説教音声

説教「天使の御告げ」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章26~38節

2017年12月10日(日)

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 イエス様の御降誕を祝うクリスマスがもうすぐです。今日の礼拝ではクリスマスの喜ばしい出来事が起こる前に神様がどんな出来事をなさったのか、今日はマリアに起こった出来事を中心に御言葉に聞いてゆきたいと思います。ユダヤのガリラヤの町ナザレと言う村に一人の乙女マリヤがおりました。ガリラヤの町ナザレと言ってもこの当時誰にも知られていない片田舎です。26節によりますと〔6ヶ月目に天使ガブリエルはナザレと言うガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人の許婚である乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアと言った。〕とあります。純粋で清らかな心を持っていたマリアに突然天使ガブリエルが現れたのですから彼女はどんなに驚いたことでしょう。そしてマリアに大変なことを告げたのであります。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます。」マリアはいきなりこう言われて」驚きと恐れの思いで聞いたでしょう。天使の言葉は祝福の言葉ですが、なぜ祝福されねばならないのか全く分からなかったからであります。マリアは何を考えてよいのか天使に告げられたことが理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、天使の言われるままを聞いたいます。聞いていくうちにだんだん分かって来たのです。何が分かったにかと言いますと「主が一緒にいてくださる」ということであります。30節から見ますと天使がマリアに告げました。「マリア恐れることはない。あなたは神からの恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない」。マリアに対して、恐れなくて良いあなたは身ごもって男の子を産むと言われる。更に天使は告げます。「その子にはダビデ王の座をくださる」と言うのです。天使ガブリエルが告げた言葉は凄いことでした。マリアにはとてもとても考えられないことばかりです。マリアは思い迷って迷って心が乱れたことでしょう。どうしていいか何もかも分からなくなってしまった。マリアが驚いたのは自分にはあり得ないことであるからです。それで34節でマリアは言いました。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしはまだ夫がありませんのに」。ヨセフとは許婚の仲で結婚はまだしていないのに、どうしてあり得ましょうか、と言うのであります。マリアの言葉はそのとおりに違いありませんが、ただそれだけのことでしょうか、ただ田舎の小娘が慌て恐れてこう言っているだけでしょうか。この前にルカはザカリヤの妻に起こったことを書いています・。

ルカはわざわざ聖書に書き残しておく必要がどこにあるでしょうか。〔実はルカはマリアの話だけでなく、1章5節から25節に至るまで祭司ザカリヤの妻に年老いてから子供が授かっていることを延々と書いているのです。〕年老いたザカリヤの妻に子供が産まれるという、どうしてそんなことがあり得ましょうか。マリアの身に起ころうとしていることが、その6ヶ月前に神様はもう90歳近いこの老夫婦に凄いことをおこされている。「どうしてそんな事があり得ましょうか」人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なことでした。確かにザカリヤ夫婦は子供を望んでいたでしょうが、もうずうっと子度は与えられなかった、それに老人になってしまって子供が出来るなんて考えられないことに絶望していたことでしょう。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。これがクリスマスを迎える全ての人に投げかけられる神からの不思議な神秘であります。そこで35節を見ますと天使

ガブリエルはマリアに答えてあげます。それは壮大な世界しかも深遠な神の霊の世界に触れて、その神秘のベールをあらわにされています。天使は告げます、「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。今や聖霊がマリアをすべて包んでいます。聖霊の出来事です。マリアが乙女であったとか神ご自身がどうして人間の姿をもってみどり子としてお生まれになったのか、そんなことより次元の違う神の霊の次元にマリアはただ恵みを得ているのです。だから生まれる子は聖なる者です、神の子と呼ばれるでしょう。マリアはもう神の霊に満たされて、すべてが神のご計画の中にあってその尊い御業は進められて行きます。マリアは天使の御告げを聞き彼女はそれを正しく受け止めることができました。そこには聖霊の助けとマリア自身の清らかな貧しくしかし純粋な信仰をもっていたからでしょう。カトリック教会の人々はマリアを聖母として特別な人間のようにお祈りをしたりします。しかしマリアが偉いのはそんな事のためではありません、マリアは主なる神が自分に対してなさったことをそのまま信頼をもって受け入れたことであります。そうしてマリアは心のそこから賛美があふれ出て言います。38節にありますように「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」、といっています。天使の言葉からマリアはこのような想像もつかないことが自分の身に起こって行く、それが主のために用いれられ生かされて行くというのです。わたしは、すべてを主に献げて信頼してゆきます、わたしは主のはしためです、と言っています。はしためと言うのは女奴隷のことです、だから、わたしは神様の奴隷でございます、と告白しているのです。奴隷は御主人様の言うままになる者です、その生命もすべて主人のものです。マリアは特別な運命の御業をすべて身に受けて自分を全く神の御手にまかせきったのです。マリアのこれからの身に起こってくる、いろいろな辛い苦難や人々からの非難が襲ってくる、そして家族や許婚のヨセフ、身にも影響して行くすべての事柄を「主のお言葉どおり従って行きます」といっています。それは、計り知れない大きなこと、そして大きな恵みであります、神の子を産むという大きな恵みです。マリアが奴隷と言ったのは少し言いすげでしょうか、神様の思いのまま、そのお考えがどんなものになるのか・・・どこまで思いのままに従うことなのでしょうか。私たちもマリアだけでなく信仰を持つということは神様に委ねて神様に従ってゆく生活です。けれども神の思いのままに従って行きます、とは言っても程度があると言うことになるのでしょうか。毎週の日曜日の朝を神に礼拝しに行くたびに、いろいろと自分の都合を挟み込んで考えてしまいます。自分のうちに口では言えないもろもろの課題が降り注いできます。マリアの思いがどんなに重いものであったか、私たちの神様にお任せする程度などちりのように吹き飛んでしまうほどしかないものでしょうか。

 マリアと共にこれから先のことも私たちは一切を神にお任せして従って参ります。神に任せた者の祝福を受けるものがどんなものか、そこには及びもつかない神の祝福がいつもあるということです。マリアは主のはしためです、と言いましたが私たちは神の奴隷としてキリストの奴隷として信頼して主に委ねて行きます、と言うのでしょうか。私たちは神のみ前に罪の奴隷になっていたのにキリストの救いによって購われたのです、キリストに買い取られたのです。そしてキリストのものとなってしまっているのです。今日私たちが信仰生活をするとき少し真剣に考えてみると自分は自分で造ったものでない。両親が造ったものでもない、本当は神様によって造られた自分であることを思えば自分は神様に対して奴隷どころではない、自分は何もせず努力もしないで神様によってだけ造られて今があるのです。それならばマリアと同じように「お言葉どおりにしてください」と言うほかありません。天使は去って行きましたマリアはどうしたでしょうか、ルカは39節以下に一生懸命に書き記しています。マリアはザカリアの家を訪ねエリザベトに会いに行きました。エリザベトは聖霊に満たされてマリアを迎え喜び合います。42節にありますように「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」マリアは感謝と喜びに満たされて彼女の最大の心を込めて主を賛美しました。それが46~55節のマリア賛歌です。「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜び讃えます。・・・」実はマルチン・ルターはこのマリア賛歌を、分かりやすくドイツ語で請解説教のように書きました。1520~21年に書いてルターの身の危険から保護してくれたマイセンの領主ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ殿下に捧げています。〔殿下よわたしは先日お送りくださいました殿下の親愛なるお手紙、恭しく拝受いたしましたその慰めに満ちたお手紙のおもむき全てを喜びを持って拝承しました、しかしながら殿下よ私が長い間お約束してまいりました「マリア賛歌講解」は多くの反対者との不幸な論争にしばしば妨げられていまだにその責任を果たしていません。それで私は同時にこの小冊子をもって殿下のお手紙に対するお返事に代えたいと存じます。〕王や君主は神のみ前にどうあるべきか、マリアの賛歌の51~53節をもって強調して行きます。

ルター自身がこの時カトリックの会議で破門されるかどうか生死との危険の只中で自分の身を重ね合わせている訳です。そして序言の書き出しには次のようにあります、〔この聖なる賛歌を順序正しく理解するには祝福された処女マリアが彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は聖霊によって照らされ教えられたのである。というのは何人も直接聖霊から与えられない限り神も神の言葉も正しく理解することはできない。しかし何人もそれを経験し試し体得することなしには聖霊からそれを受けることはできない。かくして聖処女は彼女が価値なく卑しく貧しい、そして軽蔑された者にも関わらず神がかくも大いなる事を彼女のうちになしたもうたことを経験したときに聖霊は彼女に神はかくの如き主にいまし低き者を高うし高き者を低くしたもう、ということ、知恵と知識とを与えた。〕今回はこれまでにしましょう。 アーメン・ハレルヤ!

説教「神の宮として輝く」木村長政 名誉牧師

12回コリント信徒への手紙 31017節               20171112日(日)

 

今回のみ言葉で中心となる大切な言葉は最後にあります17節です。17節〔あなた方は神の神殿なのです〕と言うことです。9節でもパウロは強調しました。〔私たちは神のために力を合わせて働く者でありあなた方は神の畑、神の建物なのです。〕この最後のあなた方は神の建物なのです、と同じことを記しています。信仰者は教会を互いに建て合うほかありません。そして決して易しいことではありません。それでパウロは10節で言うのです。教会を建てる中心人物になっているところの自分について「神が賜った恵みによって熟練した建築師のように土台を据えた」と。この仕事は人間の知恵や努力だけではどうにもならない。神から賜った「恵み」によって、と言う事が大切であります。教会は人間のためにあるものですが、神の教会であります。それなら神の恵みを受けて神の力によらねば出来ないことであります。神の力により神の御心にかなうようにするわけであります。それは神の恵みによる他ないでありましょう。その上、パウロは「熟練した建築師として」と言っています。家を建てるのですから熟練した建築師が必要なことは言うまでもありません。まして、神の家を建てると言うことになると、よほどの熟練が必要であります。信仰の熟練であります。いろいろな困難にあうことは当然であります。その時に何よりも信仰的にどうしたら良いのか。それを知っているのは神の恵みによって熟練者になった人でなければならない。神のお気に入るように神のみ業に役立つようにするには熟練が必要でしょう。ところが、ここに注目すべきことが書いてあります。それはパウロが土台を据えた、と言っていることであります。そして「その土台の上に」他の人が「家を建てるのである」と言うのであります。つまりパウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、とい思っていたらしいのであります。つまり、パウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、と思っていたらしいのであります。土台は言うまでもなく建物では一番大事なものであるに違いありません。しかし、パウロが特にこのように土台にこだわるのは何か特別な意味があるにちがいありません。それで11節に書いています〔イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません。〕この土台以外には誰も土台を据えることはできない、その土台はイエス・キリストであると言っているのです。パウロが自分は神の恵みによる熟練を持っていた、と言っていますが、その熟練はまさにイエス・キリストを土台に据える、その熟練さであるということです。ここにこの建物の秘密があり力があるわけです。

 

それならば、キリストが土台であるというのはどういうことでしょうか。これは実際の建築の話ではありませんから、つまり例えて言っている訳です。土台というのも信仰上のことであります。教会がイエス・キリストに対する信仰の告白を持っているということです。イエス・キリストに対する信仰の告白というのはイエス・キリストと言い表す信仰告白といっても良いでしょう。イエスが神の子キリストである、と信仰をもって告白することは何でもないようでいて決してそうではないのであります。教会の信仰告白の歴史を見ますといつでも問題はあのナザレ人イエスを神のお遣わしになった救い主キリストと信じているかどうか、ということです。多くの人々が「イエス」という人物を偉い人だと考えたり或いは「たぐい稀な人間離れの人類の教師だ」と見る人々、学者など神を信じていない人でもそれくらいは考えているのであります。しかし、そのキリストによって救われるということになれば話は別であります。それは人間的に言えば大変難しいことであります。しかし、そう信じなければ救われたということにならないでありましょう。もし救われたというのでなければキリスト教はただの人生の教えと言うことになってしまう。その信仰が「土台」になっているというのはどういうことでしょう。土台ですからその上にあるものをすべて支える力を持っているものである、ということです。それならばイエス・キリストを土台に持つ教会はあらゆる事においてイエス・キリストを表すものでなければならない。それはイエス・キリストがその教会の支配者になるということであります。教会の中の一切のことを運営するのにイエス・キリストがご主人になっていてくださるようにするのであります。それはキリストを頭と仰ぐというようなことでなくて自分がキリストに救われたのだから何事もキリストのみ心のままにしようとということであります。次にパウロが12節以下で書いていることはどういうことでしょう。12

〔この土台の上に誰かが金、銀、宝石,木、草、わらで家を建てる場合各々の仕事は明るみに出されます。〕と書いてあります。するとパウロ自身は土台を据えるだけであったのでしょうか。「既に据えられている土台以外のものを据えることは誰でもできない」と言っているのですからパウロはこの土台を据えるだけで他の人はその土台の上に建てるだけである。ということになります何れにせよもう土台は据えられた。これからはその上に建てるだけである。それは多くの人に任せるほかはないと思ったのでしょう。人々はどのようにして教会を作るのでしょうか。ここに書いてあるようにある者は金を用い、ある者は銀を用い、他の人々はそれぞれ宝石や木や草や、わら等で建てるというのです。勿論これは実際の家の建て方のことではなくて各々がその信仰によって建てることを言ったのでしょう。信仰には強弱があります、また長い信仰生活の人も短い信仰生活の人もあったでしょう或いはお金持ちのように見えるが実際には草か、わらしか提供できなかったかもしれません。その反対に思いがけない人が思いも及ばないような献げ物をすることもありましょう。金を献げたか、銀を献げたか、草であったか判断することはできません。神がご覧になってどう判断されるか神のみがご存知であります。そして神がきびしくお裁きになることであります。

 

そのことを13節以下に詳しく記しています。〔各々の仕事は明るみに出されています。かの日に火と共にあらわれ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味するからであります。〕ある学者はここで火と言っているのは聖霊の判断のことであろうと言います。ここで言っていることが具体的に何を言うのか良く分かりません。ともかく神の御心にかなわない業は滅び去り御心にかなったものだけが残るというのでしょう。1617節ではいかにも突然のことのように「我々は救われる」と言って急に「あなた方は神の宮である」と言っています。信仰を持っている者は神のものとされるということです。「神のもの」というのは神に仕え神のお喜びになるようにすることであります。ここではそれが「神の宮になる」ということであるのです。神のものであるからには神に喜ばれるものということですから、それなら神が一番お喜びになることは何でしょうか。詩篇19編に次のようにあります。〔もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。〕神がおつくりになった天地は神の栄光をあらわしている。それなら神のものである私たちも何より神の栄光を表し神を讃えるものでなければなりません。それが神のものの特徴であるはずであります。神のものは神の宮と言っても

良いのであります。神の宮ではどこを眺めても神の栄光をあらわし御手の業を示しているはずでしょう。わたしたち信仰者はどんな仕事をしていてもその仕事と生活を通して神を崇めること、それを神はお望みになっているのであります。神の宮というのは言うまでもなく神殿ということです、神殿での仕事は決まっています。それは神に会うということです、私たちが神の宮であると言うのはいつでも神に会うことのできるような生活が与えられたということであります。信仰を持っている者は祈ることを知っています、いつどんな時でも祈ることが出来ますし神様にお目にかかることができる、これこそ大きな恵みであります。最大のことは礼拝が出来ることであります、神の神殿であるのですから神を拝むことができるということです。

 

しかし自分たちがはたして神の宮といえるのでしょうか、何の力もなく知恵もなく自分たちのどこにそのような資格があるのでしょうか、と惑ったりします。それでこう書いてあります。〔神の御霊が自分の内に宿っているのをしらないのか。〕〔知らないのか〕と言っているのですからそれはまるで私たちの弱い心を見通しているように思われます。あなた方は神の宮であることに気づいていないであろう。しかし神の御霊がすでにあなた方の内に宿っているではないか、というのです。神の御霊はキリストを信じてくださいました、救いも確信させてくださいました。こうして信仰のすべてが神の御霊によって与えられているのであります。こうして信仰生活をしていることが私たちが神の宮であることが示されている、ということになるのではないでしょうか。私たちはもっと自分が神の宮であることを意識して良いのであります。そして一層熱心に神を拝み神に仕えなけらばならないのではないでしょうか。          アーメン・ハレルヤ!

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説教「神の国の実を結ぶ者」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節、イザヤ書5章1-7節

主日礼拝説教 2017年10月22日 聖霊降臨後第20主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には、農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。さて、聖書を読んだことのある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者やそれに従う人たち、所有者が送って迫害される僕たちは神が遣わした旧約聖書の預言者たち、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 これがわかれば、イエス様がたとえで言いたいこともわかります。世界の数ある民族の中から天地創造の神に選ばれたイスラエルの民。彼らはモーセの律法を授けられて、それを一生懸命に守ろうとした。ところが、人々の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。神はそれを正そうと、預言者を立て続けに送ったが、指導者も民も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後に神はひとり子イエス様をこの世に送ったが、それも彼らは殺してしまった。神はイスラエルの民に神の国を託していたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を委ねることにした。その、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を担うことになったのがキリスト教徒ということになります。イエス様がここで話していることは過去の出来事の復習と将来についての預言で、預言は具体的な歴史の中でその通り実現しました。このように世界史の復習も兼ねて、イエス様の預言が見事に当たったことに感心しながら、このたとえを理解できます。

 

2.イザヤ書5章の「ぶどう畑」のたとえ」

このような理解が出来るのは、私たちが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後で歴史上何が起こったかを知っているからです。たとえで言われていること一つ一つを歴史上起きたことに結びつけることができるからです。ところが、イエス様と面と向かい合って初めてこのたとえを聞いた当時の人たちは、当然ながら、歴史を遡って確認するような理解はできません。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中でユダヤ教社会の指導者たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。まだイエス様の十字架と復活の出来事の前のことです。

ただし、指導者たちがこのたとえを理解できる鍵がひとつありました。それは、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。どのような聖句だったかと言うと、天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体のようにひとつのぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。一心同体のように、と言うのは、神の「愛する者」が持つぶどう畑と言われつつも(1節)、神はそれを自分のぶどう畑とも言います(3節、ただし4節の「ぶどう畑」も5節の「このぶどう畑」もヘブライ語原文ではちゃんと「私の」ぶどう畑と言っています)。畑を耕したり、見張りの塔を立てたり、「酒ぶね」(ぶどうを足で踏んでぶどう酒用の汁を搾り出すところ)も作ったり、そういうふうに神の「愛する者」が一生懸命働きますが(2節)、働いたのは神自身であるとも言います(4節)。

さて、一生懸命働いて、良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。「酸っぱいぶどう」というのは、野生のぶどうとも訳される単語ですが、要するにぶどう酒造りに役立たないぶどうが出来たということです。そういう出来事を述べた後で神は、実はこの恩知らずのぶどう畑は神に選ばれたはずのイスラエルの民の情けない現状である、という解き明しを始めます。その時ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは、キリスト信仰の観点では神の御子イエス様を指すことは間違いないでしょう。

さて神は、ぶどう畑が良い実を実らせるようにと、できるだけのことをしてあげた。つまり、民を奴隷の地エジプトから解放して、約束の地カナンに定住させた。その途上で神の意思を明らかにする律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってくれたりした。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前に活躍した人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していていました。当時イスラエルの民には南北二つの王国がありましたが、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされます。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさに神に見捨てられたぶどう畑となってしまったのです。

 

3.イエス様の「ブドウ園と雇われ農夫たち」のたとえ

 それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ園と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ園の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。「この、預言者の再来と騒がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何か自説を展開しようとしているな、聞いてやろうじゃないか」ということになりました。ところが、イエス様の教えにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ました。雇われ農夫がその一つです。「あれ、イザヤ書には農夫なんか出なかったぞ、一体何を指すのだろう。」違いは聞く人の注意を引いたでしょう。イエス様の狙いもそこにありました。

 イエス様のたとえのブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことが納得できます。普通だったら、そんなことをしたら自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまいます。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということなので筋は通っています。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これらの出来事の意味は、私たちには明らかです。先にも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はユダヤ教社会の指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる前、イエス様が本当に神の子なのか疑いがもたれていた頃、人々は私たちと同じようには理解できなかったでしょう。所有者は神だとわかるとしても、農夫とは一体誰のことだ?神が送って農夫が殺した僕たちとは誰なのだ?それにしても、所有者の息子つまり神の息子とは一体誰のことだ?

まさに疑問の渦が沸き起こるや否や、イエス様は指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」指導者たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。」この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すかはっきりわからない状態で、たとえを額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても想像できなかったでしょう。

 指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22~23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのです。それを捨てた建てる者というのは、イエス様を十字架の死に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にここでこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値あるものを理解できず、価値のないものにしがみつく者という連想を生むので、先ほどの農夫同様に良からぬ者たちを指していることに気づきます。さて、イザヤ書5章と詩篇118篇の聖句をもとにして、この男は何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちます。

 そこでイエス様は、全ての謎の解き明かしをします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていの場合ユダヤ民族以外の民族「異邦人」を指す言葉です。ここにきてイエス様の教えの全貌がはっきりしました。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神ではないか!神が送って迫害され殺された僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫とは自分たち、ユダヤ教社会の指導層のことを指していたのだ!この時点で指導者たちはたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまで旧約聖書の聖句と外国人所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事のごちゃまぜだったものが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異邦人に渡されてしまうということを、自分たちの口を通して言わせるとは!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

 

4.「神の国」とは?

 このイエス様のたとえは、私たちから見たら歴史の復習になるので、ああそういうことが後で起きましたね、という受け止め方が出来ます。ところが、まだイエス様の十字架の死と死からの復活も起きていない、神の国の移譲も起きていない段階にいる人たちにとっては、そんなことは認められない、と反発するしかありません。そして、全てが起こってしまった後は、起こってしまったことに対して認められない、などとは言えません。

 それでは、本日の福音書の箇所は、もう実現してしまった預言として、私たちからみたら過去の出来事として、ああ、イエス様は将来のことを見事に言い当ててすごいなあ、と言って終わるものでしょうか?たとえの中で言われていることは全て実現してしまったので、それに対して何も付け加えることも削ることもできない。それで本日の福音書の箇所の説教は、ただ歴史の復習のような解説で終わってしまうのでしょうか?

 そうではありません。このイエス様のたとえの教えは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えるものになっています。イエス様の時代から2000年過ぎた今でもそうです。説教というのは、聖句の正確な解説だけではありません。できる限り正確な解説の上に立って、それが今を生きる自分に何を語ろうとしているか、これを正確な解説の上に立って明らかにすることが説教です。聖書の聖句は生ける神の御言葉ですから、その神が今を生きる自分に何を語ろうとしているかを明らかにするのが説教です。

 この、一見私たちの目からすれば過去のことを言っているだけにすぎない聖句は、もちろん今を生きる私たちにどう生きるべきかを教えています。それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語の原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の民族すなわち「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒するが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?

 「神の国」については、説教で何度もお話ししてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。こうしたことが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、神の意思を実現できない人間にそれは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

 このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

 このようにキリスト信仰者は罪の汚れを残しているのだけれども、イエス様のおかげで全く清いと見なしてもらえるようになった、それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。かつて自分の造り主である神に背を向けていたが方向転換をして、これからは神の方を向いて、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々を歩むのです。これがキリスト信仰者です。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む時、既に神の国に予約席を持っています。

 ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れられます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

 

5.神の国の実を結ぶ者

以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。(当時のユダヤ教社会の指導層が「神の国」を同じように理解していたかどうかは別の問題になるので、ここでは取り上げません。)今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?答えは、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言っているので、誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。イエス様を救い主と信じる者に神の国が与えられる。神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられる。つまり、イエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれるのです。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。

 そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。果たして反するものが自分の前に立ちはだかってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る解放の力、罪と死の支配からの解放の力で打ち破ってもらいます。それが本当に打ち破られるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。

説教「植える者と水を注ぐ者」木村長政 名誉牧師

2017年10月1日(日)日曜礼拝説教

第11回コリント信徒への手紙 3章5~9節 

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 私の礼拝説教ではコリント信徒への手紙のみ言葉を連続での説教です、今回で11回目になります。今回は3章5~9節まで聞いていきたいと思います。コリントの教会で伝道した二人、パウロとアポロの使命についてスポットを当ててみたいと思っています。3章5節には「アポロとは何者か、またパウロとは何者か。この二人はあなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて使えた方です」。とあります。これがきょうのテーマですね。パウロは自分が伝道した教会が今どうなっているか、この手紙の最初から問題としてきました。1章11~12節にあらわに記しています。〔私の兄弟たち実はあなた方の間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。あなた方はめいめいに「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファにつく」「わたしはキリストにつく」などと言い合っているとのことです。〕こうしてコリントの教会の中が四つに分かれて争い合っているというのです。なんの言うことだろうか。パウロの思いはどうであったでしょうか。自分はパウロにつくとか自分はアポロにつくと言い合っている、それどころかパウロこそが神の人だ!と言い、いやアポロこそが神に仕える者だなどと神にまで祭り上げようとしている。ところで1章では四つの分派で争って混乱している様子を書いていますが3章のところでは四つの中でもパウロにつく者とアポロにつく者について言っています。この二人だけが特にコリントの人々を導いたからでありましょう。二人だけが直接にこの教会で働いた人であったからでしょう。パウロは自分を慕ってくれている人気に甘えて得意になったでしょうか、いいえそうではありません。それどころか「アポロは何者か」「パウロはいったい何者か、何ができるというのか」と怒り心頭に言うのであります。そこで普通でしたら自分を「神なんかではない。」と卑下して「アポロもパウロも普通の人ではないか。」と言うところであります。ここのところが本当のところ微妙な問題であります。簡単なようでそうではないのです。パウロもアポロも心血を注いで伝道したのです。この二人は救いの言葉を語っているのです。人の知らない神の救いを知っているのです。それならその人々を崇めようとしても何も不思議ではない思われます。どんな宗教でも救いを教える人ならその人に特殊な能力を持っていると考えられて普通の人より上に扱われたりします。人間の力でどうしようもない苦難を神の力に頼むのに神に取り次ぐ特別な役割を負って働いてきた二人です。パウロ自身からはこうしたことは言い難いかもしれません。自分たちが扱っているものが全く自分たちの力が及ばないものであったからです。それは特別な経験をしたり、特別な能力をもっているからではなく神の救いのの言葉を神から託されているだけであったからであります。

 自分と教会との関係は「語る人」と「聞く人」との関係であってそこに取り扱われている事柄は神の救いの言葉であったからです。大事なのは神の救いの言葉そのものであってそれを語る人ではないからであります。そう意味で信仰に導いただけであったということであります。伝道者の謙遜という者は自分が神の業に対して全く無力であることを知っているからであります。パウロもアポロもわざと謙遜しているわけでもありません。自分たちが伝道しているものは全く自分たちの力の及ばないものであることを十分知りつつしかし語らざるを得ないのであります。もう伝道に夢中であります、そうして彼らの熱意が周りの人々へと信仰を起こし広がって教会をつくって行ったのであります。神の言葉を受けて熱意に心が燃えなければどうして信仰が与えられ起こっていきますか。パウロとアポロとは対照的な人であり辿ってきた人生も性格も全く違っております。パウロもアポロも当時としては学識豊かな人であったと言えるでしょう。パウロについてはもう使徒言行録を見れば9章や22・26章に詳しく記されています。パウロはキリキヤのタルソという所から生涯が始まっています。エレサレムでラビとしての厳しい訓練を受け又エレサレム最高議会の議員としてもそうとうの権力を持った人となります。そうしてキリスト者を迫害し捕らえていく人でありましたがダマスコの途上で神によって劇的な回心をします。人生のどん底からキリスト者の信仰を与えられ命がけで伝道に気が狂ったように情熱を注いで伝道しコリントの教会を築いていったのでありました。その教会が内部分裂して崩壊しようとしているわけです。パウロの重大使命が与えられていくことになります。一方アポロはどんな人であったか聖書に詳しく記してないのです。アポロは アレキサンドレアの出身で彼は聖書に詳しい人であった、しかも雄弁な人であった。使徒言行録18章24~28節に記してあります。アレキサンドレアは旧約聖書のギリシャ語訳をしたところで有名でした。従ってギリシャ文化とヘブル文化とが接触し融合したところでありました。彼はそういう中で特に旧約聖書に精通するほどに学問をした人でありました、加えて雄弁であった。こうしたパウロとアポロの全く違った二人がこの教会の伝道に熱心に関わったのでした。そう見ますと教会の中に両方それぞれにつく人ができることは不思議なことではないでしょう。そこで大事なことは「私はアポロにつく」とか「私はパウロにつく」といった分裂や相対立することではなく、お互いの与えられている才能や能力を信仰の面で生かして用いていくべきでしょう。(教会は二人の優れた面を用いて相働く場であるべきでしょう。)パウロにとってはキリスト教の福音は何か信仰の基本的なことを語る役目を大切にしていったということです。パウロの数々の手紙を見ればそこに丁寧に分かり易く繰り返し繰り返し救いの根本を語っています。アポロはどうであったかと言うとギリシャ哲学や教養豊かな面で優れていましたから基本を教えると言うよりも信仰生活に肉付けした美しさが備えられているのが得意でありました。例えばヘブル人への手紙はアポロが書いたのではないかという学者もいるくらいこのヘブル人への手紙には旧約聖書を素材にしながら華麗な書き方をしているからであります。

今日のみ言葉の結論を言いますと神様はこのパウロとアポロという伝道者をコリントの教会の重要な役目を最も適切な働きに用いられた。それぞれにイエス・キリストのみ力を受けて教会の大事な人々を選び神の栄光のために働いていった。そうして絶妙の表現で次のように記しています。〔私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。〕この世の風雪に耐えて信仰が養われていくのには神様が与えてくださる種を良い土地に植え大切に育て、そして水を注ぐ。アポロもパウロもそのために用いられます、成長させてくださるのは神様であるということをしっかり覚え教会の成長と栄光を望んでいきたいと思います。     アーメン・ハレルヤ

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

説教「教会にしかない鍵」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13-20節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
By Nheyob (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons 本日の福音書の箇所は一回読むとなんとなくわかった感じになります。ああ、イエス様は弟子たちに質問して、人々は「人の子」を誰だと考えているか、と聞くんだな。それに対して弟子たちは「人々は『人の子』を洗礼者ヨハネとか旧約聖書のいろんな預言者だと思っています」と答えるんだな。次にイエス様はペトロに「お前は私を何者と思うか」と尋ねて、ペトロは「メシアです、生ける神の子です」と答えるんだな。それに対してイエス様は、ペトロがそう答えたのは神がわからせたからだ、と言っているんだな。そしてイエス様はペトロを将来のキリスト教会の長にする、教会の鍵を与えると言って、彼を教会内で権威ある地位につけるんだな。なるほど、なるほど、簡単じゃないか。

ところが本日の箇所は本当はとても難しいのです。一つ例を挙げると、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」と言うのは、皆様もご存知のように、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今あるこの世が終わりを告げる時、神の国が到来する。それを統治する者が「人の子」です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに聞いたのです。弟子たちの答えは、洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだとかエレミアだとか旧約聖書の預言者の名をあげる人もいます、というものでした。このように「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、それでは弟子たちは彼のことを誰だと思うか、と尋ねます。つまり質問が「人の子」についての人々の見解から、イエス様自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは一体どういうことでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っている、と答えた後だから、続く質問としては、それでは弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、というのが自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - これらは一体どう繋がっているのでしょうか?

 もう一つ難しいことは、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと命じたことです。メシアとは、これも皆様ご存知のように、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者を指し、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、「油注がれた者משיח」はユダヤ民族の現実の王様の印でした。これがバビロン捕囚の後の時代になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエルの王国を再建する待望の王様を意味するようになります。さらに紀元前3,2世紀頃になると、ユダヤ教社会のなかで、今あるこの世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだします。そうした時、メシアとは、そういう終末の時に現れて、天地創造の神への信仰を守り抜いた者たちを苦難から救い出して、これを死から復活させた者たちと合流させて新しい世に迎え入れてくれる、そういう救い主と考えられるようになります。

さて、イスラエルの王国を再建するダビデ家系の王様を意味するにせよ、また終末の救世主を意味するにせよ、どちらをとるにしても、問題は、なぜイエス様は、自分がメシアであることを人々に話してはならない、と命じたのか?彼が無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、そのペトロを教会の基にすると言います。「ペトロ」という名前は「岩」を意味するギリシャ語のペトラから来ています。「陰府の力も教会には対抗できない」と言いますが、具体的に何を意味するのか?さらに、ペトロに天の御国の鍵を渡し、ペトロが「地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とは何を意味するのか?ペトロに教会内での権威ある地位を与えるんだな、ということはわかりますが、具体的に何を意味しているのか?

本日の箇所は、以上の三つのことがわからないとわかったことにならないのです。それで、本日の説教ではそれら三つの疑問点、イエス様の二つの質問はどう結びつくのか?なぜイエス様はメシアと公言してはならないと命じたのか?ペトロを土台にして建てられる教会とは何か?これらを明らかにしたいと思います。

 

2.

 最初の疑問。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、今度は彼自身についての弟子たちの見解を質問したことは、どう繋がるか?これを明らかにする鍵は、「人の子」とは何かということです。実は、このダニエル書に出てくる「人の子」というのは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学の研究者にとってもやっかいな問題でして、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めに触れましたように、「人の子」はダニエル書7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味では「年齢を無限に重ねた者」、つまり天地創造の神を指します。この神から、「人の子」は王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国を統治します。これがダニエル書の預言です。

ところで、紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの200年位の間に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことをダニエル書のような新しい世に登場する王だけでなく、ずばりメシア救世主と同一視する思想が現れます。他方で、本日の福音書の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを「人の子」に抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者のリストに彼を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。弟子たちの答えを聞いたイエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。果たして弟子たちは、あなたこそ「人の子」ですと答えられるだろうか?しかし、イエス様の十字架の受難や死からの復活をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。「生ける神」というのは、金や銀や銅や木や石で作った像ではなく、本当に生きていて万物を創造し影響力大の言葉を発する神ということです。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシア救世主であり神の子でもあるので、ペトロの答えは「人の子」は抜け落ちたけれども間違ってはいません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されます。つまり、迫害を受けるという意味で自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという質問の答えをここで自ら示すのです。

 

3.

 二番目の疑問は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と、現世から新しい世の永遠の命へ橋渡しをする救世主と考える思潮、この二つがあると申しました。イエス様は確実に後者の意味での救世主ですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまでそういう救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないか、そういうことが福音書の他の箇所から窺うことができます。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そういうメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配からの解放を夢見る愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、帝国当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早く起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起こることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。ヨハネはそれを「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べます(ヨハネ12章23節)。つまり、「時」が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、私たち人間を罪と死の支配下から救い出して、造り主である神のもとに私たちを贖い出すために、犠牲の生け贄となるべくエルサレムに入ったのです。この世の終わりの時に天地創造の神は最後の審判を司り、全ての民族を裁きにかけるのですが、その神に前もって捧げられた完全無傷な生け贄、それがイエス様でした。以上のような次第で、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現されなければならない神聖な贖いの業を妨げてしまう恐れがあったのです。この段階でイエス様がメシアであることを公にしてはならないというのは、以上のような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなりました。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.

 三つの目の疑問は、ペトロを土台にして建てられる教会とは何か、というものです。本日の箇所の17節から19節までのたった3節だけですが、内容がぎっしりですので、じっくり見ていきます。

 まず、17節のイエス様の言葉、イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。新共同訳にあるような「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは、もちろん「人間」を意味する熟語なので、訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、ペトロにわからせたのは神であって誰か他の人間が入れ知恵したのでははない、ということになってしまいます。しかし、そういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、その状態ではイエス様の正体を理解できない、ということです。ペトロがわかったというのは、彼が神から霊的な影響力を及ぼされて、単なる血と肉の塊でなくなった、ということです。

そういうわけで、ペトロがイエス様のことを「メシアです、生ける神の子です」と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではありませんでした。というのは、皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる直前に主を見捨てて逃げてしまったからです。しかし、十字架と復活の出来事の後は全てが一変しました。まず、霊的な影響力に決定的に服することが聖霊降臨の時に起こりました。それからは、ペトロも他の使徒たちもどんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する「人の子」であると公けに宣べ伝え始めたのです。そのように見ていくと、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表したというのは、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

イエス様の十字架と復活の出来事の後、そしてそれに続く聖霊降臨の後、人間が天地創造の神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかが明らかになりました。それは神がイエス様を用いて実現した人間救済が人間の心にすっと入るようになったということです。どういうことかと言うと、旧約聖書の創世記の初めにありますように、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事で人間の内に罪が入り込み、人間と神との関係は壊れてしまいました。神はそれを深く悲しみ、なんとか関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに万が一、この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から取り除かなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神の関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪からくる神罰を全部彼に肩代わりさせて十字架の上で死なせました。まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりません。神は今度は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間に開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全部自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。イエス様のことを単なる過去の歴史上の人物ではなく、現代を生きる自分自身の救い主とわかるというのは、天地創造の神の霊的な影響力が働いていることを示しています。洗礼を受けるというのは、その影響力に服することを決定的にすることです。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言うのは、教会というのは単なる建物ではなくて、まさに天地創造の神の霊的な影響力に服してもはや単なる血と肉の塊でなくなった者たちから構成されるものを意味します。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」です。日本語訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。フィンランド語、スウェーデン語、英語(NIV)の聖書も「陰府の門」と訳しています。(ドイツ語訳Einheitsübersetzungは「陰府の力」でした。)「陰府」(ギリシャ語αδης、ヘブライ語שאול)というのは、死者が安置される場所という意味ですが、これはよく混同されますが、火が燃え盛る地獄(ギリシャ語γεεννα、アラム語גיהנס)とは別のものです(ルカ16章でイエス様がたとえを使って教えている箇所で陰府と地獄が一緒になっていますが、これは例外的です)。火が燃え盛る地獄というのは、今ある世が終わりを告げる時、今ある天と地が創造主の神によって新しい天と地に造りかえられる時、最後の審判が行われて、罪の支配下に甘んじていた者たちがそこに投げ込まれてしまうというように、火の地獄というのは最後の審判の時に出て来るものです。陰府というのは、その日が来るまでこの世を去った者が眠りについている場所です。ルターに言わせれば、この世の痛みや苦しみから解かれて復活の日まで安らかに眠る場所です。

陰府はよく地下にあるイメージを持たれますが、それは埋葬されるのが地面の下だったり墓石の下だったりするためでしょう。しかし、この世の向こう側のことなので、下とか上とかは言えません。いずれにしても、人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも寄せ付けない力を持っている。ところが、イエス様を救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を与えられて神のもとに引き上げられる。固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう者たちから構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 最後に、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことを見てみましょう。この「地上でつなぐこと、解くこと」は一体何を意味するのでしょうか?まず、「地上で解くこと」から見てみます。これはギリシャ語原文の言葉(λυω)の背景にあるアラム語(イエス様が話していた言葉)の言葉(שרא)から見ると、「地上で許可すること」になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」も同様にギリシャ語の言葉(δεω)の背景にあるアラム語の言葉(אסר)からみると「地上で縛りつける、禁止する」という意味になります。天の御国への入国を許可しないということです。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに託される鍵が何の鍵であるかが明らかになりました。

ところが、ここで注意しなければならない大事なことがあります。それは、天の御国への入国を許可するか否かを決めるのは、これは最後の審判を司る天地創造の神であって、いくら神からの霊的な影響力に服するとはいえ、人間個人が行う筋のものではないということです。それなら、なぜイエス様はペトロがそれを決められるかのように言っているのでしょうか?イエス様の趣旨を理解するようにしましょう。

神から霊的な影響力を受けてイエス様をメシア、生ける神の子と証したペトロを中心にして、共に聖霊降臨を受けた使徒たちを土台にして教会が誕生しました。先にも申しましたように、教会は神からの霊的な影響力に服する者たちから構成されるものです。ここでのイエス様の趣旨は、天の御国に入れるための鍵、つまり復活の日に死から目覚めさせられて復活の命と体を与えられて造り主の御許に迎え入れらえるための鍵、その鍵はまさに教会にあって、それ以外にはない、ということです。教会は神の御言葉、つまり十字架と復活の業を成し遂げたイエス様を神のひとり子、メシア救い主と証する神の御言葉を持っています。そしてその御言葉を外に伝える役割を果たしています。教会はまた、天地創造の神からの霊的な影響力に服することを決定的にする洗礼を持っています。そして洗礼を受けた者たちに霊的な栄養を与える聖餐式も持っています。この栄養を受けると、神の御心に沿うようにこの世の旅路を歩む力が得られます。このように、教会にこそ、天の御国への鍵があるのです。イエス様は、この鍵と関わりを持ちなさいとおっしゃっているのです。関わりを持たないと天の御国への入国を認めてもらえなくなる、だから関わりを持ちなさい、と促しているのです。この私にはその鍵で扉を開けてもらえるのだろうか、などと心配するには及びません。イエス様を救い主と信じる者が「その鍵で私にも開けて下さい」とお願いすれば、必ず開けてもらえる、そうイエス様は約束されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

説教「成長させて下さる神」木村長政 名誉牧師

2017年9月10日(日)

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第10回コリント信徒への手紙Ⅰ

3章1~4節

今日の聖書はコリント信徒への手紙3章1~4節です。2章までのところでパウロが言ってきたのは〔神の神秘は人間には分からない、が聖霊によって知ることができる。〕つまり聖霊によって知らされることはキリストのことです。キリストの御業である「十字架の救い」のことであるということです。そこでパウロが言いたかったことは、まずキリストの十字架以外に語るべきものはないということ。続いて神の霊について語ってきました。そうするとパウロにとって神の霊というのはキリストの十字架を信じさせるものと言う事でしょう。神のことは十字架をおいて外にない。信仰の難しいところでああります。そういうことから見るとコリントの教会の人々はいかにも頼りない、神の霊を受けた人とは思えなかったのでありました。だから霊の人に対するように話すことはできないと思ったのでありました。しかしコリントの人々が神の霊を受けていたことは間違いありません。まだ始めの方に止まっていたということでしょう。肉に属する者というといかにも世俗的な人で信仰などには縁のない人のように聞こえます。しかしそうではなくてここでは霊のある人としてまだ十分に成長していない人という意味であります。霊の人と言っても大人もあれば幼子もあるというのです。そして話を食べ物の例へと持って行きます。

3章1節を見ますとまず其の事を書いています。〔兄弟たち私はあなた方には霊の人に対するように語ることができず乳飲み子である人々に対するように語りました。乳を飲ませて固い食物は「与えません肉の人だからです。〕信仰の食物の乳というのは何でしょうか、固い食物というのは何を指すのでしょうか、考えてみますと良く分からないのです。信仰にも深い浅いがあるようにその教えにも初心者向きと成熟した者のためということがあるのでしょう。ここで言われる乳とか堅い食物というのはそういう意味での入門とか実技とかいうものではないのです。その点から言えば福音はいつも同じであります。初心の人にとっても成熟した信者にとっても救いはただ十字架にあるだけであります。ある学者はこう表現しています。〔ここで言われている事は教えの本質ということよりも、むしろ教えを説く形式乃至方法であるのだ。同じキリストが幼子にとっては乳となり知識にたけた人には堅い肉になるのだからである。〕そうしてみると乳とか堅い食物という言い方は教えを説く形式乃至方法であるといえるでしょう。

ヘブル人への手紙5章12~13節には次のようにあります。口語訳でみますと〔あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。しかし堅い食物は善悪を見分ける感覚を実際に働かせ訓練された成人のためのものです。〕堅い食物は善悪を見分ける感覚がある、と実にすばらしいことを言っています。この中には何か神秘的な普通には入り込めないような境地というものがありません。それよりも大切なことがペテロの第一の手紙にあります。2章1~2節です。

〔だからあらゆる悪意、あらゆる偽り、そねみ、一切の悪口を捨てて今生まれたばかりの子の様に混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち救いにはいるようになるためである。〕ここで言われていることは信仰の初歩の者に対してだけ言われたものでないでしょう。どの信者にも悪意や偽りを捨てて今生まれた幼子のように霊の乳を慕いなさい。それなりにそれは成熟した信者にとっても同じことであります。

コリントの教会の人々の実情を知ってパウロから見れば信仰的には幼稚であって今になってもその力がないと言われる程である。このことはペテロの手紙の2章にあったように悪意や偽りといったことと関係がありました。信仰が衰えれば必ずその生活に問題が表れてきます。堅い食物をとることができないような信仰生活には悪意や偽りが出てくるのであります。そのことはコリントの教会で明らかでありました。ねたみと争いが出てきました。それで3節にこう言っているのです。〔あなた方の間にねたみや争いがあるのはあなた方が肉の人であって普通の人間のように歩いているためではないか。〕ここで普通の人間のようにと言うのはただの人間のようにということであります。そして又ここで言う肉の人というのは生まれながらの人です。神に対して責任を負うことができない神についても知らない人々のことです。

信仰者はみな何ほどかは神の霊を受けたはずであります。神の霊を受けるというのは目に見えたり手に触れたりすることではありません。神を信じることができるようになる時には神の霊を受けているのであります。それなのにこの人々はそのように生きることができないで普通の人間つまり神の霊を受けれいない人のような生き方をしていたのであります。神を信じると言いながら神に対して責任をとるような生活ができなかったのであります。そのように神によって生きることができない生活にねたみと争いが出てきたということです。普通に考えれば神から離れたことをあらわす時もっと凶悪な生活を思ってしまいます。例えば殺人とか盗みとかを想像しがちであります。ところがここには「ねたみ」と「争い」としか書いていないのであります。それはコリントの教会の事情がたまたま双であったのでしょうか。そうではないと思います。それは「ねたみ」と「争い」ということがそれほどに人間の心に根深く入っているからであります。人間の生活のある所どこでもいつでも問題になることはねたみでありそこから出てくる「争い」であることは誰でもよく知っていることであります。これはすぐに血を見るようなことまでないので深刻に考えようとしません。しかし考えてみるとこれほどに人生の生活を蝕んでいるものはないかもしれません。人が2~3人集まればそこにはもうねたみが起こります。ある人が言いました、「これはもう人間の諸悪の根源である」と。ねたみは自分の方だけを大きく見て他の方を小さく見るからです。それは肉に支配された性質を野放しにするからであります。そこから争いが生じやがて民族と民族の争い戦争が耐えません。又小さくともそうしたことは教会の中でも起こることです。

パウロの時代に限らず21世紀の教会の中に燻っている問題であります。信仰によってキリストに生かされ導かれて行くことです。どうか教会の中心に主イエス・キリストがおられ又私たちの信仰生活に主イエス・キリストがいっぱい満ち満ちていてくださるように祈って行きたいものであります。

                                <アーメン>

説教「通常の生活を送る力はどこから来るか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書14章22-33節

主日礼拝説教 2017年9月3日 聖霊降臨後第13主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 
今年の夏のフィンランドは20度を超える日があまりない冷夏でした。夏を謳歌したい北欧の人たちにとって残念なことだったのは天候だけではありませんでした。それは、フィンランドでもテロ事件が起こったのです。8月17日にスペインのバルセロナなどで15人の犠牲者を出すテロ事件が起きた2日後、私たちが滞在していたトゥルク市の中心にあるマーケット広場で、スペインの時と同じ国出身の若者が刃物で無差別殺傷事件を起こし、2人が命を落とし8人が重軽傷者という犠牲者を出しました。スペインの事件ではISが犯行の関与の声明を出したということですが、フィンランドの方は捜査が進むにつれて、犯人がISの思想の影響を受けていたことが明らかになってきました。

 フィンランドは2年前欧州を揺るがした移民難民の大量流入の時、3万人近くを受け入れました。人口550万ほどで3万人とは、1億2500万の日本で考えたら70万近く入ったことになります。かつては他の北欧諸国に比べて移民難民の受け入れに消極的だったフィンランドでしたが、時代は変わったと思わせました。もちろん移民難民の受け入れに反対するポピュリスト政党も大きな勢力を持っています。ちょうど夏前に同党の強硬派と穏健派が分裂した後だっただけに、今回の事件が政治的にも影響を与えることが心配されます。

 さて、今回の事件の捜査や裁判の行方がどうなるか、またフィンランドの政治や社会がどのような方向に進むかという話しには立ち入らないことにします。それなら、なぜ説教の冒頭でこの事件を取り上げたのかというと、良識ある市民の対応を報道などを通して追っているうちに、本日の福音書の箇所が大きな意味を持っていることに気づいたからです。本日の箇所の、イエス様が溺れかけたペトロに手を差し出して引き上げて助けた場面です。

 テロ事件の後、世論の中でスローガン的に言われた言葉に次の二つのものが頭に残りました。一つは「憎しみを憎しみで返すな」です。もう一つは「出来る限り通常の生活を続けよう」というものです。この二つは真理だと思います。というのは、テロリズムの目指すところにあるものは、相手に憎しみを掻き立てて同じ土俵に引き込もうとすることであり、また相手が憎しみや恐怖に満たされて通常の生活が出来なくするようにすることだからです。それで、「憎しみを憎しみで返さない」、「出来る限り通常の生活を続ける」ことほど、テロリストを悔しがらせることはないのです。

とは言っても、「憎しみを憎しみで返すな」とか「悪に悪で報いるな、善で報いよ」というのは、なかなかできることではありません。こうしたことは、イエス様の教えにも、またそれを受け継ぐパウロの教えにもはっきり言われているのですが、キリスト教徒でも実践するのは困難です。それでも、キリスト信仰には、そういう教えに絶えず心と目を向けさせる力が働いているので、信仰者に大きな葛藤をもたらします。私は以前の説教でこの難しいテーマについて触れたことがありますが、そこで申し上げたことは、キリスト信仰の中の二つの要素が人間の心と目をそういう方向に向けさせる力を生み出している、二つの要素とは、一つはイエス様を救い主と信じる信仰であり、もう一つはそれと密接に結びついていて、最後の審判と死者の復活の信仰がそれです。このテーマは、この世が存在する限りは無くなることのないテーマですので、これからも繰り返し説教の中で取り上げられるでしょう。それで、本日の説教では、本日の福音書の箇所に関係する、もう一つのテーマに絞ってみます。それは、「出来る限り通常の生活を続ける」ということです。

今回のフィンランドのテロ事件は、犠牲者の遺族や関係者だけでなく、全国民的なショックを与えました。受けたショックに対しては、「一人でとじこもったり、一人で考え込んではいけない、思いを言葉にして他の人に聞いてもらいなさい、思いを語られたら聞いてあげなさい」ということをよく耳にしました。事件のあったマーケット広場の一角は沢山の蝋燭と花束が置かれ、連日多くの人が取りまいていました。その中に赤十字の職員やボランティアが何人も出ていて、思いを打ち明けたい人たちの話を聞いている場面を目にしました。また、事件が起きたのが金曜日だったので、週明けの月曜日は市内の学校では最初の授業時間に先生が事件について明らかになっていることを話し、生徒の思いを聞くことをしました。これは、ネットなどで根も葉もない情報が飛び交って、恐怖や憎しみを煽り、子供たちが惑わされないようにするために重要な指導でした。事件当日は本当にデマ情報も流れたのです。月曜日のテレビ・ニュースのインタビューで中学生の生徒が「話し合いをして良かった。これからどうなるか心配したが、話し合いの後クラスのみんなは授業に集中できたと思う。クラスの雰囲気は前と同じに戻ったと思う」と話していたのが印象的でした。

2.

テロ事件に限らず、大惨事とか悲劇的なことが起きると、悲しみや恐怖が人々に拡がります。その時、通常の生活がもろく崩れやすいものに感じられ、確かなものを失ったという喪失感に襲われます。テロ事件のようなことが起こると、これからは危険と隣り合わせに生きなければならないということを否が応でも意識します。そうなると「出来る限り通常の生活を続ける」というのは、自然に出来ることではなくなって、本当に意識して努力してしなければならないものになってしまいます。一人で籠っていろんな感情の虜にならないようにするために、話をする、聞いてあげる、というのは基本的なことです。それでも、危険と隣り合わせということを意識して、出来る限り通常の生活を続けるというのは、何か足かせをして前に頑張って前に進まなければならないような重々しさがあります。大人や親は、子供がのびのびと自然に通常の生活を送れるように守る責務があると思います。しかし、子供も大人になれば、通常の生活というものは空気のようにあるのではなくて、意識して送るもの、場合によっては努力して送らなければならないということを学ぶ必要があると思います。それは子供を守るためでもあり、自分自身のためだからです。人間は誰でもいつかは死を迎えるのだから、テロ事件があるかどうかにかかわらず、これは学ばなければならないことだと思います。もちろん、悲しみを生み出す出来事が大きすぎて、意識して努力するなどと言っても、通常の生活を続けるということが非常に困難になる場合もあります。意識するにも、努力するにも、力の源が必要です。どこにそんな力があるでしょうか?

少し脇道に入りますが、ドイツの有名な作家トーマス・マンの小説に「魔の山」というものがあります。主人公の青年が雪山で遭難しそうになって、吹雪の中で睡魔に襲われて夢を見ます。平和に満ちた海辺の町があって、そこには礼儀正しく思いやりに満ちて互いに敬意を表し合う、とても高潔な人たちが住んでいる。そこの若者たちもとても健康的で、見ていて思わず憧れてしまう。ところが、町の背後の山には不気味な神殿があって、そこでは血に飢えた鬼のような者たちが幼児を八つ裂きにしている。海辺の人たちは、実はそういう残酷で悲惨な世界が紙一重にあることを知っていて高潔に生きている。そう気づいた主人公の青年は、彼らはそういう世界があるのを知って、どう生きていこうかと考えて、結論として高潔に生きることを選んだのだと推論する。自分も彼らのように善良になりたい、と思った青年は、そのためには思考を死に服従させてはいけないのだ、と気づき、そこで目が覚める、そういう場面です。

それでは、危険や死と隣り合わせでも、それらに押し潰されない力はどこから来るのか?思考を死に服従させないのが鍵ならば、その具体的な手引きは何で、それを行える力はどこから来るのか?マンの小説に答えはないのではないかというのが、2回読んだだけの私の見解です。もしそうだとしたら、マンの意図というのは、世界にはいろんな宗教や信条があるのだから、答えはそれぞれが自分で見つけなさい、という、読む人に問題点がどこにあるのかを明らかにして示すことにあったのでは、というのが現在の私の解釈です。それが的を得ているか得ていないかという議論はしませんが、危険や死と隣り合わせでも、それらに押し潰されない力、出来る限り通常の生活を送る力はどこから来るかという問いに対しては、キリスト信仰者は聖書から答えを見出します。本日の福音書の箇所も答えを与えています。

3.

焦点となる場面をよく見てみましょう。イエス様は、5千人以上の人たちの空腹を満たす奇跡を行った後、弟子たちに舟に乗ってガリラヤ湖の対岸に先に行っていなさい、と命じます。弟子たちは出発し、イエス様は群衆を解散させると、山に登って一人で祈りを捧げます。時刻はすっかり夜でした。強風がガリラヤ湖一帯に吹き始めます。弟子たちが乗った舟は、向かい風とそれがもたらす波に進行を妨げられて悪戦苦闘します。新共同訳によると舟は陸から「何スタディオン」離れていたとありますが、ギリシャ語原文では「何」どころか「たくさんの(πολλους)」スタディオンです。2,3スタディオン程度ではありません。1スタディオンは約192メートルということなので、仮に10スタディオンとすれば、大体2キロ程離れていたことになります。その時、山を下りたイエス様が、湖の上を歩いて舟に接近します。弟子たちは「幽霊だ」と言って「おびえた」とありますが、おびえたと言うよりは、ギリシャ語では「驚愕した」という位の強い意味の動詞(εταραχθησαν)で、恐怖のあまり叫び出すくらいのパニック状態に陥りました。

さて、水の上を歩いて来た者が幽霊ではなくイエス様とわかって、皆がホッとした時、ペトロがイエス様にあえて命じさせて水の上に乗り出します。新共同訳では「イエスの方に進んだ」(29節)と訳されていますが、これもギリシャ語原文を忠実に見ると、イエス様のところにほぼ到達した表現です(ηλθεν προς τον Ιησουν)。実際、ペトロが溺れ出した時にイエス様は手を差し出して引き上げたのだから、それくらい近くまで行っていたのです。それでは、ペトロが水の上を歩いた距離がどれくらいだったか推測できるでしょうか?水の上に立っているイエス様と舟の間の距離はどれくらいだったかということから考えると、夜明けの薄暗さと強風と波がある中でイエス様の声が聞き分けられたということなので、50メートルというのはどうでしょうか?長すぎますか?それなら30メートルはどうでしょう?30メートルでも、ペトロはそれをほぼ完歩したのです。しかも強風と波の中を、です。さて、溺れかけたペトロをイエス様は手で支えるようにしてか、または両腕で抱きかかえるようにしてかは、ギリシャ語の表現でははっきりしませんが、いずれにしても二人が舟に乗り込むと、風は止み、平穏な湖が戻ります。以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。

4.

ペトロの一件をよく見ると、3つの段階があることに気づきます。初めにペトロは、イエス様が水の上を歩ける方だとわかり、そのイエス様がひと言命じて、それに聞き従えば、自分も歩けると信じて、実際そうなりました。イエス様が水の上を歩いたというのは、重力に関する自然法則を超えていたからです。天地創造の神が造られた天と地の中で効力を持つ自然法則、これをイエス様が超えたというのは、ヨハネ福音書1章や「コロサイ人への手紙」1章に言われるように、イエス様が神のひとり子として、乙女マリアから生まれる前は永遠の存在として天地創造の場面にも居合わせて創造の役割を担っていたのです。まさに父なるみ神と同様の万物の創造者なので、造られたもの、自然法則をも含む被造物を超えているのです。水の上を歩くというのは、まさに神の子としての一面を現わしたということです。ペトロは、この方の言葉を信じて従えば、同じことが出来ると信じました。そして、まさにそうなりました。しかし、それが出来たのはペトロの力ではありません。それは、完全にイエス様の力によるもの、「来なさい」という言葉に秘められたイエス様の力によるものでした。その言葉をそのまま受け入れたので、言葉に秘められた力がそのまま働いたのです。これが第一の段階です。

次の段階は、場面の描写をよく注意してみる必要があります。新共同訳ですと、ペトロはイエス様に向かっている最中に風に気づいて、それで怖くなって溺れ出した、という訳です。つまり、最初は風に気づいていなかったが、歩いている最中に突然気づいてしまったという表現です。ところが、ギリシャ語原文をよく見ると、そうではなく、「風に気づいた」の「気づいた」は「見る」(βλεπω)という動詞で、その用法は、水の上を歩き出してからイエス様の所に到達するまで、そして怖くなって溺れ出すまで、ずっと一貫して「見ている」(現在分詞、あとの動詞は全部アオリスト)という意味です。ペトロは途中で気づいたのではなく、ずっと風も波もイエス様と同じくらい眼中にあったのです。それで危険な状態があるということは頭のどこかにあるはずなのですが、イエス様の力を信じることが恐怖を上回っていて、「来なさい」というイエス様の言葉が耳に大きく響き、風の音は気にならない雑音にしかすぎなかったのです。ところが時間が経つうちに、雑音が大きく響きだし、イエス様よりも波風の方が強く目に入いるようになって、信じることと恐怖が逆転してしまいました。この、恐怖と信じることの力関係が逆転したことが第二段階です。

この逆転が起きると、自然法則を超えるイエス様の力が働かなくなってしまい、ペトロはその法則の中に吸収されてしまいました。そうなると今度は、被造物である人間の能力や努力で水の上に立たなければなりません。しかし、自然法則の圏内に置かれれば、どんなに踏ん張っても力を込めても、沈むものは沈んでしまいます。

溺れ出したペトロはイエス様に「助けて下さい」と叫びます。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げます。これが第三段階です。ここで、「助けて下さい」というのは、ギリシャ語の原文では「救う」という意味の動詞(σωζω)、キリスト信仰で言う、罪の支配からの「救い」、神の罰からの「救い」、死を超えた永遠の命に与る「救い」というような、個々の困難からの脱出を超えた広い意味を持つ言葉です。溺れることから「助かる」という直近のことだけでなく、人間の「救い」に関係する言葉です。

このことからこの出来事を捉えなおすと次のようになります。ペトロが溺れ出したというのは、人間が自分の力で神聖な神のもとに自分を引き上げようとするとどうなるか、ということを象徴しています。人間は自分に内在する罪をそのままにしては父なるみ神のもとに引き上げてもらうことはできません。なぜなら、神は罪の汚れとは全く対極にある神聖な方だからです。ペトロが溺れ出したというのは、人間は自分の力で罪の汚れを拭い去ることができないことを如実に象徴しているのです。

そこでペトロがイエス様に叫んですぐ手を出してもらって引き上げてもらったというのは、まさにイエス様が人間に代わって罪の問題を解決して下さったということ、そのイエス様に全身全霊に委ねることでイエス様がしてくれた解決を自分の解決のように頂けて、それで神の御許に引き上げてもらえることを象徴しています。イエス様が人間に代わって罪の問題を解決してくれたというのは、十字架の出来事として歴史上の出来事としてあります。神話とか作り話ではありません。そこで、十字架の出来事とは何かと言うと、神のひとり子が人間に代わって人間の受けるべき神罰を全部引き受けて下さった、まさに神聖な生け贄になった、ということです。それで話は終わりません。イエス様は一度死なれたが、三日後に父なるみ神の力で復活し、そのようにして死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことが全部自分のために行われたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様に全身全霊で「私を助けて下さい、救って下さい」と叫べるようになり、ペトロのように引き上げてもらえるようになったのです。

たいていの人は、イエス様に手を差し出してもらって引き上げてもらえると聞くと、人生のいろんな困難や危機において「助けて」もらえることを考えるかもしれません。もちろん、それもあります。しかしながら、人間の命にとって一番重要で決定的なことは、この世を去る時に自分の造り主のもとに引き上げてもらえるかどうかということです。このような命の決定的な場面でも「救って」下さる神のひとり子を救い主として信じる信仰、この信仰があれば、人生の中で嵐が吹き荒れ大波が荒れる時でも、いつもイエス様は手の届くところにおられるのだと安心することができます。イエス様は「助けて下さい、救って下さい」という叫びに必ず応じて手を差し出して引き上げて下さいます。それは、この世の人生の中の個々のいろんな困難や危機の時もそうだし、一番重要で決定的な、この世を去る時にも手を差し出して引き上げて下さいます。これが確実なことだ、と信じられるのは、何といっても、イエス様の十字架と復活の出来事があるためですが、その出来事が起きる前にも、ペトロを水の中から引き上げことで、そうして下さる方であることを具体的に示していました。この世を去る時にそうして下さるのなら、この世の人生の中でも個々のいろんなことでも引き上げて下さると信じられるのです。このことが、死や危険と隣り合わせにいる緊張感があっても、重々しくならず、出来るだけ普通の生活を続けることを意識し、努力する力を生み出すのです。まさに聖書を通してその力が与えられるのです。

5.

終わりに、フィンランドのテロ事件から1週間後、国教会のトゥルク市とその近郊の有志の呼びかけで、事件の場所に集まって讃美歌を一緒に歌うということがあったので、それについて触れておきましょう。トゥルク市交響楽団の団員が伴奏を担当し、集まった人たちが歌ったのはフィンランドの教会讃美歌600番「善の力の驚くべき守りに」でした。それは、悪の力に襲われた時、父なるみ神に身を寄せることの大切さを歌う内容です。曲はフィンランドの作曲家によるものですが、作詞は誰のものかというと、これがかの有名なドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーによるものなのです。あの、ナチス・ドイツの時代に反体制の態度を示して強制収容所に送られて処刑された悲劇の神学者です。その彼が処刑される前年に書いたテキストがフィンランド語に訳されて讃美歌になりました。ドイツ語の原文が手に入らなかったので、ここではフィンランド語訳を紹介します。神から差し出される手にしっかり掴まることが言われています。危機や悲惨なことが起きて心がかき乱されて、これからどうなるかと不安に陥る時、父なるみ神とみ子イエス・キリストへの信頼を今一度思い起こさせ心を落ち着かせ、通常の生活を送れる力を与えてくれる讃美歌だと思います。

 

「善の力の驚くべき守りに」フィンランド教会讃美歌600番

1.善の力の驚くべき守りに
我らは皆静かに包まれている。
忠実な創造主に信頼して
今ともに新しい時に進み行かん

2.苦難の道、我らの前に立ちはだかるなら、
キリストはその時も我らを運び往かん。
我ら命を父なるみ神のみ手に委ね、
神自ら我らに平安を備えたまう。

3.主よ、希望の蝋燭に輝きを与えたまえ。
ともし火に安らかな、温かな光を与えたまえ。
闇に光を投じ、恐れを取り除きたまえ。
キリストよ、我らの間に留まりて平和を来たらせたまえ!

4.悪の支配が周囲で勢いを増すとき、
御国の声を轟かせたまえ。
御国の民が新しい賛美の調べで今もう歌っているのを
我らが聞き入ることができるようにしたまえ。

5.善の力の忠実な源である方
何が起ころうとも我らを覆い包んで下さる。
夕べから朝まで闇の時もずっと共にいて下さる創造主
彼から我らは新しい日を受け取る。

フィンランド語で聞く

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖餐式 木村長政 名誉牧師

 

説教「創造主に目を向けよ、主は約束を守られる方」 神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録17章22-34節

主日礼拝説教 2017年5月21日 復活後第五主日

 

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日の説教は、使徒言行録17章の出来事、使徒パウロがギリシャのアテナにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したことをもとに解き明しをしようと思います。皆様もお気づきのように、説教題が予告していたものから変わりました。最初の考えでは、哲学者たちからみて福音は愚かな教え、何かずれている馬鹿馬鹿しいものにしか聞こえなかった、それがパウロの弁明を聞いて、ずれているのは福音ではなくて人間の知恵の方であったとわかった人たちも現れた、そのことを中心にお話ししようと思っていました。それで、「ちょっとずれてるキリスト教」という題にしたのですが、説教をまとめているうちに、それまで陰に潜んでいたものが急に明るみに出るようなことが次々とあって、解き明しする聖句は同じなのですが、結局は「創造主に目を向けよ、主は約束を果たされる方」という題に落ち着きました。キリスト教がずれている、などと言うのは説教題として相応しくない、と聖霊の戒めだったのでしょう。もちろん、私の本意は、実はずれていないのだ、ということを言いたかったのですが、それだったらなぜ、「ぜんぜんずれていないキリスト教」にしなかったのか、と言われてしまったでしょう。でも、それも当たり前すぎてあまりいい題に思えません。いずれにしても、「ずれてる」、「ずれていない」など、あまりいい言葉ではなかったと思います。反省しています。

それでは、本題に入ります。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人たちの妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と少し様子が違っていました。まずユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわり、町中に溢れていたのは、金や銀や石を用いて人間の頭で考え作った神々の像、すなわち偶像でした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統にしっかり立つ人ですから、心穏やかでなかったことは言うまでもありません(16節)。

パウロはまず、いつものように現地のユダヤ人会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます(17節)。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。宣べ伝えた相手は、ユダヤ人と「神をあがめる人々」です。「神をあがめる人々」というのは、使徒言行録に何度も出て来るギリシャ語の言葉セボメノスσεβομενοςで、意味は、ユダヤ人以外の人つまり異邦人でユダヤ教に改宗した者を意味します。さらに、まだ改宗はしていないが、旧約聖書の天地創造の神を信じ出し、メシア救世主の到来を信じるようになった異邦人も指します(使徒言行録13章43節、50節、16章14節、17章4節、17節、18章7節)。地中海世界のユダヤ教の会堂には生まれながらのユダヤ人の他にこうした異邦人のシンパもいたのです。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まず初めに彼らのところに行って、ナザレのイエスが約束のメシア救世主である、と伝えたのです。ところが、イエス様をメシアと受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり完全な異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。

アテナではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったということは驚くべきことでしたが、もっと驚くべきことが待っていました。それは、パウロがまさに旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったということです。どういうことかと言うと、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。エピキュロス派というのは簡単に言えば、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら、人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから、そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神

とするが、それは人格がなく心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただ森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。

 さて、パウロはユダヤ人会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになりました。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを監視する役割も果たしていました。

パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。これは実は、世界史上、とても大きな意味を持つ出来事なのです。というのは、まさにこの時、二つの異なる文明が武力的にではなく知性的な衝突をしたからです。一方は、人間の理性の力を信じて万物を理性をもって推し測ったり説明しようとする哲学的なギリシャ・ヘレニズム文明、もう一つは、天地創造の神という万物を司る方自身が人間に対して自分のことや自分の意思・計画を啓示するという信仰のヘブライズム文明です。簡単に言うと、一方は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、もう一つは人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明、この二つがぶつかったのです。この二つは、水と油の関係と言っていいくらい、お互いに相いれないものです。ところが、こうした人間内部の理性を重んじる流れと、人間外部から来る神の啓示を重んじる流れの二つは本質的には対立するものであるはずなのだが、いつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

 ところで、ギリシャ文明が理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そうすると、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒になれるのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、一つはっきりしていることは、これらの神々は、人間の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテナで遭遇したものは人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々ではありましたが、実はそれらは皆、人間内部から生み出されたものなので、同じ範疇に入れても良いでしょう。

 ところで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。

 

2. さあ、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに、どう神の啓示を伝えたでしょうか?まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりして、どうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことを取り上げ、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の多神教信仰ではもちろん、前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあることが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなったのです。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りない物があるかのように人間にいろいろ世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。ここで、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点が逆転します。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について話します。神はそれぞれの民族に歴史と居住する地域を決めた。新共同訳では、神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。原文の正確な意味は「前もって定められた歴史上の出来事を与えた」ということで、それぞれの民族の歴史の出来事は前もって定められているということです(英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳は、ずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。)

神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。そういうわけで、原文は新共同訳のような楽観的な意味はないと思います(動詞のアオリスト・オパティブの意味をよく考えなければなりません)。「もし、手探りをしてでも、見つけることができるのならば」という、見つけるのはちょっと厳しいんじゃないかな、という意味だと思います。(ドイツ語もそういう訳です。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。)

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来きる方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)の詩にも歌われているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということですが、これがギリシャ人も神が近くにおられると考えられる根拠として言われています。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、途絶えてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう視点で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の途絶えてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。イエス様が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げてもらえ、永遠に自分の造り主の許にもどることができるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している、それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。

このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」と言っているギリシャの言葉ゲノスγενοςは少しわかりにくい言葉で、英語は日本語訳と同じ「子孫」、フィンランド語は「親族」、ドイツ語、スウェーデン語は「我々は神を起源とする」とまちまちです。要は、人間は神の血筋を引いていると言っておきながら、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何をしているのかわかっていないのだ、なんと無知なことか!

ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーですが、これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはここまで立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということの詳細は実に旧約聖書の預言に基づいています。預言されたことが本当に起きるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司られる方である。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもそのことを知っています。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。それにしても、死者の復活ということが彼らにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持って計画を立ててひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。

つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある者たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかと思われます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。

 

3. ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。

これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神で、人間に自分を見いだしなさいと働きかける神であるということ、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせれる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「聖書が教える人生の目的」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章24~29節

主日礼拝説教 2017年4月30日 復活後第二主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.見ないでも信じることができる信仰

 本日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様をまだ見ていなかった弟子の一人トマスが、この目で見ない限り信じない、と言い張って、それに対してイエス様が「目で見たことに信仰を基づかせてはいけない」と戒めた出来事です。復活した主を見ることが出来たら、主が復活したことを信じてやろう、というのは全く当たり前の考え方です。弟子たちが見たと言っているのに信じられないとは、トマスは彼らがでたらめを言っていると思ったのでしょうか?ひょっとしたら、他の弟子たちには現れたのに自分にはないというのは不公平だという嫉妬も不信心を助長したのでしょう。結局、イエス様はトマスにも現れました。この目で見た以上は、もう疑うことはできません。お前は、私のわき腹に手を当ててみないと信じないと言っていただろ、ほら、触ってみなさい、とまで言われ、トマスはもう「私の主よ、私の神よ」と言って絶句状態です。不信心も嫉妬も吹き飛んでしまいました。

「わたしを見たから信じたのか?見ないのに信じる人は、幸いである。」ギリシャ語の動詞(アオリスト分詞)のニュアンスは、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」とか「見ないで信じ出した人々は幸いである」です。つまり、信じるきっかけに「見る」ということがなかった、別のきっかけがあって、それで信じるに至ったということです。それでは、そのきっかけとは何か?それについては後で明らかになります。

「幸い」というのはどういうことか?どうして「幸福」とか「幸せ」と言わないのか?「幸い」というのは、幸福は幸福でも、この世の物事に終始した幸福ではありません。死を超えた永遠の命に与っているがゆえの幸福です。死とか、死をもたらす罪に振り回されない、支配されない、それくらい天地創造の神に見守られて、神から祝福を受けて生きられるということです。仮に財産を多く所有していようとも、永遠の命と全く無関係に生きていれば「幸い」ではないことになります。このように、この世の基準からみて「幸福」度が高くても「幸い」とは限らないのです。逆に「幸福」度が低くても「幸い」であることがあるのです。

そういうわけで、「見ないで信じるようになった人々は幸いである」というのは次のように言い換えられます。「復活したイエス様を見ないで、別のきっかけで彼を救い主と信じるようになった人は、神から祝福を受けて神に見守られてこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に神の御許に引き上げてもらえる。

 もちろん、復活の主を見て信じた弟子たちが幸いでなかったということではありません。彼らが見たことを必死に人々に伝えたおかげで、多くの人たちが主を見なかったにもかかわらず、彼を救い主と信じるようになったからです。つまりイエス様はこうしたことが起きるために、これからは見ないで信じるようになることが肝要だ、と言うのです。それでは、どのようにして見ないで信じることができるようになるのでしょうか?見ることの他にどんなきっかけがあるのでしょうか?

 弟子たちは、直接見ることでイエス様の復活を信じることが出来ました。復活したイエス様を見たことで、神の偉大な力が働いたこの方は真に神のひとり子であった、ということがわかりました。それでは、なぜその神のひとり子が十字架の苦しみを受けなければならなかったのか?それは、旧約聖書のイザヤ書53章等で預言されていたように、人間の罪を人間に代わって背負って、人間が神の罰を受けないで済むようにするための身代わりだった、まさに預言の実現だった、ということがわかりました。

 それでは、見ない人たちはどのようにして、そうしたことがわかったのでしょうか?イエス様は天に上げられ、弟子たちや他の目撃者たちも、年月を経てこの世を去って行きました。しかしながら、イエス様を救い主と信じる人は増える一方でした。彼らは目撃者でなかったにもかかわらず。一体何が起こったのでしょうか?それは、直接の目撃者である使徒たちの、迫害にも屈しない証言を聞いたことが影響しています。迫害に屈しない命をかけた証言ですから、まさに真に迫るものがあったでしょう。聞いた人たちは、これは本当のことだと確信したでしょう。イエス様が昇天する前に既に目撃者だった使徒たちに加えて、昇天後にイエス様に出会ったパウロが加わりました。まず彼らの体験談や教えが、いろんな教会に送られる手紙の形にまとめられました。その中で、イエス様の出来事がいかに旧約聖書の預言の実現であるかの解き明しがされました。こうした使徒の教えと旧約聖書の解き明しに加えて、次に目撃者たちの証言録に基づくイエス様の言行の記録つまり「福音書」がまとめられました。このようにして旧約聖書に新約聖書が合体して、キリスト教の聖書が出来上がりました。多くの人がこの書物を読み、この書物に基づく教えを聞いて、目で見ていないイエス様を救い主と信じるようになりました。まことにイエス様の言われるような、見ないで信じるようになった幸いな人たちが誕生するようになったのです。

 2.生きる目的を教える聖書

 もちろん、人が聖書を読んですぐイエス様を自分の救い主と信じるようになるかといえば、必ずしもそうではありません。例えば、キリスト教は西洋文明の土台の一つなので、それを理解してやろう、そうすることで混迷する現代世界を読み解いてみようと言って聖書を読んでみても、イエス様が読む人にとって救い主になることはありません。また古代のオリエント世界の文化や宗教を知ろうとして読んでも同じです。さらには、イエス様を歴史上の思想家ないし社会改革者の一人とみなして読んでもイエス様が救い主になることはありません。思想家や社会改革者が死を超えた永遠の命など与えないからです。

 それでは、どういう読み方をすると、古代オリエント世界にも、また西洋にも生きていない私たち、現代という時代のグローバリズムが渦巻く世界の中の日本にいる私たちにとって、イエス様が救い主となるのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒言行録の箇所が一つ参考になります。それは、ペトロが聖霊降臨の日に群衆の前で行った演説の最後の部分です。この長い演説の中でペトロは解き明かしをします。お前たちが死刑に引き渡したのも同然のナザレのイエスは実は旧約聖書に預言された神のひとり子であった。そのことが彼の復活で明らかになった。イエス様は異邦人の手に引き渡されたのだが、神はそうなることを全て前もってご存知で、お前たちにさせるままにしただけだ。そんなことも知らずにいい気なものだ。神のひとり子を死刑に引き渡すなどとは、なんと大それたことをしてしまったことか!

これを聞いた群衆は心に突き刺さるものを感じました。新共同訳では「大いに心を打たれ」と訳されていますが、それではペトロの言葉を聞いて感動してしまったことになります。そうではありません。ギリシャ語の(κατενυγησαν την καρδιαν)は文字通り「心が突き刺された」です。そこで群衆はペトロたちに「私たちは何をすればよいのですか?」と聞きます。ペトロの答えは、悔い改めなさい、つまり神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る生き方を始めなさい、そしてイエス様の名前に依拠して洗礼を受けて罪の赦しを受けなさい、そのようにして自分たちと同じように聖霊を受けなさい、というものでした。その結果、この日3千人が洗礼を受けました。キリスト教会が歴史上、誕生した瞬間です。

 心に突き刺さるものを感じて、「私たちは何をすればよいのか?」という問いを発するというのは、それまでの生き方は間違っていた、それを続けることはもうできない、方向転換しなければならない、ということに気づいて、じゃ、何が正しい生き方なのか?目指すべき方向は何か?それを問うているのです。つまり、生きる目的を再考しているのです。

聖霊降臨の出来事というのは実は、人間が生きる目的というのはイエス様を救い主と信じることと切り離せないということをペトロが人々にわからせた出来事です。それを人々はわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。もちろん、この時の人々は、イエス様を死刑に引き渡すことに直接間接に加担した人たちだったので、反省の余地が大いにあり、それをペトロに指摘されて深く反省しました。私たちの場合はどうでしょう?私たちは別にイエス様を死刑に引き渡すことに加担していないのでペトロの演説を読んでも、同じように心に突き刺さるものはないのではないか?果たしてそうでしょうか?

「私たちは何をすればよいのか?」という問いは、生きる目的の問いです。その問いは、それまで目的と思っていたことが目的でなくなってしまった、追及するに値しなくなってしまった、まさに目的を見失った状態の時に出て来ます。あるいは、これまでさしたる目的もなく生きてきたが、何かの原因で今やそれをはっきりさせなければ生きられなくなってしまったという時にも出て来ます。いずれにしても問いは同じです。「私は何をすればよいのか?」そんなこと考えないでも生きていけるという人もいるかもしれません。しかし実際、新聞の新刊本の紹介を見ても、生きる目的を教えるというような本は沢山出ています。多くの人が生きる目的、何のために生きるのか考えたり悩んだりしているのでしょう。

何のために生きるのかという問いは、多くの書物に埋もれて忘れられてしまった感があるとは言え、聖書ももちろん答えています。聖書がどう答えているかと言うと、本日の日課に関連したところでみると、ペトロの演説の中に出てくる「神の計画」がそれです。これは実は本日の日課の箇所の少し前のところで言われています。使徒言行録2章23節ですが、神がひとり子イエス様を十字架の死に引き渡されるのを阻止しないで、そのままにしたのは、「お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで」そうした、と言っているところです。神が定めていた計画とは、人間が天と地と人間を造った神、人間に命と人生を与えて下さった神と結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、ということです。そこで、神との結びつきを持って生きるとは、どういうことかと言うと、順境の時であろうが逆境の時であろうがいつも神から守りと導きを受けられて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができる、そういう生き方をすることです。そのような神との結びつきを持った生き方は、もともとは人間にはあったものでした。しかし、それは失われてしまったのです。なぜかと言うと、旧約聖書の創世記3章で明らかにされているように、造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪が入り込んでしまったために、神との結びつきが失われてしまったのです。

この結びつきを回復させるためには人間の内に宿る罪を取り除かなければならないが、それは人間の力ではできません。それは神もよくご存知でした。そのため神はひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪を負わせて十字架の上で人間の代わりに罰を受けさせて、その身代わりの犠牲のゆえに人間の罪を赦すという方策にでたのです。それで、イエス様を救い主と信じると、罪の赦しがその人にその通りになるのです。罪が赦された者ですので、その人には神との結びつきが回復するのです。このようにして、人間が失っていた神との結びつきを回復する、これが神の人間に対する計画です。

心に突き刺さるもの、私たちは何をすればよいのかという問い、これらは、実は私たちにも関係しています。神のひとり子が犠牲になったのは、私たちの罪のためだったからです。旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたように、私たちが神の罰を受けないで済むようにと、そして私たちが神との結びつきを回復できるようにするためにイエス様は十字架の道を受け入れたのでした。もし、神のひとり子が私たちの罪のために犠牲になったことがわかれば、「何をすればよいのか」は私たちの問いになります。その答えはペトロが言ったものと同じです。悔い改めて、つまり、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生き、イエス様の名に依拠して洗礼を受けて罪の赦しの中に入り、聖霊を受けることです。

ここで罪とは何かについて一言申しておきます。罪とは、神聖な神の意思に反することです。神の意思は十戒の中に凝縮されています。十戒についてイエス様はどう教えたでしょうか?ふしだらな目で異性を見たら、たとえ行為に及ばなくとも姦淫の罪を犯したことになる、たとえ殺人をしていなくとも人を罵ったら第五の掟を破ったことになる、と。行為だけでなく、言葉や心の中まで問われたら誰も神の前で自分は潔白だなどと言えません。しかし、イエス様はそんな自分が神の罰を受けないで済むようにと犠牲になられた、だからイエス様は私の救い主です、そう信じれば、それで神から罪の赦しを得られて、罪が自分に残っているにもかかわらず罪の赦しの中で生きられるようになります。これが神との結びつきの中で生きるということです。いつの日か神の前に立たされても、イエス様のおかげで私にはやましいところはありませんと言っても大丈夫なのです。それにしても、この世はなんと罪に満ちていることでしょうか?心の中にある罪が大手を振って言葉や行いに現れるのを許している感じさえします。ペトロが本日の箇所で「邪悪なこの世から救われなさい」(使徒言行録2章40節)と言っているのは、私たちの時代にも向けられています。神との結びつきの中で生きるとは、罪の力よりも強い力の下にいて安心していられることです。罪が私たちの心を惑わせようとして甘い声をかけてきたり、また私たちを怯えさせようとして怒り声をかけてきたりしますが、そうした声は神の御言葉に耳を傾ける者には一時の耳障りな雑音にしかすぎなくなります。聖霊に一息かけてもらえば、埃のように飛んで行ってしまいます。

以上みてきたように、聖書を読んでイエス様を救い主と信じる信仰に至ることができるのは、聖書が次のことを教えていると気づくからです。まず、自分は化学物質の複雑な化合の結果生じた、そういう偶然の産物としてあるのではなく、この自分に対してお考えと計画を持つ方が造られたということ。次に、今自分は自分の造り主とどんな関係にあるかと言うと、その関係は崩れてしまっているということ。そして、その関係を回復するために造り主は何をして下さったか、と言うと、まさにひとり子イエス様を私たち人間のために送られたということ。こういうことを聖書は教えていて、そうなんだとわかって、やっぱり神との結びつきの中で生きることが大事なんだ、その中で生きなければならないとわかって、それが生きる目的だとわかった時、イエス様を救い主と信じるのは当然のことになります。このように聖書が人間の生きる目的を教えているとわかった時、イエス様は既に救い主になっています。

 

3.この世は仮住まいという視点

 神がイエス様を通して与えてくれた罪の赦しの中で生きる人は、自分に注がれる恵みの大きさのゆえに思わずひれ伏してしまい、感謝と賛美を口にしないではいられなくなります。神を全身全霊で愛しなさい、隣人を自分を愛するが如く愛しなさい、隣人が神との結びつきの中で生きられるように働きかけなさい、というイエス様の言われたことが自分の一部になったような当たり前のことになります。

そのように生きる人にとって、この世とはどんな世界かということについて、本日の使徒書の箇所でペトロは「仮住まい」と呼んでいます。最後にそのことについて見てみます。ギリシャ語の言い方(τον της παροικιας υμων χρονον)は、「寄留者としての期間」ですが、「寄留者」とは、一時滞在者、その土地の人間ではなく、よそ者です。カナンの地でのアブラハムがそうでした。キリスト信仰者にとって、この世は自分の本当の土地ではなく、よそ者として一時滞在しているということですが、それは、本国が別にあるからで、その本国とは天の御国、神の国です。それは、今は神のもとにありますが、この世が終わりを告げ、今ある天と地が新しい天と地に創造し直される時に唯一現れる国です。キリスト信仰者はそこを目指して、この世を歩んでいます。もちろん、「仮住まい」と訳してもOKです。そう言うことで、「本住まい」が別にあることを意味していますから。

そこで、今生きているこの世を一時滞在の場所、仮住まいなどと言ったら、本住まいの天国が大事になってしまって、この世のことをないがしろにしてしまうのではないか、と思われるかもしれません。それは心配には及びません。キリスト信仰者にとって、この世で自分のものに見えるものは、本当は自分のものではなく、全て神から与えられたものです。伴侶にしろ、子供にしろ、肉親にしろ、家にしろ、仕事にしろ、自分の才能や身体的特徴にしろ、みな神から与えられたものと観念します。神から与えられたので、どう使おうが自分の勝手だ、ということにはならない。与えることが出来る神は、いつでも取り上げることも出来る。だから、完全に自分のものとして自分の欲望を満たすために自分だけで消化するために与えられたのではなく、神に与えられたものとして大切に用い、扱い、育てる。そうすることで、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛せて、隣人を神との結びつきに導くことができます。そういうわけで、この世にあるものは、実はみんな神からお借りしたもので、しっかり世話し正しく用いるようにと委ねられたものなので、そうするのです。

もし、この世自体が本住まいになって、自分たちはこの地の主人、よそ者なんかではない、この世の外に本当の住まい、本国などない、ということになれば、どうなるでしょうか?創造主に対する畏れがなくなって、全てのものは自分の欲望を満たす手段になってしまうのではないでしょうか?本日の使徒書の箇所でペトロは、人を公平に裁く方を父と呼ぶならば、この仮住まいの期間、畏れをもって生きるべきである、と教えています(第一ペトロ1章17節)。「公平」とは、ギリシャ語(απροσωπολεμπτως)では、人物が偉い人かどうか、人気のある人かどうか、また多くの人の支持を受けた人かどうか、全く考慮しないで、どんな行いをしたかに絞って裁く、という意味です。地位も何も関係ありません。全てを見通されてしまうのです。それで畏れを持つことになるわけですが、畏れをもって生きるなどと言うと、びくびくして生きる感じがします。しかし実は、そうではありません。ペトロはその後で言葉をどう続けていますか?キリスト信仰者というのは先祖代々受け継いだ空しい生き方から買い戻されるようにして解放された者である、その買い戻しにあたって支払われた代価は金銀のような情けないものではなく、神のひとり子が十字架で流した尊い血であった、それくらい私たちは価値あるものとして神から見られているのである、と。この買い戻しの中にとどまる限り、神の裁きの前に立つことになっても、イエス様の血をかけられて純白になった者として見てもらえるのです。神はまことに畏れるべき方ですが、その畏れというのは、感謝や大きな安心と表裏一体になっているのです。キリスト信仰とはなんと、重層的で全てを網羅した奥の深い生き方を与えてくれるのでしょうか!キリスト信仰者は自分でも気づかずにそれを手にしているのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

吉村博明 宣教師の市谷教会での説教です。「新しい礼拝のかたち」、マルコによる福音書12章41-44節

主日礼拝説教2015年11月15日 市ヶ谷教会

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 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿がありましたが、これは紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されました。これが第一神殿と呼ばれるものです。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚からエルサレムに帰還して、神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。最初これは、ソロモン王の神殿に比べてみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後エルサレムには「聖書の神」の神殿は存在していないことは周知のとおりです。

 イエス様の時代の神殿はどんな建物かと言うと、まず敷地は横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分の罪と民の罪を神の前で償うために生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。

 本日の福音書の箇所の出来事は、この神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。正確には、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったことになります。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、わりと容易に識別できたのでしょう。

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 さて、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この二枚の銅貨は1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコがローマ帝国市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。しかし、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリです。では、1デナリはいくらかと言うと、それは当時の労働者の1日の賃金でした。今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値しかありません。イエス様は、これがそのやもめの全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対的にみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいのお金ですから、やもめにとってはとても大きな価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。また、やもめの献身は金持ちよりも尊いものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをもっと掘り下げてみたいと思います。

 

2.

本日の箇所が教える大切なこととして、まず最初にあげられるのは、神の目は、御自分が造られた人間一人一人の上にしっかり注がれる、特に人の目には取るに足らないとみなされる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れました。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもありません。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神様はあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたことでしょう。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られていい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本に住む私たちにも身近なものです。そんな時、64分の1デナリしか入れなかったやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去られたかもしれません。

 ところが、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、まさになけなしの金であったことを見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実性はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。

 天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命と人生を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見てみます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。

 このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知って下さり、絶えず目を注いでいて下さる、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、それは、神に忘れられたとか、見捨てられたとか、そういうことでは全くないのです。そのような状況を、まさに神に支えられて一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい危険な状況を通らねばならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることです。私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いの神が同じように方向修正をしてくれます。不意にトントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということなのです。それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。

 

3.

 以上、神の目は御自分が造られた人間一人一人の上に絶えず注がれており、特に人の目には取るに足らないと見なされる者にこそ注がれるということについて申し上げました。本日の福音書の箇所が教えるもう一つの大切なことをみていきましょう。それは、何が正しい礼拝の形かについて考えさせるということです。礼拝とは普通、教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の宗教的儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕えて捧げものをすることです。神に仕えて捧げものをすることは、宗教的儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰においては、生きること自体が神に仕えて捧げものをするようになって礼拝的になっていくことを忘れてはなりません。

 本日の箇所は、やもめの献身の真実さを示すことで、一種の美談として理解されるかもしれません。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが皆さんは気になりませんか?本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。使徒言行録2章をみると、聖霊降臨の出来事の後に教会が誕生して、そこで信徒たちが自分たちの財産や持ち物を売って、おのおの必要に応じて分けあったことが記されています。どうか、このやもめも信者の共同体の中で無事を得られたように願わずにはいられません。

 そういうわけで、本日の箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないかと思います。本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて読むと明らかになります。まず、本日の出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めをみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っている、と神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが戦利品のように略奪の対象になっていることがあげられています。

イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったと考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その後で本日の箇所の出来事がきます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にするのです。本日の箇所の次をみると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の場所はもう存在に値しないということであります。そして、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年程の後でローマ帝国の大軍によって破壊されてしまいます。

 ところでイエス様は、やもめの捧げ物が金持ちの捧げ物よりも大きな価値があるとは認めますが、それでやもめが神の国に入れるとかそこまでは言っていません。イエス様としては、100%神に捧げることは重要であるが、ただ、それが自分の持ちものから捧げ物をして神から見返りに何か恩恵を受けようとする、そんな捧げ方には反対なのです。そんな仕方で100%捧げても、それは神殿の礼拝の論理で動いていることにかわりありません。神に捧げることは重要であるが、見返りの恩恵のために捧げるのではない捧げ、しかも、捧げるからには100%捧げてしまうことが当たり前になるような捧げ、そのような前例のない神への捧げを可能にするためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、ある意味でそのような新しい捧げを先取りするものでした。イエス様はそれを神殿の礼拝の枠を打ち破って正しい方向に導いていくことを行ったのです。それでは、それはどのようにしてなされたのでしょうか?

 答えの鍵は、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24-28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちの基本路線が記されています。どんなことかと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて最も神聖な至聖所に入って行って自分の罪と民の罪の双方を神の前で償う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げた、ということです。神のひとり子の神聖な生け贄ですので、でもう1回限りで十分です。これでも足りないとばかり、また何か生け贄を捧げるようなことをすれば、それは、神のひとり子の犠牲では足りなかったと言うのと同じになって、それこそ神を冒涜することになります。

 そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、神からの罪の赦しがその人に効力を持ち始めるのです。こうして神から罪の赦しを受けられた人間は、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得られて、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神の御許の引き上げられて、自分の造り主のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。これがまさに「罪の赦しの救い」であります。

 このようなとてつもない救いを受けた私たちの礼拝のかたちはいかなるものになるのでしょうか?もう神から見返りの恩恵を得るために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来た恩恵を受け取りなさいと言われて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備してそれを行ってしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神とはなんと恵み深い方なのでしょうか!

 こうして恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、これからどうすればよいのでしょうか?何も神に捧げることはしなくてもよいのでしょうか?この疑問に対する答えは、「ローマの信徒への手紙」12章の最初の部分にあります。使徒パウロは次のように教えます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(1-2節)」。

 「なすべき礼拝」というのは、原語のギリシャ語(λογικος)では「理性的」とも「霊的」とも訳される言葉です。理性的な礼拝、霊的な礼拝とはとてもわかりにくいので、新共同訳では「なすべき礼拝」とうまくかわしたのではないかと思います。ルターのドイツ語訳やフィンランド語訳の聖書では「理性的な礼拝」、英語NIVでは本文には「霊的な礼拝」とあって、脚注に「理性的な礼拝でもよい」などとあります。スウェーデン語訳の聖書では「霊的な礼拝」です。次のように考えれば意味はわかります。まず、何が「理性的、霊的でない礼拝」かを考えます。言うまでもなく、それはエルサレムの神殿で行われていたような、人間が何か生け贄とか何かを捧げて罪を償ったり神から見返りとして恩恵を頂くという礼拝です。

ここで使徒パウロが教えることは次のことです。イエス様の十字架と復活の後はもうそういう礼拝の時代は過ぎ去ったのである。キリスト信仰者は、イエス様の十字架と復活を土台にして神から「罪の赦しの救い」の恩恵を受け取ったのである。だから、もう、恩恵を受け取る前の単なる肉だけの存在ではないのである。聖霊を注がれて新しい霊性を備えた存在なのである。神の恩恵が頭のてっぺんからつま先まで満たされているので、その人の体や心や魂は本当はもう神に喜ばれる聖なる生け贄になっているのだ。だから、本当は神の思いに反するこの世の思いに従わないのは当たり前のことになるのだ。イエス様の十字架と復活のゆえに心が一新して変えられた者として、何が神の御心か、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるのが当然になるのだ。パウロはこうしたことを読者に思い起こさせているのです。

こうなると、神の恩恵を受け取った人というのは、今生きているのは自分なのか神の意思なのかわからなくなります。使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」と言っている通りになります。しかしながら、現実の世界を生きていく時、いろんな課題に直面し人間関係に揉まれていくうちに、こうした霊的に研ぎ澄まされた心が濁ってきたり萎えてしまうことはしょっちゅうあります。まさにそこに信仰の戦い、霊的な戦いがあります。それゆえ、キリスト信仰者は絶えずイエス様の十字架のもとに立ち返って、あそこで自分は神から計り知れない恩恵を与えられたのだと思い起こさなければなりません。まさにそのために主日の礼拝が重要です。主日の礼拝は、十字架のもとに立ち返ることができる大事な時です。今まさにしているように神の御言葉を聞いてキリスト信仰者としての自分の立ち位置を確認します。また、恵み深き神を歌声をもって賛美し、神の助けと導きに信頼して祈りを捧げます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通して神から霊的な糧を受けます。その糧を受ける時、私たちは聖卓の前で神のみ前に全く無に等しい者として受けます。実に聖餐式では私たちは神に自分を100%捧げているのです。それこそ本日の福音書の箇所のやもめのように100%自分を神に捧げているのです。しかも、主の十字架と復活の後の時代に相応しい仕方で、です。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは既に神から罪の赦しの恵みを頂いているのですから、この世の思いに振り回されず、神の思いにしっかり立ち、自分を神に喜ばれる生け贄として捧げてまいりましょう。そして、十字架のもとに立ち返ることができる主日の礼拝を大切にしてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第25主日
2015年11月15日の聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章41-44節

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