節でパウロは力強い神がなさる御業のメッセージを語り上げました。さて、今日の聖書の12節を見ていきますと、何とも奇妙な話に変わっていきます。12節「わたしには、すべての事が許されている。しかし、すべての事が益になるわけではない。わたしには、すべての事が許されている。しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」同じようなことを、1023節でも言っているのです。313ページ1023節です。「すべてのことが許されている。」しかし、全てのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。つまり、何をしてもかまわない、と言っているのです。キリスト者は何をしてもかまわない全く自由とされているのである。この言葉はよほど広く用いられていたとも考えられます。この言葉がどこから出たのか分かりません。当時、キリスト教に反対していた一派の人々がよく言ったのではないかとも言われます。しかし、パウロも一応納得していたのでしょう。マルチン・ルターの「キリスト者の自由」ということから見ると、信仰の極意は神の前に全く、自由に生きること。何も妨げられない、こうした徹底した、自由から言えばパウロがここで書いている「すべてのことは許されている」という事がキリスト者の願いであったかも知れません。何をしてもかまわない、から、自分のしたい放題の事をして、他人の迷惑など考えないで、自分のしたいことをするんだ、ということになると、それは、自由に対して「わがまま」というものであります。自由である中にも自分の願望を満たすだけでなく、自分でおさえねばならない面もあるわけでしょう。パウロはガラテヤ書51節で言っています。「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放して下さった」と言っています。問題は何が自由かということです。一切が許されて思うままの生活ができるのか、してもいいのかということが大きな問題になります。そこでパウロは言います。今日の聖書の12節で「すべての事が許されていると言いながら、すべての事が益になるわけではない」と。何をしてもいい、と言われてもそれなら、何をしても何か自分に得るかと言うとそうとは限らないでしょう。好き勝手な生活をすれば人にきらわれるでしょう。自分も傷つくに違いありません。従って自由と言う事は、人間のあこがれでありながら実に難しいのであります。パウロは「すべてのことは許されている」と言いました。しかし、それだけでは本当ではないことを知っていました。許されるとはどういうことかということであります。従って、パウロはすべての事は許されていると言っても、すぐに「すべての事が益になるわけではない」と言って、その上に、又、すべての事は許されていると言って、しかし、私は何ものにも支配されているわけではないと書いています。ですから、コリント教会の人々が、すべての事は許されている、と言っていることに賛成しているように見えながら、それがただでは済まないことをよく知っていました。自由であることに対して自分も異論はない、しかしその真の自由はそんなに簡単に得られるものではないと言いたかったのです。人が自由になりたいのは自由になれば何でも益が得られるからであるということでしょう。しかし自由になってはたして、あらゆる益を得ることができるでしょうか。自由と言うのは自分のしたいとおりにする事でありましょう。しかし、自分のしたいとおりにする事で自分自身は完全でもなければあらゆる事が分かっているわけでもありません。こうすれば自分が得をすると思ってやってみても必ずしも益にはなりません。なぜなら自分が何でも知っているわけではありませんから。これなら益になると思っていた事が必ずしも益にはならないからであります。簡単に言えばしたい通りにした人がいつでも成功するとは限らないのであります。それなら人間は神のような自由を持つ資格もなく力もないということであります。そこに限りない難しさがあります。しかし、もう一つ、自由にとって重大な事があります。それはパウロがその次に言ったことです。「すべての事は許されている。しかし、私は何ものにも支配されることはない」というのであります。自由というのは自由のしたいとおりにするのですから、何ものにも支配されないはずです。しかし、そういかない。したい通りにするのだと言うのは実は自分自身の奴隷になることです。もっと言えばそこに自分の欲望に支配されることになるのではないでしょうか。自由と言っても、何の自由を求めるのでしょう。それはただ心の自由ではありません。その心の自由が体を動かすのです。それなら、自由というのは体を自由に用いるということになります。しかしその体の自由と言う事が又大変難しいのであります。事由がほんものであるのなら、自由であると共に神のみ心にかなったものでなければならないでしょう。その体の自由についてパウロはそれを二つに分けました。一つは食に関する事、もう一つは性に関する事でありました。人間の体がどういう働きをするかパウロは医学者ではありませんから、体の機能を医学的なことからではなく、自由ということから考えたわけです。体の自由な使い方ということから、神との関係を考えようとするのであります。自由は体の用い方に関係があります。それなら、その用い方がどのように神にかかわるかと言う事が大切なことになってくる。神に対する責任の問題となるのであります。」そこでパウロはいきなり「食物は腹のためである」言って続いて「体は不品行のためではなく主のためであり、主は体のためである」と書いています。すると体と言っても腹を用いることと不品行とは別であるとしているのではないでしょうか。腹は食物のためであるとは言っていますが神のためとは言っていません。それに対して不品行の場合には、体は神のためであるというのありましょう。従って体と言っても神との関係とそうでない部分があることになります。腹も体の一部であるにちがいありません。しかしパウロに言わせると腹は食物をとるだけで他に何の影響も与えるものではない。」腹が食物をとったからと言って主に対してよいとか悪いとかということにならないはずである、と言いたいのであります。体がキリストの体の肢であるのだから、不品行の方は問題になると言うのであります。15節以下にそのことについて書いてあります。腹も食物もキリスト者の生活には関係がなくなる、いずれ人間の自然の生活と共に滅び去ることになる。だから自由の問題では問題にする必要がないのであります。ところが不品行の場合には違います。不品行はただ体の問題であるというわけにいかないのです。不品行によってからだそのものを与えるのであるから、からだが誰のものかと言う事が大事な問題なのです。そこでパウロはそういう説明を省いていきなり「からだは不品行のためではない」からだは元来、主のためにあるばかりでなく、主も又、からだのためにあるのだからであると言うのであります。パウロが言いたいことはからだが主のためにあるという事であります。それゆえに主もからだのために心をお用いになるということであります。からだと主との関係をよく考えねばなりません。しかし、どうしてからだは主のものになったのでしょうか。それだけでなく、そのからだを不品行に用いてはいけないのでしょうか。人間は神によって造られたものである。だから、自分のからだも神のために用いるべきではないか、と。良く分かります。ところが、パウロはもっと厳密に言います。からだは造られたものというのでなくからだは主のものなのであると。主が所有し主のために用いるべきものなのであります。それなら、からだが主のものであるというその根拠はどこにあるか。どういう意味で主のものであるか、と言う事が重要なことです。それをはっきりさせて後のきびしい議論に進んでいくのであります。それについてパウロはこう言います。「神は主をよみがえらせたが、その力で私たちをもよみがえらせて下さるであろう」と言うのであります。これは前の事と結びつきにくいかも知れません。しかし、おそらく一つには腹と食物とはやがて滅びるということに対して神によってからだはよみがえらせられるそういう尊さを持っているのであるとパウロは言いたいのであります。もちろん、腹と体とは普通に考えれば何もちがった事はないに違いありません。しかし、主の復活と言うことから考えればそこに大きなちがいがあるのであります。人間の生活は神によって造られたというだけでなく、その後、罪を犯してしまった人間を救われたものであります。パウロがここによみがえりのことを持ち出したのはそのことのためであります。だからまず、神が主をよみがえらせたということを言うのです。主をよみがえらせたのは罪人を救うため十字架によって人を救うためにキリストを十字架につけてよみがえらせたのであります。だから、よみがえりの力によってとだけしか書いてありませんが、実は十字架と復活によって人を救い、人間をもよみがえらせた、従ってその結果、人間はまことに神のものとせられたのであります。神のもとなるということはキリストの体の一部分つまり肢になるということであります。それゆえに腹の問題とはちがってからだにはキリストの体の肢になるわけであります。だからその用い方が難しいということになるのであります。腹の用い方とはちがうというのはそういうことであります。信仰者の生活を始めてからもまた、肉の奴隷になる機会はいくらでもあるはずであります。それはコリント教会だけの話ではないはずであります。しかし、その事のためにパウロはコリント教会に対して事細かに注意を与えようというのであります。そのようにしてこの教会がまことにキリストのからだである教会になるようにとパウロは祈りつつ熱いメッセージを書いているのであります。<アーメン>

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

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