説教「聖霊とは何者か?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭日です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が私たちの救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭の時、私たちの救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちが神のもとに戻れる道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持てて、神の真理に導かれて生きられるようになったことを喜び祝います。

 そこで、聖霊とは一体何でしょうか?イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行って福音を宣べ伝えるように命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、これら三つの人格を持つ者が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体のようだからです。ところが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。さらに、死から復活させられるが、その後で天の父なるみ神のもとに上げられることになる。それで弟子たちとは別れることになる。しかし、天の父のもとから聖霊を送るので、弟子たちがこの世に取り残されて一人ぼっちになるということはない。そのように聖霊を送る約束をします。イエス様は聖霊のことを「真理の霊」とか「弁護者」と呼びます。つまり、聖霊とは、私たちキリスト信仰者に天地創造の神の真理を教え、それに従って生きられるようにする方であり、また私たちを弁護して下さる方であるということです。それでは、神の真理とは何か?私たちを何に対して弁護してくれるのか?このことは、後ほど見ていこうと思います。

この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方です。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるのですが(12章7節)、そのようなものは他にも考えられます。ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。先ほど読んで頂いた聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は恵みの賜物とか聖霊の賜物と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。だから信仰者個人の希望や態度で決まることはありません。もし賜物が与えられても、与えることが出来る方は取り上げることも出来る方としっかりわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。

 

2.

  先ほど読んで頂いた使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されています。その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。復活の日から数えたら50日目です。イエス様の弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その頃エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭日だったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を授けられ、神の民として約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。一度国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのは、神が無から私たち人間を含めた万物を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところがイエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事、つまり、あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなくまさしく神の子で、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられた、そして大勢の人々の前に再び現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。

 天と地と人間を造られた神の偉大な業というものを、いろんな民族が理解できるようにそれぞれの言葉で語られたというのは、とても深い意味があります。本日の旧約聖書の日課は創世記11章でした。そこではバベルの塔の出来事が記されていました。最初人間たちには一つの言語しかなく、大きな事業を総動員をかけて行うのにコミュニケーションが楽でしやすかった。そこで人間たちは、神の座す天に届く塔を建設するという大事業に着手した。それを脅威に感じた神は、人間たちの言語をバラバラにして意思疎通を困難にして、住む場所もそれぞれの言語グループに分かれるようにして離れ離れにして、二度と大それた事業を行えないようにした、そういう出来事です。人間が創造主の神と張り合あうとするとろくなことがないということは、堕罪の時に証明済みでした。蛇の姿をした悪魔に「これを食べれば、神のようになれるぞ」とそそのかされて禁断の実を食べてしまう。その結果、人間に罪が入り込んで死ぬ存在となってしまい、神のもとを追放されて神との結びつきを失ってしまったのです。

そういうわけで、世界に沢山の言語があり、それを話す民族が沢山あるというのは、人間が一丸となって神に対抗しようとしないためなのです。私たちは、世界にたくさんの言語、民族があるという事実のなかに、人間を小さなものに留めておこうとする神の力や強さを見て取ることができるのです。

使徒言行録17章のなかに、伝道旅行でギリシャのアテネに到達した使徒パウロが野外集会場アレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人を前にして自分の信仰について弁明する場面があります。そこでパウロは、神がそれぞれの民族に住む場所を定めた時、民族が自分の場所で神を探し求めるようにする意図があったと述べています。しかしながら、諸民族の神の探し求め方はそれこそ暗闇の中を手探りで探すようなものになってしまい、それで人間はついつい自分の想像力に頼っていろんな拝む像を作りだしてきてしまった。しかし、それらは真の神とは何の関係もない、単なる偶像にしかすぎない。神の方では人間のこういう無知を長い間、我慢してきたのであるが、この無知の期間が終わらなければならない事態が起きた。というのは、神のひとり子が人間に救いをもたらすために十字架と復活の業を行ったからで、これらの出来事が起きた日からはもう神に関して無知でいることは許されなくなったのである。以上がアテネのアレオパゴスでのパウロの教えです。

そういうわけで、聖霊が弟子たちに全く未知の言語で神の偉大な業について語らせたという聖霊降臨の出来事は、全ての民族が天地創造の神について正しく知らなければならない時代、もはや神について無知が許されない時代の幕が開けられたということなのです。神について正しく知ることができるために、全ての民族に福音が伝えられていかねばならないのは言うまでもありません。諸民族のなかに福音が伝えられて神について正しく知られるようになればなるほど、言語の違いを超えて神の子とされる者が増えていき、こうして人間はバベルの塔の事件で失った統一性を、全く別の形で回復することになるのです。

 

3.

  さてペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について解き明しを始めます。ペテロの解き明しは大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分は、この異国の言葉を話し出すという現象は旧約聖書の預言の実現であるというところです。先ほど読んで頂いたようにペトロはヨエル書を引用しています(使徒2章14-21節)。それに続いてペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします。(22-40節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。

ペトロは、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現であるということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味をもっているのかについても解き明かしていきます。これは本日の箇所の後の2章22-40節にかけてあります。あの、神から力を授けられて無数の奇跡の業を行って神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者やローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というのは、もともと天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。それでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていた(25-28節、詩篇15篇)。

こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇109篇)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明らかになる(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません。自分たちはどうすればよいのか、という群衆の問いに、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは何かと言うと、イエス様が全ての人間の全ての罪を請け負って身代わりに罰を受けることで「罪の赦しの救い」が生み出されました。それを贈り物のように受け取ることが洗礼です。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側を離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

4.

  最後に聖霊が「真理の霊」、「弁護者」と言われるのはどういうことかについて見てみましょう。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事な事柄です。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが外面的にも内面的にも十戒の光に照らされた時、神の御心に沿う者でないことが示されると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、この自覚を失意と絶望に増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ」と。また、ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は神と私たちとの間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神のもとを立ち去ったりすれば、悪魔は目的を達成したことになるのです。

そのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあってもしっかり神のもとにとどまり、神の愛を信じられるように私たちを助けて下さいます。彼は罪の自覚を持つ私たちを神の御前で弁護して下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って私たちにも向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と言われます。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに神の真理を教えたり伝えたりするというよりは、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。まず、キリスト信仰者といえども私たちは十戒に照らせば罪を持っていることを知らせます。ここで悪魔は私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出てもやましいところは何もないと思って大丈夫なんだと大きな安心を得られ、神に対して感謝の気持ちで満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと注意深くなり、愛を全うしようと決意することができるのです。本当に畏れ多いことです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

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