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説教音声 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教音声

説教「聖書が教える人生の目的」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章24~29節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.見ないでも信じることができる信仰

 本日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様をまだ見ていなかった弟子の一人トマスが、この目で見ない限り信じない、と言い張って、それに対してイエス様が「目で見たことに信仰を基づかせてはいけない」と戒めた出来事です。復活した主を見ることが出来たら、主が復活したことを信じてやろう、というのは全く当たり前の考え方です。弟子たちが見たと言っているのに信じられないとは、トマスは彼らがでたらめを言っていると思ったのでしょうか?ひょっとしたら、他の弟子たちには現れたのに自分にはないというのは不公平だという嫉妬も不信心を助長したのでしょう。結局、イエス様はトマスにも現れました。この目で見た以上は、もう疑うことはできません。お前は、私のわき腹に手を当ててみないと信じないと言っていただろ、ほら、触ってみなさい、とまで言われ、トマスはもう「私の主よ、私の神よ」と言って絶句状態です。不信心も嫉妬も吹き飛んでしまいました。

「わたしを見たから信じたのか?見ないのに信じる人は、幸いである。」ギリシャ語の動詞(アオリスト分詞)のニュアンスは、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」とか「見ないで信じ出した人々は幸いである」です。つまり、信じるきっかけに「見る」ということがなかった、別のきっかけがあって、それで信じるに至ったということです。それでは、そのきっかけとは何か?それについては後で明らかになります。

「幸い」というのはどういうことか?どうして「幸福」とか「幸せ」と言わないのか?「幸い」というのは、幸福は幸福でも、この世の物事に終始した幸福ではありません。死を超えた永遠の命に与っているがゆえの幸福です。死とか、死をもたらす罪に振り回されない、支配されない、それくらい天地創造の神に見守られて、神から祝福を受けて生きられるということです。仮に財産を多く所有していようとも、永遠の命と全く無関係に生きていれば「幸い」ではないことになります。このように、この世の基準からみて「幸福」度が高くても「幸い」とは限らないのです。逆に「幸福」度が低くても「幸い」であることがあるのです。

そういうわけで、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」というのは次のように言い換えられます。「復活したイエス様を見ないで、別のきっかけで彼を救い主と信じるようになった人は、神から祝福を受けて神に見守られてこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に神の御許に引き上げてもらえる。

 もちろん、復活の主を見て信じた弟子たちが幸いでなかったということではありません。彼らが見たことを必死に人々に伝えたおかげで、多くの人たちが主を見なかったにもかかわらず、彼を救い主と信じるようになったからです。つまりイエス様はこうしたことが起きるために、これからは見ないで信じるようになることが肝要だ、と言うのです。それでは、どのようにして見ないで信じることができるようになるのでしょうか?見ることの他にどんなきっかけがあるのでしょうか?

 弟子たちは、直接見ることでイエス様の復活を信じることが出来ました。復活したイエス様を見たことで、神の偉大な力が働いたこの方は真に神のひとり子であった、ということがわかりました。それでは、なぜその神のひとり子が十字架の苦しみを受けなければならなかったのか?それは、旧約聖書のイザヤ書53章等で預言されていたように、人間の罪を人間に代わって背負って、人間が神の罰を受けないで済むようにするための身代わりだった、まさに預言の実現だった、ということがわかりました。

 それでは、見ない人たちはどのようにして、そうしたことがわかったのでしょうか?イエス様は天に上げられ、弟子たちや他の目撃者たちも、年月を経てこの世を去って行きました。しかしながら、イエス様を救い主と信じる人は増える一方でした。彼らは目撃者でなかったにもかかわらず。一体何が起こったのでしょうか?それは、直接の目撃者である使徒たちの、迫害にも屈しない証言を聞いたことが影響しています。迫害に屈しない命をかけた証言ですから、まさに真に迫るものがあったでしょう。聞いた人たちは、これは本当のことだと確信したでしょう。イエス様が昇天する前に既に目撃者だった使徒たちに加えて、昇天後にイエス様に出会ったパウロが加わりました。まず彼らの体験談や教えが、いろんな教会に送られる手紙の形にまとめられました。その中で、イエス様の出来事がいかに旧約聖書の預言の実現であるかの解き明しがされました。こうした使徒の教えと旧約聖書の解き明しに加えて、次に目撃者たちの証言録に基づくイエス様の言行の記録つまり「福音書」がまとめられました。このようにして旧約聖書に新約聖書が合体して、キリスト教の聖書が出来上がりました。多くの人がこの書物を読み、この書物に基づく教えを聞いて、目で見ていないイエス様を救い主と信じるようになりました。まことにイエス様の言われるような、見ないで信じるようになった幸いな人たちが誕生するようになったのです。

 2.生きる目的を教える聖書

 もちろん、人が聖書を読んですぐイエス様を自分の救い主と信じるようになるかといえば、必ずしもそうではありません。例えば、キリスト教は西洋文明の土台の一つなので、それを理解してやろう、そうすることで混迷する現代世界を読み解いてみようと言って聖書を読んでみても、イエス様が読む人にとって救い主になることはありません。また古代のオリエント世界の文化や宗教を知ろうとして読んでも同じです。さらには、イエス様を歴史上の思想家ないし社会改革者の一人とみなして読んでもイエス様が救い主になることはありません。思想家や社会改革者が死を超えた永遠の命など与えないからです。

 それでは、どういう読み方をすると、古代オリエント世界にも、また西洋にも生きていない私たち、現代という時代のグローバリズムが渦巻く世界の中の日本にいる私たちにとって、イエス様が救い主となるのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒言行録の箇所が一つ参考になります。それは、ペトロが聖霊降臨の日に群衆の前で行った演説の最後の部分です。この長い演説の中でペトロは解き明かしをします。お前たちが死刑に引き渡したのも同然のナザレのイエスは実は旧約聖書に預言された神のひとり子であった。そのことが彼の復活で明らかになった。イエス様は異邦人の手に引き渡されたのだが、神はそうなることを全て前もってご存知で、お前たちにさせるままにしただけだ。そんなことも知らずにいい気なものだ。神のひとり子を死刑に引き渡すなどとは、なんと大それたことをしてしまったことか!

これを聞いた群衆は心に突き刺さるものを感じました。新共同訳では「大いに心を打たれ」と訳されていますが、それではペトロの言葉を聞いて感動してしまったことになります。そうではありません。ギリシャ語の(κατενυγησαν την καρδιαν)は文字通り「心が突き刺された」です。そこで群衆はペトロたちに「私たちは何をすればよいのですか?」と聞きます。ペトロの答えは、悔い改めなさい、つまり神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る生き方を始めなさい、そしてイエス様の名前に依拠して洗礼を受けて罪の赦しを受けなさい、そのようにして自分たちと同じように聖霊を受けなさい、というものでした。その結果、この日3千人が洗礼を受けました。キリスト教会が歴史上、誕生した瞬間です。

 心に突き刺さるものを感じて、「私たちは何をすればよいのか?」という問いを発するというのは、それまでの生き方は間違っていた、それを続けることはもうできない、方向転換しなければならない、ということに気づいて、じゃ、何が正しい生き方なのか?目指すべき方向は何か?それを問うているのです。つまり、生きる目的を再考しているのです。

聖霊降臨の出来事というのは実は、人間が生きる目的というのはイエス様を救い主と信じることと切り離せないということをペトロが人々にわからせた出来事です。それを人々はわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。もちろん、この時の人々は、イエス様を死刑に引き渡すことに直接間接に加担した人たちだったので、反省の余地が大いにあり、それをペトロに指摘されて深く反省しました。私たちの場合はどうでしょう?私たちは別にイエス様を死刑に引き渡すことに加担していないのでペトロの演説を読んでも、同じように心に突き刺さるものはないのではないか?果たしてそうでしょうか?

「私たちは何をすればよいのか?」という問いは、生きる目的の問いです。その問いは、それまで目的と思っていたことが目的でなくなってしまった、追及するに値しなくなってしまった、まさに目的を見失った状態の時に出て来ます。あるいは、これまでさしたる目的もなく生きてきたが、何かの原因で今やそれをはっきりさせなければ生きられなくなってしまったという時にも出て来ます。いずれにしても問いは同じです。「私は何をすればよいのか?」そんなこと考えないでも生きていけるという人もいるかもしれません。しかし実際、新聞の新刊本の紹介を見ても、生きる目的を教えるというような本は沢山出ています。多くの人が生きる目的、何のために生きるのか考えたり悩んだりしているのでしょう。

何のために生きるのかという問いは、多くの書物に埋もれて忘れられてしまった感があるとは言え、聖書ももちろん答えています。聖書がどう答えているかと言うと、本日の日課に関連したところでみると、ペトロの演説の中に出てくる「神の計画」がそれです。これは実は本日の日課の箇所の少し前のところで言われています。使徒言行録2章23節ですが、神がひとり子イエス様を十字架の死に引き渡されるのを阻止しないで、そのままにしたのは、「お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで」そうした、と言っているところです。神が定めていた計画とは、人間が天と地と人間を造った神、人間に命と人生を与えて下さった神と結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、ということです。そこで、神との結びつきを持って生きるとは、どういうことかと言うと、順境の時であろうが逆境の時であろうがいつも神から守りと導きを受けられて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができる、そういう生き方をすることです。そのような神との結びつきを持った生き方は、もともとは人間にはあったものでした。しかし、それは失われてしまったのです。なぜかと言うと、旧約聖書の創世記3章で明らかにされているように、造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪が入り込んでしまったために、神との結びつきが失われてしまったのです。

この結びつきを回復させるためには人間の内に宿る罪を取り除かなければならないが、それは人間の力ではできません。それは神もよくご存知でした。そのため神はひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪を負わせて十字架の上で人間の代わりに罰を受けさせて、その身代わりの犠牲のゆえに人間の罪を赦すという方策にでたのです。それで、イエス様を救い主と信じると、罪の赦しがその人にその通りになるのです。罪が赦された者ですので、その人には神との結びつきが回復するのです。このようにして、人間が失っていた神との結びつきを回復する、これが神の人間に対する計画です。

心に突き刺さるもの、私たちは何をすればよいのかという問い、これらは、実は私たちにも関係しています。神のひとり子が犠牲になったのは、私たちの罪のためだったからです。旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたように、私たちが神の罰を受けないで済むようにと、そして私たちが神との結びつきを回復できるようにするためにイエス様は十字架の道を受け入れたのでした。もし、神のひとり子が私たちの罪のために犠牲になったことがわかれば、「何をすればよいのか」は私たちの問いになります。その答えはペトロが言ったものと同じです。悔い改めて、つまり、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生き、イエス様の名に依拠して洗礼を受けて罪の赦しの中に入り、聖霊を受けることです。

ここで罪とは何かについて一言申しておきます。罪とは、神聖な神の意思に反することです。神の意思は十戒の中に凝縮されています。十戒についてイエス様はどう教えたでしょうか?ふしだらな目で異性を見たら、たとえ行為に及ばなくとも姦淫の罪を犯したことになる、たとえ殺人をしていなくとも人を罵ったら第五の掟を破ったことになる、と。行為だけでなく、言葉や心の中まで問われたら誰も神の前で自分は潔白だなどと言えません。しかし、イエス様はそんな自分が神の罰を受けないで済むようにと犠牲になられた、だからイエス様は私の救い主です、そう信じれば、それで神から罪の赦しを得られて、罪が自分に残っているにもかかわらず罪の赦しの中で生きられるようになります。これが神との結びつきの中で生きるということです。いつの日か神の前に立たされても、イエス様のおかげで私にはやましいところはありませんと言っても大丈夫なのです。それにしても、この世はなんと罪に満ちていることでしょうか?心の中にある罪が大手を振って言葉や行いに現れるのを許している感じさえします。ペトロが本日の箇所で「邪悪なこの世から救われなさい」(使徒言行録2章40節)と言っているのは、私たちの時代にも向けられています。神との結びつきの中で生きるとは、罪の力よりも強い力の下にいて安心していられることです。罪が私たちの心を惑わせようとして甘い声をかけてきたり、また私たちを怯えさせようとして怒り声をかけてきたりしますが、そうした声は神の御言葉に耳を傾ける者には一時の耳障りな雑音にしかすぎなくなります。聖霊に一息かけてもらえば、埃のように飛んで行ってしまいます。

以上みてきたように、聖書を読んでイエス様を救い主と信じる信仰に至ることができるのは、聖書が次のことを教えていると気づくからです。まず、自分は化学物質の複雑な化合の結果生じた、そういう偶然の産物としてあるのではなく、この自分に対してお考えと計画を持つ方が造られたということ。次に、今自分は自分の造り主とどんな関係にあるかと言うと、その関係は崩れてしまっているということ。そして、その関係を回復するために造り主は何をして下さったか、と言うと、まさにひとり子イエス様を私たち人間のために送られたということ。こういうことを聖書は教えていて、そうなんだとわかって、やっぱり神との結びつきの中で生きることが大事なんだ、その中で生きなければならないとわかって、それが生きる目的だとわかった時、イエス様を救い主と信じるのは当然のことになります。このように聖書が人間の生きる目的を教えているとわかった時、イエス様は既に救い主になっています。

 

3.この世は仮住まいという視点

 神がイエス様を通して与えてくれた罪の赦しの中で生きる人は、自分に注がれる恵みの大きさのゆえに思わずひれ伏してしまい、感謝と賛美を口にしないではいられなくなります。神を全身全霊で愛しなさい、隣人を自分を愛するが如く愛しなさい、隣人が神との結びつきの中で生きられるように働きかけなさい、というイエス様の言われたことが自分の一部になったような当たり前のことになります。

そのように生きる人にとって、この世とはどんな世界かということについて、本日の使徒書の箇所でペトロは「仮住まい」と呼んでいます。最後にそのことについて見てみます。ギリシャ語の言い方(τον της παροικιας υμων χρονον)は、「寄留者としての期間」ですが、「寄留者」とは、一時滞在者、その土地の人間ではなく、よそ者です。カナンの地でのアブラハムがそうでした。キリスト信仰者にとって、この世は自分の本当の土地ではなく、よそ者として一時滞在しているということですが、それは、本国が別にあるからで、その本国とは天の御国、神の国です。それは、今は神のもとにありますが、この世が終わりを告げ、今ある天と地が新しい天と地に創造し直される時に唯一現れる国です。キリスト信仰者はそこを目指して、この世を歩んでいます。もちろん、「仮住まい」と訳してもOKです。そう言うことで、「本住まい」が別にあることを意味していますから。

そこで、今生きているこの世を一時滞在の場所、仮住まいなどと言ったら、本住まいの天国が大事になってしまって、この世のことをないがしろにしてしまうのではないか、と思われるかもしれません。それは心配には及びません。キリスト信仰者にとって、この世で自分のものに見えるものは、本当は自分のものではなく、全て神から与えられたものです。伴侶にしろ、子供にしろ、肉親にしろ、家にしろ、仕事にしろ、自分の才能や身体的特徴にしろ、みな神から与えられたものと観念します。神から与えられたので、どう使おうが自分の勝手だ、ということにはならない。与えることが出来る神は、いつでも取り上げることも出来る。だから、完全に自分のものとして自分の欲望を満たすために自分だけで消化するために与えられたのではなく、神に与えられたものとして大切に用い、扱い、育てる。そうすることで、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛せて、隣人を神との結びつきに導くことができます。そういうわけで、この世にあるものは、実はみんな神からお借りしたもので、しっかり世話し正しく用いるようにと委ねられたものなので、そうするのです。

もし、この世自体が本住まいになって、自分たちはこの地の主人、よそ者なんかではない、この世の外に本当の住まい、本国などない、ということになれば、どうなるでしょうか?創造主に対する畏れがなくなって、全てのものは自分の欲望を満たす手段になってしまうのではないでしょうか?本日の使徒書の箇所でペトロは、人を公平に裁く方を父と呼ぶならば、この仮住まいの期間、畏れをもって生きるべきである、と教えています(第一ペトロ1章17節)。「公平」とは、ギリシャ語(απροσωπολεμπτως)では、人物が偉い人かどうか、人気のある人かどうか、また多くの人の支持を受けた人かどうか、全く考慮しないで、どんな行いをしたかに絞って裁く、という意味です。地位も何も関係ありません。全てを見通されてしまうのです。それで畏れを持つことになるわけですが、畏れをもって生きるなどと言うと、びくびくして生きる感じがします。しかし実は、そうではありません。ペトロはその後で言葉をどう続けていますか?キリスト信仰者というのは先祖代々受け継いだ空しい生き方から買い戻されるようにして解放された者である、その買い戻しにあたって支払われた代価は金銀のような情けないものではなく、神のひとり子が十字架で流した尊い血であった、それくらい私たちは価値あるものとして神から見られているのである、と。この買い戻しの中にとどまる限り、神の裁きの前に立つことになっても、イエス様の血をかけられて純白になった者として見てもらえるのです。神はまことに畏れるべき方ですが、その畏れというのは、感謝や大きな安心と表裏一体になっているのです。キリスト信仰とはなんと、重層的で全てを網羅した奥の深い生き方を与えてくれるのでしょうか!キリスト信仰者は自分でも気づかずにそれを手にしているのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

吉村博明 宣教師の市谷教会での説教です。「新しい礼拝のかたち」、マルコによる福音書12章41-44節

主日礼拝説教2015年11月15日 市ヶ谷教会

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 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿がありましたが、これは紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されました。これが第一神殿と呼ばれるものです。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚からエルサレムに帰還して、神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。最初これは、ソロモン王の神殿に比べてみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後エルサレムには「聖書の神」の神殿は存在していないことは周知のとおりです。

 イエス様の時代の神殿はどんな建物かと言うと、まず敷地は横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分の罪と民の罪を神の前で償うために生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。

 本日の福音書の箇所の出来事は、この神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。正確には、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったことになります。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、わりと容易に識別できたのでしょう。

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 さて、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この二枚の銅貨は1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコがローマ帝国市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。しかし、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリです。では、1デナリはいくらかと言うと、それは当時の労働者の1日の賃金でした。今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値しかありません。イエス様は、これがそのやもめの全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対的にみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいのお金ですから、やもめにとってはとても大きな価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。また、やもめの献身は金持ちよりも尊いものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをもっと掘り下げてみたいと思います。

 

2.

本日の箇所が教える大切なこととして、まず最初にあげられるのは、神の目は、御自分が造られた人間一人一人の上にしっかり注がれる、特に人の目には取るに足らないとみなされる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れました。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもありません。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神様はあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたことでしょう。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られていい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本に住む私たちにも身近なものです。そんな時、64分の1デナリしか入れなかったやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去られたかもしれません。

 ところが、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、まさになけなしの金であったことを見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実性はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。

 天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命と人生を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見てみます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。

 このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知って下さり、絶えず目を注いでいて下さる、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、それは、神に忘れられたとか、見捨てられたとか、そういうことでは全くないのです。そのような状況を、まさに神に支えられて一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい危険な状況を通らねばならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることです。私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いの神が同じように方向修正をしてくれます。不意にトントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということなのです。それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。

 

3.

 以上、神の目は御自分が造られた人間一人一人の上に絶えず注がれており、特に人の目には取るに足らないと見なされる者にこそ注がれるということについて申し上げました。本日の福音書の箇所が教えるもう一つの大切なことをみていきましょう。それは、何が正しい礼拝の形かについて考えさせるということです。礼拝とは普通、教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の宗教的儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕えて捧げものをすることです。神に仕えて捧げものをすることは、宗教的儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰においては、生きること自体が神に仕えて捧げものをするようになって礼拝的になっていくことを忘れてはなりません。

 本日の箇所は、やもめの献身の真実さを示すことで、一種の美談として理解されるかもしれません。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが皆さんは気になりませんか?本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。使徒言行録2章をみると、聖霊降臨の出来事の後に教会が誕生して、そこで信徒たちが自分たちの財産や持ち物を売って、おのおの必要に応じて分けあったことが記されています。どうか、このやもめも信者の共同体の中で無事を得られたように願わずにはいられません。

 そういうわけで、本日の箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないかと思います。本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて読むと明らかになります。まず、本日の出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めをみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っている、と神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが戦利品のように略奪の対象になっていることがあげられています。

イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったと考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その後で本日の箇所の出来事がきます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にするのです。本日の箇所の次をみると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の場所はもう存在に値しないということであります。そして、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年程の後でローマ帝国の大軍によって破壊されてしまいます。

 ところでイエス様は、やもめの捧げ物が金持ちの捧げ物よりも大きな価値があるとは認めますが、それでやもめが神の国に入れるとかそこまでは言っていません。イエス様としては、100%神に捧げることは重要であるが、ただ、それが自分の持ちものから捧げ物をして神から見返りに何か恩恵を受けようとする、そんな捧げ方には反対なのです。そんな仕方で100%捧げても、それは神殿の礼拝の論理で動いていることにかわりありません。神に捧げることは重要であるが、見返りの恩恵のために捧げるのではない捧げ、しかも、捧げるからには100%捧げてしまうことが当たり前になるような捧げ、そのような前例のない神への捧げを可能にするためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、ある意味でそのような新しい捧げを先取りするものでした。イエス様はそれを神殿の礼拝の枠を打ち破って正しい方向に導いていくことを行ったのです。それでは、それはどのようにしてなされたのでしょうか?

 答えの鍵は、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24-28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちの基本路線が記されています。どんなことかと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて最も神聖な至聖所に入って行って自分の罪と民の罪の双方を神の前で償う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げた、ということです。神のひとり子の神聖な生け贄ですので、でもう1回限りで十分です。これでも足りないとばかり、また何か生け贄を捧げるようなことをすれば、それは、神のひとり子の犠牲では足りなかったと言うのと同じになって、それこそ神を冒涜することになります。

 そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、神からの罪の赦しがその人に効力を持ち始めるのです。こうして神から罪の赦しを受けられた人間は、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得られて、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神の御許の引き上げられて、自分の造り主のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。これがまさに「罪の赦しの救い」であります。

 このようなとてつもない救いを受けた私たちの礼拝のかたちはいかなるものになるのでしょうか?もう神から見返りの恩恵を得るために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来た恩恵を受け取りなさいと言われて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備してそれを行ってしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神とはなんと恵み深い方なのでしょうか!

 こうして恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、これからどうすればよいのでしょうか?何も神に捧げることはしなくてもよいのでしょうか?この疑問に対する答えは、「ローマの信徒への手紙」12章の最初の部分にあります。使徒パウロは次のように教えます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(1-2節)」。

 「なすべき礼拝」というのは、原語のギリシャ語(λογικος)では「理性的」とも「霊的」とも訳される言葉です。理性的な礼拝、霊的な礼拝とはとてもわかりにくいので、新共同訳では「なすべき礼拝」とうまくかわしたのではないかと思います。ルターのドイツ語訳やフィンランド語訳の聖書では「理性的な礼拝」、英語NIVでは本文には「霊的な礼拝」とあって、脚注に「理性的な礼拝でもよい」などとあります。スウェーデン語訳の聖書では「霊的な礼拝」です。次のように考えれば意味はわかります。まず、何が「理性的、霊的でない礼拝」かを考えます。言うまでもなく、それはエルサレムの神殿で行われていたような、人間が何か生け贄とか何かを捧げて罪を償ったり神から見返りとして恩恵を頂くという礼拝です。

ここで使徒パウロが教えることは次のことです。イエス様の十字架と復活の後はもうそういう礼拝の時代は過ぎ去ったのである。キリスト信仰者は、イエス様の十字架と復活を土台にして神から「罪の赦しの救い」の恩恵を受け取ったのである。だから、もう、恩恵を受け取る前の単なる肉だけの存在ではないのである。聖霊を注がれて新しい霊性を備えた存在なのである。神の恩恵が頭のてっぺんからつま先まで満たされているので、その人の体や心や魂は本当はもう神に喜ばれる聖なる生け贄になっているのだ。だから、本当は神の思いに反するこの世の思いに従わないのは当たり前のことになるのだ。イエス様の十字架と復活のゆえに心が一新して変えられた者として、何が神の御心か、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるのが当然になるのだ。パウロはこうしたことを読者に思い起こさせているのです。

こうなると、神の恩恵を受け取った人というのは、今生きているのは自分なのか神の意思なのかわからなくなります。使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」と言っている通りになります。しかしながら、現実の世界を生きていく時、いろんな課題に直面し人間関係に揉まれていくうちに、こうした霊的に研ぎ澄まされた心が濁ってきたり萎えてしまうことはしょっちゅうあります。まさにそこに信仰の戦い、霊的な戦いがあります。それゆえ、キリスト信仰者は絶えずイエス様の十字架のもとに立ち返って、あそこで自分は神から計り知れない恩恵を与えられたのだと思い起こさなければなりません。まさにそのために主日の礼拝が重要です。主日の礼拝は、十字架のもとに立ち返ることができる大事な時です。今まさにしているように神の御言葉を聞いてキリスト信仰者としての自分の立ち位置を確認します。また、恵み深き神を歌声をもって賛美し、神の助けと導きに信頼して祈りを捧げます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通して神から霊的な糧を受けます。その糧を受ける時、私たちは聖卓の前で神のみ前に全く無に等しい者として受けます。実に聖餐式では私たちは神に自分を100%捧げているのです。それこそ本日の福音書の箇所のやもめのように100%自分を神に捧げているのです。しかも、主の十字架と復活の後の時代に相応しい仕方で、です。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは既に神から罪の赦しの恵みを頂いているのですから、この世の思いに振り回されず、神の思いにしっかり立ち、自分を神に喜ばれる生け贄として捧げてまいりましょう。そして、十字架のもとに立ち返ることができる主日の礼拝を大切にしてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第25主日
2015年11月15日の聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章41-44節

説教「イエス様は今どこにおられるのか?」ペッカ・フフティネン先生、ルカによる福音書24章44~53節(説教音声)

フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長ペッカ・フフティネン先生は5月17日、スオミ教会の主日礼拝にて説教されました。

日曜礼拝の説教

ペッカ・フフティネン

 

 

 

 

 

 

 

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説教「汝の信仰、汝を救へり」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章31-43節

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受難節 第二主日の説教です。

 

説教「神のもとに立ち返る心を忘れずに救い主の到来を待て」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書3章1-6節

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待降節第2主日の説教です。

説教「神を全身全霊で愛するとは? 隣人を愛するが如く愛するとは?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書12章28-34節

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聖霊降臨後第24主日の説教です。

 

説教「シリア・フェニキアの女の信仰 - 非ユダヤ人のキリスト教信仰の萌芽」、吉村博明 宣教師、マルコによる福音書7章24~30

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 イエス様の言行録である4つの福音書を繙くと、彼の活動舞台の大部分は、ユダヤ人の居住地域であるガリラヤとユダヤの二つの地域であったことが明らかになります。イエス様は神から課せられた任務をまさにイスラエルの民の間で遂行していた、と言うことができます。ところが、本日の福音書の箇所では、イエス様は二つの地域の外側にある地中海沿岸のフェニキア地方の都市ティルスの近くまで行きます。お手元の聖書の後ろにある地図「新約時代のパレスチナ」をご覧になれば、どこにどの地域があるかわかると思います。今は先を急ぎますので、お家でご確認いただければと思います。ユダヤ人は、ガリラヤとユダヤの二地域以外の各地にも少数派として居住していたので、イエス様はティルス近郊でユダヤ人を相手に活動するつもりだったのでしょう。
 ところが、思いがけないことが起こりました。ユダヤ人でない婦人がイエス様のもとに来て、足元にまでひれ伏して助けを求めるのです。婦人の民族的所属は、新共同訳では「ギリシャ人で、シリア・フェニキアの生まれ」となっていますが、少し注釈します。当時地中海世界の東半分はギリシャ語が公用語になっていましたから、別にギリシャ本土でなくてもギリシャ語を操る人は広範囲に存在していました。そういうわけで、問題の婦人の民族的所属を正確に記すと、「ギリシャ語を主要言語とするシリア・フェニキア人」ということになります。ギリシャ本土出身のギリシャ人ということではありません。さて、その婦人が、「汚れた霊にとりつかれている娘を助けて下さい」と助けを求めました。それに対するイエス様の答えは、先ほど読んでいただいた通り、かなり冷淡なものでした。「子供たち」と「犬」のたとえを話しますが、「子供たち」がユダヤ人、「犬」が非ユダヤ人を指すのは一目瞭然です。しかし、真剣勝負とも言える対話の結果、婦人は願いをかなえてもらい、娘は悪霊から解放されます。
本日の福音書の箇所は、神やイエス様に対するへりくだりの大切さを教える一種の美談のようにしばしば言われます。神やイエス様は、へりくだった心を示す者を必ず顧みて下さることを教えているのだ、と。それはそれで正しいのですが、実は本日の箇所は、「へりくだりの大切さの教え」だけでは収まりきれない大きなことが含まれています。これからそれを見て行こうと思います。

2.

 4つの福音書を繙いて気づかされることの一つは、イエス様の活動の対象は実にユダヤ人中心だったということです。確かに、主は死から復活した後、弟子たちに「全世界の全民族に福音を宣べ伝えよ」と命じ、自分が救世主であることはユダヤ人を超えて全人類に関わっているのだと言います。ところが、十字架の出来事が起きるエルサレム入城以前のイエス様は、ほとんどガリラヤとユダヤの二地域でユダヤ人を相手に活動をしており、本日の福音書の箇所以外で、彼が明らかに非ユダヤ人と対話をするような接触があるのは、ルカ7章のローマ帝国軍百人隊長と、ヨハネ4章にあるサマリア人の女くらいです(マルコ5章に出てくるデカポリス地域の男がユダヤ人だったかどうかは不明)。
 十字架の出来事の前のイエス様が活動の対象をユダヤ人に限っていたことは、マタイ福音書によく表れています。例えば、10章で12弟子を最初の宣教旅行に送り出すとき、イエス様は、非ユダヤ人のところには行くな、「イスラエルの家の失われた羊たち
のところに行け、と命じます。15章には本日の箇所と同じシリア・フェニキア人の婦人の出来事が別のバージョンで記され、そこでイエス様は婦人に対して、自分は「イスラエルの家の失われた羊たち」のために遣わされたのであり、それ以外の者たちのためではない、とまで言い切ります。
こうした復活前のイエス様の非ユダヤ人に対する態度は、イザヤ書49章6節にある神の預言と相いれないように思えます。そこで神は、将来現れる救世主は、ユダヤ人以外にも救いをもたらすことを任務にすると、言っています。
「わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
この日本語訳で「だがそれにもまして」というのは意味が弱すぎます。ポイントとなるヘブライ語の動詞(נקל)を忠実に訳すると、もっと迫力のある意味になります。
  「ヤコブの諸部族を興し、イスラエルの残余の者を帰還させる目的で、おまえをわたしの僕にするというのは、あまりにもスケールが小さすぎる。わたしの救いが地の果てにまで及ぶために、わたしはお前を諸国民の光にする。」
結果的には、復活後のイエス様はこの預言どおりに諸国民の光として立ち現われることとなりました。しかし、なぜ十字架と復活の出来事の前の彼は、人間の救いにかかわる任務をユダヤ人に限るようなことを言っていたのでしょうか?ユダヤ人以外の人間の救いは考えていなかったのでしょうか?この疑問に答えられるためには、イエス様が神から与えられた任務とは、そもそもなんだったのか、ということと、そのような任務を与えた神の目的はそもそもなんだったのか、ということがわからなければなりません。

3.

 神のそもそもの目的は、ユダヤ人非ユダヤ人にかかわらず人間を救うことでした。キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に、造り主である自分のところに戻れるようにしようとします。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。先週の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でしたが、そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の死の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は、ユダヤ人非ユダヤ人に関係なく、ひとり子を犠牲に用いて行った神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられます。こうして人間は、幸福の時にも苦難の時にも常に造り主の神の御手に守られてこの世の人生を歩むようになり、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができるようになります。
以上が、イエス様が神から与えられた任務と神がその任務を与えた目的であります。

4.

 それでは、神の目的やイエス様の任務がユダヤ人非ユダヤ人に関係なく人間すべてに向けられているのなら、なぜ十字架前のイエス様はユダヤ人を中心に活動していたのか、ということについてみてみましょう。
 重要なことは、イスラエルの民はもともと天と地と人間を造られた神に選ばれた民であった、ということです。この「神に選ばれた民」というのは、一般に思われがちですが、神に特別目をかけてもらっているので何をしても神のお墨付きだ、などという甘い独善主義とは全く無縁の厳しいものです。神はイスラエルの民に十戒を与えましたが、これは、造り主である神が造られた人間に要求していることはかくかくしかじかであると、神の人間に対する意志を明確に表示したもので、それを責任持って管理しろ、とイスラエルの民に付託したのです。諸民族を出し抜いて、天地創造の神の意志を授かったからといって、神に特別扱いされたなどといい気になるな、しっかり守らないとどうなるか、周りの諸民族はその目撃者になるだろう、というのです。
 事実、イスラエルの民の歴史は、この重い責任の歴史となりました。国民がこぞって神の意志に背く時はいつも国難がふりかかりました。アッシリア帝国やバビロニア帝国の侵略も、神が罰としてイスラエルの民に送った、ということが旧約聖書に何度となく言われます。国滅ぼされてバビロニアの地に捕囚となったイスラエルの民でしたが、今度はペルシャ帝国の王の計らいでユダヤへの帰還が認められます。しかし、これも本当は、神が民の罪の償いはもう十分と認めたので、ペルシャ帝国にバビロニア帝国を滅ぼさせてやった、ということになります。このように、旧約聖書では、諸々の民族の動向や興亡はみな、天地創造の神の意志に基づいていることが示されています。当該民族としては、自分たちはなぜイスラエルの民を攻撃するのか解放してやるのか、本当の理由はわかっていないでそうしていたのであります。
全ての人間の救いにかかわる以上は全ての人間に対して送られたはずの救世主がまさに神に選ばれた民の中から誕生した、ということは重要です。なぜなら、イスラエルの民は、十戒や旧約聖書に示された神の意志をしっかり管理する責任があり、それがイエス様の時代にもいろいろな問題があったからです。ファリサイ派もサドカイ派も律法学者たちも、自分たちの動機ではそれぞれの解釈に基づいて神の意志を実現していると思っていたのでしょう。しかし、本当は実現どころか反するようなこともしていたのです。先ほど触れました何が人間を内部から不浄にするかという問題もその一つでした。何か宗教的な儀式行為をすれば大丈夫という考えに対して、イエス様は、神が与えるものをしっかり受け取らなければ人間は神の意志を実現した状態にはなりえない、それくらい人間は汚れきっていると教えるのです。
このようにイエス様には、十戒をはじめとして旧約聖書に延々と記された神の意志というものを、もう一度整理する役目が与えられました。イエス様と当時の宗教指導者との論争が新約聖書に記録されたおかげで、神のみ子自身が父なる神の意志をどう教えたか、ということを私たちは知ることができます。イエス様がイスラエルの民の中から生まれ、その民を相手に活動したというのは、私たちが神の意志を正しく知ることができるために必要であったのです。

5.

 以上から、十字架前のイエス様がユダヤ人を主たる相手に活動しつつも、その任務は全ての人間の救いに関わるものであることをしっかりわきまえていたことが明らかになったと思います。シリア・フェニキア人の婦人との対話は、実にこのことを明らかにするものでした。ただし、任務は全ての人間の救いという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して遂行できるという具体的な歴史の状況があるので、イスラエルのこうした特別な立場も対話の中にはっきりでてきます。それにもかかわらず、救いの任務は全ての人間に関わるということもはっきりでている。それが、本日の福音書の箇所の趣旨であります。
婦人は娘から悪霊を追い出して下さいと、イエス様に懇願します。ここで注意しなければならないことは、イエス様は何のために病気を癒したり、悪霊祓いをしたり、大勢の人の空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしたかということです。自分を拝めば御利益があると人々にアピールするためだったのでしょうか?いいえ、そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた」と公に宣言することをもって活動を開始しました(マルコ1章14節)。つまり、彼の無数の奇跡の業は、神の国というものがあらゆる悪から守られ神の意志と力に満ちたところであるということを具体的にわからせる手段だったのであります。神の国は、最終的には最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録21章1節)、今目に見えるものすべてが崩れ去った時に顕現するものです(ヘブライ12章26
27節)。そこは、涙をことごとくぬぐわれ、悲しみも嘆きも苦しみも、そして死さえもないところです(黙示録21章4節)。イエス様の奇跡の業は、いつの日か到来する神の国の前奏曲の音色であったと言ってもよいでしょう。
シリア・フェニキア人の婦人がイエス様に奇跡をお願いしたのは、彼にしてみれば、神の意志もまだ知らない非ユダヤ人に神の国の味を味あわせろということになります。イエス様の答え「最初に子供たちの空腹を満たせなさい」(27節)というのは、最初にユダヤ人に神の国の味を味あわせろ、という意味です。それに続く「子供たちのパンを取って、犬に投げやるのは正しくない」(27節)は、ユダヤ人に先駆けて最初に非ユダヤ人に味あわせるのは正しくない、という意味です。
これに対する婦人の答え「犬も食卓の下で、子供たちのところから落ちるパンのかけらは食べます」というのは、注目に値します。ここで婦人は、ユダヤ人に先駆けて非ユダヤ人を先にして下さいなどとは言っていません、ユダヤ人が先の順番なのはそれで構いません、ただ救いと神の国は非ユダヤ人にも与えられるというのが神の御心ならば、たとえユダヤ人と同じ席でなくても何らかの仕方で与えられるのが当然ではないですか、犬だって食卓から落ちるパンのかけらを食べてもいいのと同じくらい当然ではないですか、と言うのです。婦人の答えは、救いは全ての人間に及ぶという普遍的なものではあるけれども、それはイスラエルの民を通して行わなければならないという特殊な事情のもとで行うというイエス様の任務を全面的に受け入れたものとなりました。この答えの後、婦人の娘は癒され、神の国の前奏曲の音色はこの非ユダヤ人にも響き渡ったのであります。

6.

 おわりに、本日の福音書の箇所の教えに基づいて、キリスト教に対してありがちな誤解を正したく思います。それは、キリスト教や聖書は人間をキリスト教徒と非キリスト教徒にわけて、前者をよい者、後者を悪者扱いする独善的な宗教であるというような誤解です。本説教で見てきて明らかなように、旧約新約を含む聖書が人間を二分化する基準はキリスト教徒非キリスト教徒ではありません。イスラエルの民かその他諸々か、であります。つまり、ユダヤ人か非ユダヤ人かであります。イエス・キリストは実に両者を隔てる敵意の壁を取り壊し、彼を救い主と信じる信仰をもって両者を一つにしたのであります。このことは「エフェソの信徒への手紙」2章に詳しく述べられています。
 非ユダヤ人には、当たり前のことですが、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も含まれます。私事で恐縮なのですが、キリスト信仰に至る道に入りかけた頃、キリスト教徒になるというのは結局欧米人に頭を下げるようなものではないかとの思いがしてなかなか足を踏み出せませんでした。ところが、神の目からすれば、アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も皆、テーブルの下でパンくずを待っている犬にすぎない、ということがわかった時、信仰に至る道にあった大きな障害物が粉砕した思いがしました。
それから、キリスト教は、キリスト教徒はよい者で非キリスト教徒は悪者とみる独善主義に満ちているというのも、キリスト信仰のなんたるやを知らないから出てくる誤解です。本説教でも明らかにしましたが、キリスト信仰者も性質上、神に対する不従順と罪に満ち満ちているという点では非信仰者と何の変わりもありません。ただ、キリスト信仰者の場合は、イエス・キリストの神聖な白い衣を頭から被せられているということが違います。しかし、これはこれでまた大変なことであります。というのは、神聖な白い衣を被せられているにもかかわらず、自分の内に宿る不従順と罪のために、それに相応しくないことを行ったり、言ったり、考えたりし、また逆に相応しいことは行わなかったり、言わなかったり、考えなかったりしてしまうからです。まさにこのために、キリスト信仰者にとって罪の赦しの祈りは生涯付きまとうのです。しかし、その祈りの度に神は、白い衣の方に目を留めて、それに免じて赦しを与えて下さるのです。そして、人がこの世の人生を終える時、神は白い衣を捨てずにしっかりまとい続けた者を御元に引き上げて下さり、こうして神に造られてこの世に生まれた人間は、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように  
アーメン


聖霊降臨後第十五主日        
イザヤ35:1-3、ヤコブ1:2-18、マルコ7:24-30

説教「キリストを愛すること-牧会者と信徒の共通の課題」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章15-19節

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復活後第3主日の礼拝説教です。

 

説教「人を救いに導く愛を持ち、キリストの友となれ」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章11-17節

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復活後第5主日の礼拝説教です。

 

説教「イエス様の二正面作戦」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書2章1~12節

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顕現節第6主日の礼拝説教です。

 

  • 来週の礼拝:3月24日 四旬節第3主日 2019年3月17日
     聖書   出エジプト  3:1~15      Ⅰコリント  10:1~13      ルカ     13:1~9 讃美歌  239 240 273 386 担当  司式  吉村 博明 宣教師     説教  吉村 博明 宣教師     奏楽  青木千恵 姉       当番  西尾...
  • 説教「俺は二つの国の国民なのさ」神学博士 吉村博明 宣教師、フィリピ3章17節ー4章1節、ルカによる福音書18章31ー43節 2019年3月17日
    私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様   1.はじめに  本日の使徒書の日課の中にあるフィリピ3章20節の聖句は、キリスト教徒のお墓の墓碑銘としてよく見かけるものです。新共同訳...
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    フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライター、ペッカ・シモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ(Kahden maan kansalainen)」が聴けます!ここをクリック。 歌について、吉村宣教師の17日の説教の初めに触れられています。歌詞の訳は説教の後ろにあります。フィンランド国教会の...
  • 交わり 2019年3月17日
    今日の説教の終りのほうで説教題であるフインランドのP.シモンヨキの「俺は二つの国の国民なのさ」の歌詞を披露してくださいました。その後交わりの席でも吉村先生は彼の歌をユーチュウブで聞かせてくださいました、フインランドではゴスペルシンガーソングライターとして大変人気のある歌手だそうです。...
  • 歳時記 2019年3月17日
    散歩の途中で見かけた椿の花です、咲き初めでしょうか初々しいですね。冬枯れの木立の中で見つけた小さい春でした。...
  • 説教:木村長政 名誉牧師 2019年3月10日
    コリント第1、 7章 25-35          2019年3月10日(日)    今日の聖書は、コリント第1、 7章25~35節までです。パウロは、7章からずっと、結婚に関してのべてきました。そして、未婚の人たちについて、パウロは書いています。  ここで言っていることは、一言で「人は現...
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
  • 3月 20日 10:00 am
    手芸クラブ
  • 3月 24日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ13章1~9),礼拝後交わり、読書会担当者木村長政先生
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